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・・・独白。 (2006−2017)

ちなみに、この空間に於ける、更新のお知らせは致しませんので、あしからず。
そして、これら「独白」は、グローバルに向けて、発している部分もありますが、大体は自戒の意味も込めています。
よく忘れるので、ここに書いておいて、身に付ける為もあったりするのです。
そして、これらの言葉は 
「詩」ではありません

2005年度版へ


20XX年度

***

言葉は時に無力になる。
詩人でも、その言葉は、なんの力にならない時がある。
例えば、目の前で人が死んだ時など、どんな言葉をかければいいというのか。

詩人なら、どんな時でも、言葉を駆使しろと、言われるかもしれないが、
そうではないのである。

それは、詩人だけではなく、どんな人でも言葉が無力になるのだから仕方がない。
むしろ、言葉が有力な時でこそ、詩人の出番となるのである。



2016年度

***

私の詩には「愛」がない。
「恋歌」にしても、「愛しい」とだけしている。
なぜか?
これは、詩を書く上で、当初から意識していたものである。
何故なら「愛」は、すでに、尾崎豊が、最も優れた表現を残していたからである。

***

人は、目的を持って行動すると、上手くいかないような気がする。
目標ならいい。
目標の方が、目的よりも欲がないからか。




2015年度

***

好きも嫌いも、自分が決める。
心はいつも自由であり続ける。
たとえ、世界が不自由でも、心はいつも自由。



2014年度

***

私は、新しい方法など求めてはいない。
私は、新しい表現を求めているのだ。


***

「ねぇ、トントンは、なんで結婚しないの?」

「なんでってそれは、ロマンチストだからさ」

『イアン・クローデルの日常』より




2013年度

***

「だが、そんな偶然もやがては訪れなくなる。天才は早く、また、速いからだ。
その衰えも、常人より時間的に早いから・・・。
という事は、細く長く生きる人と、どちらが良いのか?
それは、君次第だがね。
選択出来るんだよ。天才をやめればいい。

でも、覚悟はいる。
何故なら、今まで簡単に出来た事が、全く出来なくなるから」

『イアン・クローデルの日常』より

***

男からしてみれば、
女心とは・・・、なるほど難しい。
勉強しても分からない事が多い。
それでも、男は、なんだかんだいって、
女心を学ぶ。

女性も、男に対し、文句を言う前に、
男心を研究してほしいものだ。





2012年度

***

私の作品は、後々残らなくてもいいし、私の名も残らなくていい。
作品は、自主とはいえ、出版されたのだから、国会図書館には残ってしまうが。

それでも、なんらかの影響を、私の作品から受けた人間が、
後の世に現れるのであれば、それはそれで嬉しい事である。
そしてその時、私の物語が、他人の手によって甦るのである。

***

「真実」は、恥らう。

***

個(我:アートマー:アートマン)というものは、在ると言えばあるし、無いと言えばない。
この事に関する理由は、後々作品「旅人」で語る事とするが、取り合えず、「個」が在るとした時。
世の中は馬鹿ばっかりだと思い、何故に個である自分を他人は理解してくれないのか? となった場合。

個からすれば、自分である「個(我)」以外の「他者」は、全て「個(我)」では無い。あくまで「他」である。
他者からすれば、私も「ただの馬鹿」なのである。

「死ぬのはいつも他人ばかりだった」byマルセル・デュシャン

私は人間嫌いであるが、心底人間を嫌う事が出来ない。そこが駄目であり、救いでもある。

***

私は結論を述べた後、正反対の結論で締め括る事が多くなった。
それは、矛盾しているようだし、どちらとも取れる二元論であり、本当の結論を述べてないと言われるかもしれないが、
ようは先に述べた結論の方が、自分の考え方であり、後に述べた結論は、他者が考えるかもしれない結論を書いている事が多い。
だとしても、先の結論が私の言いたい事だと限定されても困るが・・・。

スヤード・ヴァーダ論からしても、そうならざるを得ない。時と状況により、私自身も対処が変わるからでもある。
そして、私のジャイナ教や仏教解釈も、「本当」のジャイナや仏教とは違うと言う人もいるだろう。
だが、違うのはあなたとの「解釈」が違うだけである。

***

凄い人間を、垣間見た時、すぐにその人を越えようとするから狂うのだ。
一つずつ、時間を掛けて近づけばいい。

***

世の中狂っていると思う時があるだろう。
これは、含みとして世の人間が狂っているとも感じるものだ。
馬鹿ばっかりだ! と思うのも然り。
ただ、それでも世の中は、全体として支障なく流れているのであれば、
対象(その人、或いは自分)の状況や立場、環境などが、「その時だけ」左右されていると考えたい。
感情はそうもいかないと思うが・・・。



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2011年度

***

真実は、世に出るが、目立つ形では現れない。
不世出の天才
(この場合、「滅多に世に現れない程、優れている事」という正式な意味で使われているものではなく、
実力が有りながら、世に知られていない場合に、間違って使われている「不世出」に於いて)
などと言われる人間でも、必ず、世には出現し、知られるようになる。
目立たないとしても、誰かの目にとまり、
誰かがほっとかないから必ず世に出る。

近年に於いては、日本だけに留まり、世界に飛躍出来なかった対象を、
不世出と表しているようだが、それはどうかと思う。
天才は、日本だけであっても天才なのだ。

私は、ある女性詩人をネットで知ったが、彼女こそ不世出の天才であり、
彼女のような存在が確認されたという事は、やはり不世出は例外的に有り得るようだ。
彼女は、極端な恥ずかしがり屋で、詩集を出す意思がなく、詩を書いたノートを、
こっそり人に見せるだけといった感覚で、
やがては消えてしまう、掲示板に披露していただけであったから・・・。
その詩は、まぎれもなく天才の詩であったのに、
勿体無い、非常に勿体無い・・・、彼女の詩こそ世に出るべきで、
勿体無いとは、まさに彼女の詩が、世に出ない事を指すようなものだ・・・pea様。

***

不用意な批判は、自らをも破滅に追い込む。

***

「天才は苦手だ。偶然を味方に付ける能力があるからね。
しかも、奇跡的な偶然をもさ」

『イアン・クローデルの日常』より

***

人との付き合い、人間関係を持続させたいなら、相手にあまり干渉しない事だ。
「あーやれ、こーやれ」といった不満や文句をすぐに口走る。
夫婦関係などは、特にそうではなかろうか。
しかも、何も解決策を講じない。
人は、すぐには変わらないものである。自分を鑑みれば分かる筈である。
パートナーと上手くいかないと悩む前に、自分の言動に気を付けるだけで、
天と地の差があるだろう。口は災いの元。

とはいえ、パートナーとなった相手に対して、価値観の違いや、
予測した行動や、言動をしてくれなければ、確かに不満が出てくる。
これに関しては、時間をかけて対峙するか、遠まわしに例を挙げるとよい。
他人の行動や言動を、パートナーの思い当たる行動や言動に、
置き換えて言うのも手である。
それも、相手に悟られないように、冷静かつ解決策も考えながら。
これは、相手の行動や言動などを覚えておいて、
相手が忘れた頃に、例を挙げて置き換えれば、
相手は、自分の事だとはその時思わないであろうから、
後々、気付くのを待てば良いとなる。

それと、結果を出さなければならない、能力などに関しては、
結果が出るまで、パートナーと一緒に練習してやるぐらいの時間を割いてやるのが、
真の相手に対する「思いやり」となるだろう。

相手に、不満や文句を言って、相手を変えさせようとする、直截的な解決方法は、
弱肉強食の世の中や、競争原理のもとに行われる社会であれば、まだ分かるといった所だが、
せめて、好きな相手には、相手の気持ちを考える労力を惜しまずに、接して貰いたいものだ。

***

「・・・教えてもいいが、どうせ信じてもらえないのなら、言うだけ無駄だ。
自分なりに、成功した部類はあるが、それを他人がやったとして、
同じように成功するかどうかは保障出来ないからね」

『イアン・クローデルの日常』より

***

ネットやメールのようなコミュニケーションに於いて、
質問めいた会話になったとすると「検索すればいいだろう」という答えは実につまらない。
確かに、それですぐ解決する場合もあるだろうが、当人としては相手の「応え」を聞きたいからであるし、
ネットに書かれてある以上の答えを持っているかもしれないという期待もある。
ネットに書かれてある「答え」を、相手は肯定するのか、否定するのか、その選択を聞きたい場合もあるし、
なにより「会話」の一環として、質問自体を拒否されたのでは、成り立たないように思われる。
応戦ではないが、「応え」合う会話こそが、会話のきっかけや出発というものになると思うのだが。

***

詩の「読み方」を知らない人は多い。

***

人を馬鹿にする事から疎遠が始まる。

***

模倣について書いて置こうと思う。

模倣といえば、我が心の師匠寺山修司は、他人の模倣をよくしていたそうである。
ある寺山に親しい批評家は、「純粋に影響を受けすぎるからそうなる」と言っていた。
デビュー時点の短歌で、すでに中村草田男の影響が強すぎ、その後も結構派手に様々な人の模倣をしていたようである。
そういう事もあり、創作者としては、なかなか認めてもらえない節があるのかもしれない。
私は、気が付いたものは削除する。無意識に影響を受けてしまうものはあるのだが、
清書していて気が付いたり、それがあまりにも露骨であれば、真似と言われるのが嫌なので、削除したり表現を変えたりする。
ただ、昔から使い古されている言葉であっても、自身、昔より効果的に表現出来ているものに関しては、そのまま使っている。
昔から使われている場面や手法とは、異なると考えたものは使うしかない。
例えば「遠い過去に泣き濡れた 煙のような魂は」に於ける「遠い過去に泣き濡れた」などは、
昔からよく聞く見る表現であるが、煙草の「煙のような魂は」と付け加えると、
詩としては、私の物語の場面になる為、私の表現として成り立つと考えるからだ。
ま、あの詩自体、リズムが独特なのではあるが。
「空が落ちてくる」という表現も、キャロル・キングの歌にあるもので、リリックはラブソングであり
ラブソングとは関係ない「港街」の孤独な場面で使えば、また違った物語と世界観が出来上がると考える。

「模倣」と「影響」は違うという所だが、「影響」は無意識な部分が有り、「模倣」は意識的と言ってよいだろう。
影響を受けたといっても、原作とそのままというのは、やはり良くない事であるし、自分で気付き、止めるなり使い方を工夫するなり、
最後はセンスの問題だが、どうしても一部使わざるを得ないのであれば、
原作を明かし、リスペクトを示さなければならないと考える。ただ、原作を明かせば何をやってもいいという訳でもない。

その原作者も、先人からの影響は受ける。
そして、受け継ぐにしても、劣化させず、或いは、骨格をベースに、より優れた表現へと磨かなくては、
原作者に対しても失礼であるし、また、センスの良い人は、原作を明かさなければ、その人が発明したとされ、
逆に原作者の方が、真似をしたと思われては、原作者に対して、非常に申し訳が立たないとすべきだ。
実際、ランボォも当初はボードレールの影響下にあり、模倣から始めたという事も事実ではあるが、
ランボォの場合は、そこから自身オリジナルへの発展の仕方が極端であり、
他の追随を許さなければ、自己表現を確立したといってよいだろう。

まあ、人より優れた能力など、所詮僅かなものだが。

***

人は少なからず業を背負って生きていくものだ。
それに気付いて生きている人は少ない。それに背を向けている人は多い。
そして、それを再認識する勇気を持った人は、貴重である。

***

That's the meaning of life(それが、人生の意味) by「ニューエイジ」

佐野元春が、「今夜だけは君と輝いていたい! That's the meaning of life!」と歌えば、
尾崎豊は「今の音楽界で、That's the meaning of lifeと、歌う資格があるのは佐野元春だけだ」と語った。
尾崎豊は、佐野元春が歌う人生の意味について、単に「君と輝いていたい」とする事が、
「人生の意味」と捉えていた訳ではないと考えられる。
もっと、人間の根本的な事に対して、その意味を指し示したのではないか。
でなければ、「今の音楽界で」という言葉は出なかった筈である。

私が、最近思う事は、「人生の意味」とは、普通、結婚して、パートナーと共に家庭を築き、
子供が出来たら、その子を育て上げる。これが、一般に人生の意味であると考えていた。
だからこそ、既婚者は、独身者に結婚を勧めるとも思うし、それで一人前の大人になるのだと言う。
それは分かる。責任というものが発生するからだ。

だが、結婚しても、上手く家庭を築けず、離婚した者にとって、人生の意味はどうあるべきなのだろうか?
子供が出来なかった家庭は、人生の意味が半減してしまうのか?
妻も子供もいるのに、家庭生活が崩壊している場合、そこに人生の意味は見出せるのだろうか?
いずれも、結婚したからといって、必ずしもそこに「人生の意味」を、見出せるとは限らなくなる。
そして、独身者はどうすべきか? 
そう、私のような独身者にも、生きる意味を語らなければならないと思った。
いや、独身者だけではなく、「人生の意味」を全う出来なかった人達にも。

私はふと、岸恵子を思い出した。彼女は結婚して子供もいるのだが(後に離婚している)、
印象としては「女一人パリへの道」といった趣である。
彼女のパリに対するアプローチや、行動が、それだけで人々に影響を与えている。
彼女はパリに憧れ、人々はパリに憧れるエレガントな彼女に、また憧れる。
つまり、独り者はどう生きるか? という事が見えてきたような気がする。
彼女の生き方に、答えがあったのである。

思えば、仕事の対人関係でも、家庭内の事でも、相手に「良き影響」を与える事が出来れば、
これこそ、「人生の意味」があるのではないか。

結婚したら妻に対して、妻は夫に対して、両親は子供に対して、「良き影響」を与えられ、それで死んでゆき、
人生を全う出来たのであれば、そこに「人生の意味」があったと、堂々と言える。

子供のいない家庭でも、パートナーに対して「良き影響」を与えられれば良いのではないか。

たった一人でも、行動力によって、たった一人の相手しかいなくとも、その人に良き影響を与えられるのならば、
それで「人生の意味」は、見出せる筈である。

私ならば、少ないながらも、こうして文章により、人に影響を与える事が出来る。
それならば、未だ「人生の意味」を持ち得ない人は、自分の生きざまと行動力に於いて、
人に「良き影響」を与えられるようにする事が、「人生の意味」を持ち得るのではないか。
そこにこそ、結婚をしていなくとも「人生の意味」が見出せる筈だ。
もし、「良き影響」を与えられる人が一人もいないのであれば、
出会う時に備えて、「努力」と「準備」をしておけばいいのではないか。

***

相手と向き合う時などの喋り言葉と、手紙やメールなどの文章での言葉には、
かなり、隔たりがあるように思う。
相手の表情や、場の雰囲気がないメールのやり取りは、誤解も生じる。
面白いのは、メールでのやり取りで、最初は不快に思った事でも、
二度目に読むと、そうでもなく、こちらが不快に思うような内容ではなかったりする。
メールは二度三度読み返す事をお勧めする。

***

相手に、自分と同じレベルか、それ以上のレベルを、すぐに求めるのは酷というものだ。
相手のレベルを理解して合わせるか、相手には干渉しない事だ。
ただし、相手が劣ると感じても、それは対象によって変わるかもしれない。
土俵が違えば、相手が自分以上のレベルを示すかもしれない。
ここでも、多様性の理解が必要である。人は人、自分は自分である。
どうしても、同じ土俵で、相手のレベルを上げたいのなら、時間を掛けて向き合うしかない。

***

人生に於いて、結果がいつも伴わなかったり、選択ミスばかりだと思ったら・・・。
選択する時に、「無理」をしないよう心掛ける事だ。
選択しないという手もある。
どうしても選択しなければならないなら、取り敢えず「時間」を掛ける事。
合理的で計算高くしても、駄目な時が多い。そういう時は、「本能」で選択してもいい。
少しでも嫌だと思ったら、計算せずに、「本能」で別の選択をするといい。

あとは「冷静」さを持つ事。
激しい恋が失敗するように、激しい感情のまま、選択すると失敗が多い。
人生、上手くいく時は、冷静なままに、期待しない時の方が、結果が付いてくる事多し。
そして、身近な事や、身近な人に本当の「答え」があったりするもの。
身近な事や、身近な人は、すでに無理のないものだから。

***

自分が変わる時、大抵は他者が関わっているものだ。
他者によって、自分は変わろうとするし、自分は変わる。
そして、なによりも自分が変わる最大のきっかけは、恋である。

***

自分の行動や、自分の発した言動により、人が自分の事をどう思うのか、
分からない人やお構いなしの人が多い。
自分にとって評価を悪くする、不利な事を自ら言う。

余計な事は言わない事だ。
わざわざ、自分の人間としての評価を下げるような言動は慎むべきである。

***

「彼女は自由に踊りたいだけ。
周りも彼女を自由に躍らせてやらないといけない。
だって、彼女は常に主役なのだから。
それは、日常に於いてもそうなんだよ。
だから、周りは脇役に徹しなければならない」

『イアン・クローデルの日常』より


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2010年度

***

年齢など関係なく、俺は尾崎豊を聴き続ける。
歌詞が十代のものだからなどという事は関係ない。
その世界観、その声だけでも、
この、クソったれの世の中で、唯一の精神安定剤になるからだ!!

***

自分は、相手の立場を考えた時、惚れてはいけない人であれば、惚れないように出来た。
自分で言うのもなんだが、自制心も理性も強く、頭で恋愛する人間なので、
今までも、惚れてはいけない人に対して、惚れないように出来た。
そして、今回も惚れない事には成功したが、
ちょっとだけ、「恋」をしてしまったかもしれない。

***

真に大切な人に対しては、気を使わず、
後回しにしたり、無碍に扱ってしまうものだ。
気心が知れているからと、遠慮なく接していると、
そのうち相手は、離れて行ってしまう。
大切な存在を失くした時、初めてその存在の大きさが解り、
失った時の後悔は、計り知れないものがある。

***

男がロマンティストである場合、
女性と話す時は、気をつけなければならない。
女性は、ロマンティックな事が好きそうだが、
男のロマンには理解を示さないからである。

***

運命の人に出会ったとして、その人と本当に結婚したとしても、
その人が、必ずしも幸せにしてくれるとは限らない。
運命の人とは、「結婚する人」というだけかもしれないからである。

***

人との付き合い方に於いて、少なからず言えるのは、
場面場面で、自分が楽しんでばかりいては、相手が楽しめないという事。
対話に於いても、自分ばかり発言していると、相手はつまらなくなる。
一緒に楽しめた場面でも、調子に乗って、自分だけ突出して楽しんでいると、
相手は、自分が置き去りにされているように感じてしまう。
相手を、本当に楽しませてあげたいのなら、まず、自分は最後の所で冷静である事が肝心。
自分が、楽しめないなら、つまらないと思うのであれば、自分が楽しむ方向性や視点を変えるのである。
相手が楽しければ、自分も楽しいとすれば良い。
相手の喜ぶ顔が見られれば、自分も楽しいとすれば良い。

***

結局、人から好かれようが嫌われようが、気にしない方がいい場合もある。
嫌われた場合、原因を反省して努力しないといけないが、
例えば尊敬するアーティスト等が、全ての人から好かれているのかというと、そうではない。
あの、偉大なる人でさえ、悪口を言われていると知った時、
自分の存在バランスを整える事が出来よう。

仕事関係にしてもそうである。
どんなに仕事が出来る人でも、誰かしらに悪口を言われてしまうものである。
悪口を言われない人など、いないのである。

仕事内容に対しての指摘は、もちろん受け止めたほうが良いが、
いざとなったら、全ての悪口は、相手にしなくていい。
悪口を言われただけで、既に本人の感情には届いている。
それら全てを受け入れてしまうと、自分自身が壊れてしまうから。

***

人のミスを、いちいち指摘しても、相手にストレスを与えるだけで、
解決にはならないだろう。
相手は言われて、嫌がるだけであり、ミスを指摘した本人が嫌われ、損をする場合もある。
相手の気持ちを考えて言わなければならない。
一言多い人も同じ。言ったもん負け。
言うなら、柔らかく、静かに、一対一で、かつ真剣に。
そして、相手に気を使いつつ言う事。

「隣人を侮る者は、賢くない」 ユダヤ人のことわざ

そして、必ず解決策を用意してあげる事である。
解決策を言わずに、ただ文句ばかり言っても、人に嫌われるだけで、
己にも悪い影響だけが残る。

***

〜人間は感情の生き物である〜

よく、人に対してキツい言い方をする人がいるが、それは単にイラついたりしているだけの人が多い。
良心的に捉えたら、相手に直してもらいたいからといった理由があったりするが、
キツい言い方をしても、相手はすぐに変ったりしない。
不快に思うからである。
すぐには自分の非を認めたくないという感情も働く。

今まで、キツい言い方をする人や、或いは性格の悪い人などを見てきたが、
その人の発する言葉には応用の欠片もない。
相手の感情を配慮するような形で、怒るのではなく、冷静に叱るのならば、相手も聞き入れよう。
だが、尊敬もされていない人間に、怒られても、不快なだけなのである。
相手に悟らせたいのであれば、まず、自分は尊敬されているか、
そういう行いをしてきた人間であるという、確固たる証明があっての物種だ。
立場や地位などは関係ない。

キツい言い方など、はっきり言って誰にでも出来るのだ。

実際、キツく言われて、反省し、追々直っていった場合もあるが、
その人とは完全に関係ない環境になってから、少なからず感謝はすれど、遺恨は残り、
再びその人のそばには近づきたいとは思わない。

また、キツく言った相手が、すぐにその事に対して変ったので、
自分のした事は、良い事だったと考えたとしよう。
だが、それは結果論であり、実際、相手の為に言ったのだとしても、相手には伝わらない。
恨まれたり、敬遠されるのがオチで、心の底からは感謝などされないものだ。
なぜなら、人には動物とは違う、高度な感情というものがあるからである。
プライドもそうだ。

確かに、環境によっては、そういう人も必要な場合はある。役割もあったりはする。
でも、相手が精神をおかしくしたり、自殺などをしたら、どう責任を取るつもりなのだろう。
仕事上の事だからと、なんでも許されると思っていたら、大間違いである。

嫌われるならば、嫌われる事を徹底的に覚悟してほしい。
そういう人は、意外と自分はキツい事を言ってないと思っていたり、
自分は正しくて、嫌われてはいないと思っていたりするから、始末が悪い。

「仕事の出来る人」に多いから、経営上認められてしまっているが、云わば人として失格である。
相手が存在するからこその自分であるという事が、分かっていない愚者である。

キツい事を言った後での、フォローなんかはいらない。そんな事は通じない。
キツい言い方を改めなければならない。
それが出来ないのは、単に、人格も頭も悪いだけであるから。

***

世の中に於いて、たとえ間違った結果が伴ったとしても、
合理的で説得力のある理論の元に、
仕事をするなり、行動していれば、人々は納得する。

スポーツなどに於ける、「結果よりも経過や努力が大切」というのは分かる。
だが、仕事に於いて、結果よりも合理的な理論を優先するというのはどうかと思う。
恐らく、合理的な理論で仕事をする方が正解ではあるが、
多様性や多角的に考えて仕事をする人も認めてもらいたいものだ。
結果が伴うとして、決め付けの理論通りに行動するとしても、
その理論が、今回の結果に即したものかどうかは、意外と本人は気付いていない場合がある。
合理的な理論とは、一本調子の理論が多い。
結果も含めて、理論も多角的に考えて行動する人は少ない。

例を挙げると、現役のミスターGこと長嶋は、結果が出なくとも、
努力や経過があれば人々は納得した。
だが、監督となった場合、その戦略にも結果にも、目を向けられてしまう。
その監督時代の、長嶋采配を理論で理解出来なくてもいい。
だが、長嶋監督は当然、チームの優勝を目指して采配をふるったのである。
この長嶋監督の監督としての仕事を、理解出来るか出来ないかの問題という事である。
私は、理解する。

***

全人類が、完璧に解り合う事は不可能だろう。

であれば、ケネディが演説したように、「相手の多様性を認めよう」とする事がベストである。
人との共通認識は、ごくごく少数なら有り得るが、
大局にある人間同士の認識は、これから更に細分化されるだろう。

***

最近、現実に相対する人とのコミュニケーションに苦労する。
まるで、話をこちらが聞いてなく、理解出来ていないように取られる場合もある。
こちらからすれば、そういう相手こそ、私の話を理解出来ていないのである。
思うに、その話す相手との、合う合わないが顕著になっているのだと思う。
価値観の問題もある。会話に、主語が少なくなっている問題もある。
読解力の問題もある。人としてのレベルの問題もある。

だが、話が合う人とは、なんの食い違いも無く話せる。
そして、そういう人は、私が特に頭が良い人だと認めている人ばかりであり、
そういう人としか、まともな事は話せなくなる事が顕著になってきた。

どうも、宜しくない人と話すと、実害ばかりである。
相手の多様性を認めない人が多すぎるのも現実であるから、さすれば、
こちらも、そういう人に理解を求めるのは諦めた方がよいようである。

***

バランスを取るとはいえ、五分五分ばかりが良いという訳でもない。
事象によっては、七分三分が良い時もある。
その七分三分で、理想的なバランスが保たれるという場合もあるのだ。

***

人の業を見て、己を諭す。

***

〜だから、時代なんてアテにならない〜

仏教観に触れるのは、いい事だ。キリスト教も然り。
ただ、「旅人」のような作品を書いていると、誤解を受けそうなので、あえて言うが、
私は、既存の宗教は基本的に嫌いである。
当然、私が新たな宗教を起こそうとも思っていないし、それは絶対に有り得ない(笑)
その世界観は好きだが、小乗仏教も、大乗も、カトリックもプロテスタントも、現存している宗教は全て嫌いである。新興宗教も然り。
仏陀やキリストなど、その人自身に興味があるという事である。
ただ、牧師さんやシスターなど、布教に対してきちんと距離を取っているような方々には、そんな事は言えない。
実際に会えば、私は尊敬の意を表する。それが、礼儀というものだ。
ちなみに、ユダヤ教は、布教というものがない分、まだマシか。あれはあれで、問題はあるが。

小乗からさらに原始仏教へ。古くなればなるほど、その原型は留めている。
もちろん、古くても間違っているものもある。
仏教研究家などが、近代に於ける大乗仏教批判は、いいかげんやめたらどうだろう、などと言う。
そんな事は、暇人の宗教研究家先生だからこそ、言える事である。
スヤード・ヴァーダ理論から俯瞰すれば、研究者の言っている事は、
正しい部分もあるが、間違っている部分もあり、
それを、正しいとはっきり評価できるのは、「時代」という気まぐれな存在だけである。

***

「どうやら出番は終ったようだ。役目なんて大層なものじゃない、出番だよ。出番が終ったんだ」

「寂しい? そうじゃないんだ。経験の浅い子達には、惜しみなく教えよう。
でも、いずれはその子達も経験を積んでゆく。そうすれば、もうそれでいいんだよ。
私の教えた経験を踏み台にして、新たに踏み出せばいい。
その時は、すでに私のような先人は、邪魔になるだけなのさ」

『イアン・クローデルの日常』より

***

ネットの書き込み等にしてもそうだが、「批判」は時として自らの経験不足を露呈する場合が多い。
見ていて非常に恥ずかしい輩が多い。

荒れている掲示板などは、経験者の一言で解決する場合がある。
その場合、自分がどれだけ経験しているかを示さなければならないが。

ただ、それでも解決しない場合も多い。
それは、まるっきり人の話を聞かない、理解しない輩が多いからである。
そして、文章を読んでの、読解力の無い人も多い。

***

自作品「旅人」の解説に於いて、記憶力とは集中力だとしたが、
では、集中力を発揮するにはどうしたらいいか。
記憶しなければならない対象を「好き」になる事である。
どんなにつまらない対象でも、興味を持ち、好きになれば記憶出来るようになる。
そして、そういう「状態」を、作る事だ。
だが、その「状態」を長く維持する事は、お勧め出来ない。

苦労し、意識しなくとも頭の良い人はいるが、それは、持って生まれたものである。
そういう人は記憶力を自然に発揮出来るから大丈夫だが、無理して記憶力を研ぎ澄ましたりすると、
それは自然では無い為、「無理」というものが生じる。
つまり、事故を起こしやすいのだ。

人間、真剣になり、追い込まれると、計らずも研ぎ澄まされた「状態」になる事もある。
それを維持していくのは、決心をして折り合いをつけつつ、継続していくのも手ではある。
うまく現実的になり、超絶なバランス(それすらも出来るようになる)を取っていくのであれば、
まあ、大丈夫であろうが、それでも私はお勧め出来ない。
私にとって「人生の意味」が、そこには無かったからである。
価値観の相違だから、選択をしたのであれば、異は唱えないが、
必ず、失うものがあるという事だけは言っておく。
あの「状態」の時は、万能に感じるので、そういう時に、何を言っても論理的に受け付けないであろうが。

私の今の「状態」は、たいした事はない。
文学脳というか、記憶力は文学を書く事にだけ、特化したようなもので、
過去の出来事や見聞きした事、風景、感情、思考などには、記憶力を働かせられるが、
むしろ、日常は下手を打ってばかりである。でも、非常に気は楽である。

***

鳥が、人の頭近くを急降下し、旋回して戻って行った。
或る人は「鳥が人間を威嚇したのだ」と言う。
或る人は「鳥が人間を馬鹿にしたのだ」と言う。
或る人は「鳥が人間に挨拶をしたのだ」と言い、
「あの人は只者ではない」と言う。

***

作品作りに於いて、常々「構成を変える程の書き足しや、修正は出来ない」と言ってきた。
これは生まれてきた作品に対してである。
その作品も、もちろん言葉尻や漢字など、仕上げの時には修正する。
時間が経って気が付き、また言葉尻を直す事もある。
だが、構成を組み替えたりの大幅な修正は出来ない。

出来るのは、解説文などの意図的な文章である。
であるから、「作者夜話(Various talks)」などは、
書き足しや構成を変える事が出来るのである。

真実は一つの時もあるが、複数の時もある。
常にそれを念頭に置かないと、本当の事には辿り着かない。

***

私にとって、シュールレアリスムとは、ロックンロールだ。

***

別段、過去を振り返る事や、思い出に浸る事を、賞賛しているつもりはない。
前向きに生きる為、過去は振り返らないという手もあるだろう。
ただ、私は過去を振り返ったり、思い出に浸ったりしても、
前向きに生きる事が出来るだけである。

***

真実が、偽りだったと知り、がっかりしても、諦めてはいけない。
実は、その先にまた、真実が隠れていたりする。

***

私は勉強嫌いだったが、変に知識欲があるので、興味のある事にはのめりこんでしまう。
結局それが雑学を身に付けてしまう事になるのだが、
自分が納得して知りたいと思うものに関しては、勉強する。
人に強制されたり、自身納得がいかずにやらされる学校の勉強というものに対して、
拒否反応を示してしまうのである。

「人間死ぬまで勉強である」という言葉は、その通りだと思う。
この情報社会という訳でもないだろうが、歳を取っても学ぶ事は多い。
だが、ランボォではないが、一時期「知り飽きた」と感じた事があった。
そうなると、世の中は実につまらなくなる。
謎は、解明かされない方が、良い場合もあると知った。

***

勉強嫌いな私が、文章を書けるようになった理由は、七歳の頃、友達と競って伝記シリーズの本を読みまくったからだと思える。
最近の研究で、七歳までにした事は、習い事などもそうだが、一生身に付くらしい。
三つ子の魂百までとは、科学的にいうと七歳までとなるかもしれない。
伝記シリーズとは、ポプラ社のもので、このことからも「です。ます調」が、しっかりと身に付いたものと考えられる。
実際、集中して本を読んだその後、不思議と直後は駄目であったが、二年程経ってからは、勉強をしなくとも、国語の成績は良かった。
その後もずっと、文系の教科は成績が安定していた。

そして、十五歳の頃、中原中也の詩に出会い、十九歳にランボォの詩と正面衝突した。
この十五と十九までの、芸術にのめり込んだ時期が、私の芸術的貯蓄というものであった。
以後は出し尽くすばかりであるから、出し惜しみをするのかもしれない(笑)

***

〜大人が教えてくれなかった事〜 文学少年少女達へ

下記で、アルバイトのパートシステムでは、社会の事が分からないと書いたが、
アルバイト先に、就業時間の最後まで残って仕事をするのならば、話は別になる。
それならば、たとえアルバイトでも、仕事の仕組みが分かるようになるので、
もし、気に入った職種があれば、最初はアルバイトで入り、極端な話、戸締りするまで残れば、
アルバイトとはいえ、仕事の流れがよく分かってくる。
実は、私もその口であった。
周りから帰っていいと言われても、変に粘って最後まで、仕事に付き合うと、
仕事というものは、どういうものかが分かるし、周囲の態度も変ってくる。

早くに自分の方向性を決めろといっても、なかなか見つからないものである。
であるならば、様々な職種を経験出来る年齢の内に、
自分に合った職というものが見えてくる可能性を、私は示唆する。
可能性というものは、経験から芽生えるもので、

自分が好きな職業を目指すより。自分に合った職業を選ぶべきである。

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〜大人が教えてくれなかった事〜 文学少年少女達へ

社会的に、理系と文系と、それぞれが発揮できる仕事とは、何になるかというと、
理系は研究や設計、技術開発などとなるだろう。
文系は、何かというと「営業」という事になってしまう。
私の最も不得意な仕事だ。
だがこれは、あくまでも一般的な解釈ではあるし、例外もあるのだが、
社会に出るとそれが身に染みてよく分かる。
自分の特性に合った職種を選ばないと、結局無理している事となり、長続きしない。
「営業」は性格に関わってくるものでもあるので、嫌であれば無理せずに他の職種を選んだ方が無難である。
そうすると、結局職種は限られてくるので、やはり早いうちから、ある程度は自分のやりたい事を、
現実的に決めておいた方が良いという事になる。

ちなみに、アルバイトでは、社会の仕組みはよく分からないで終ってしまう可能性が高い。
パートタイム労働なので、責任を負わなくてもいいからである。
それと、仕事の流れを把握しにくいから、会社のシステムや、仕事全体が分からないまま終る可能性が大である。
人間関係も、アルバイトだからと、社会の仕組みに関する知識も教えてくれない場合が多いからだ。
アルバイトとは、簡単に辞められるシステムなので、すぐに辞めてしまうような職種の人間に、
深く関わろうとは思わない人が大多数である。

例外的な部分は、もちろんあるだろうが、どんな経路で職に就くにしても、
早くに自分の得意とするものを見つけ出し、自分の性質を考えて、
道を選択したほうが賢明であるといえる。

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〜大人が教えてくれなかった事〜 文学少年少女達へ

私が高校生の時、大学出というものは、社会に出た時、まず定期採用という立場になれる。
簡単にいうと、社員になれるかなれないかが、大卒と高卒の違いだった。
だが、今の時代は、派遣法の出現で、大卒でもなかなか社員になれないようである。
すべからく、私の方向性は今の時代、有利に働いてしまったが、たまたまである。
出世レースに乗っからない、手に職の世界は、私にとって正解ではあった。
では、大学出のメリットとは何か?
これは今の時代でも有効性を保持しているが、職業選択が広がるという事である。
自分の就きたい職業を洗い出した時、大学を出てないと採用してくれなければ、大学を出るべきである。
当たり前ではある。
その中でも、誰もが知っているような、所謂六大学に進めれば更に有利である。
自分の就きたい職業の人間が、どういう大学に出ているのか分かれば、その大学を目指した方がよい。

とどのつまりは、有名大学とそれ以外の大学という区別が、歴然と残っているのもまた社会というものだ。
学閥というものもある。同じ大学の出身という事でも、出世が違ってきたりもする。
高校時代、そういう事を分かっていて、勉学に勤しみ、希望する大学を目指しているなら納得がいく。
でも、周りには、ただ「遊べるから」という理由だけで、とりあえず大学に行くという連中が多かった。
今となっては良い時代だったのかもしれないが、私には尚更拒否反応を起こすのに充分な方向性であった。
方向性・・・、そう、方向性が決まって無いなら、取り合えず大学に行きなさい、という事もよく教師からは言われた。
当時の私は当然、そういう言葉にも拒否反応であったが、これはある意味、手に職をつけようとは思わない人達にとっては正解である。
それで志望とは違う大学を出ても、社会を知り、自分のやりたい事が見つかったら、
再び、自分の方向性に則った大学を受け直すという手もあるからである。
ただ、新卒の違いと金銭的な問題は残るが。

若いうちから、職業を限定しない方がよいというのが、大人の言い分ではあるが、
ようは自分が、何に向いているのか、自分が一体どういう資質を持っているのか、
はっきり解らず社会に出たので、そういう理屈が出現する訳である。
まあ、大抵は自分の資質を理解出来ずに、後になって向いてなかったから、
あの時、職種を限定しなければよかったと、そういう失敗から発生する言い分なのであろうが。

社会に出てから今の仕事に不満だらけで、より希望する職に就けなかったという後悔をしても、
歳を取れば、そこから努力しようとは思わなくなってくる。
志望する大学に行けず、挫折を味わったという人も多いであろう。
であるなら、むしろ早めに社会に出た方が、新たな自分の方向性を見出しやすい。
若いうちなら、パワーがある分、いくらでもやり直せる。

「十七歳、やや分別に欠ける」とは、ランボォの言葉だが、そのくらいの歳になったら、
大雑把でもいいので、自分の方向性ぐらい決めて置かないと、後々苦しむのは自分であるという事を言っておきたい。

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〜大人が教えてくれなかった事〜 文学少年少女達へ

学校の勉強は何故必要なのか?
これは社会に出て仕事をするにしても、結局、勉強をする時のような「新しく学ぶ」という場面が、大半を占めるからだ。
そして、勉強が出来る子は大人になっても応用が効く。
ただし、勉強が出来たのに、社会に出ても力を発揮できないならば、
それは、選択した仕事が間違っていると考えられる。

では勉強が出来ない子は、どうするのか?
基本的に勉強が出来ないという事はない。ようは勉強に取り組めるかであり、物事にどれだけ対処できるようになるかである。
物事に対処する事や仕事に対する取り組み方は、確かに勉強方法そのものだ。
身に付くのが遅くても早くても、物事を突き詰めてゆき、自分のものに出来るかが、勉強によって鍛えられる。
数学の方程式など、なんの役に立つのか? とよく疑問に思う。
だが、社会に出て物事や仕事に対処する時、どうしても上手くいかない時は、なんとかしようと頑張る。
その頑張り方は、数学の方程式を頑張って覚える事と同じなのだといえるのだ。
だからこそ、勉強が出来て成績が良いと、仕事でも役に立つという認識で採用されるのだ。
知識も大事だが、ようは勉強に取り組む頑張り方が、社会に出ても必要だからなのである。
訳の分からない方程式を覚える事に、納得がいかなくても、
社会に出ると、その納得のいかない事を覚えて、やっていかなければならない事が、山ほどあるのである。
特に数学が得意な人間は、社会に出てからは、何事に於いても有利である。
苦手ならば、得意になるとまではいかなくても、なんとか数学をこなせるぐらいになる努力が、
社会に出てからは非常に役に立つのである。
まあ、勉強が出来なくても目的意識があれば、自然と勉強も出来るようになるのではないかと思うが。

ではでは、私みたいに学校も勉強も嫌いな人間はどうするのか?
私は極端に人から強制されるのが嫌いだった。
脳が拒否反応を起こしていた。教師の話、いわば人の話を聞く事も苦手であった。
勉強も普通の人より拒否反応が強くて、勉強をする事自体、人より苦痛でしょうがなかった。
お手上げである。だが、どうにかするしかない。
さっさと、手に職をつけるようにすべきなのだ。親御さんは高学歴を諦めて、職人の世界を考えるべし。
実際、自分は中学生の時から手に職つけようと思っていた。それを理解すべきなのである。
そして、若ければ若いほど、技術というものは身に付きやすい。
社会に出て、勉強の大切さがよく分かったが、別段、今更後悔はしていない。
だって、大嫌いだったから。
私は納得するものであれば、努力は惜しまないし、今となって勉強の大切さを理解はしたが、
当時としてその重要性が解ったとしても、生理的に受け付けないのだから、後悔のしようがない(笑)

とはいえ、そこは親の方が上手であり、無理無理塾通いをさせられ、そこそこの私立高校を出たのだから、
結局そうでもさせられないと、親は納得しないという事になる。我慢するしかない(笑)
だが、どうしても大学だけは嫌だった。これだけは譲る事はできないと一点張り。
勉強しないのだから、当然成績も悪く、やっと諦めてくれた。

次回は大学についてお話しする。

***

〜大人が教えてくれなかった事〜 文学少年少女達へ

学生時代、世の中の事は解らなかった。
自由を信じていた。高校が嫌いだった。早く辞めたかった。
サラリーマンにはなりたくなかったが、社会に出れば、学校よりはマシだと思っていた。
実際サラリーマンにはならなかったが、社会に出て解った事は、
学校というものも、社会の縮図で、会社などもまったく学校と変りないものだった。
つまり、学校を辞めても、更に上の支配が待っているという事。
社会のシステムは、学校のシステムと大差ないといえる。
団体行動もまたしかり、逃れられないが、まだ、学校よりも社会の方が、一匹狼には許容がある。

税金を払うと分かるのだが、結局、江戸時代の年貢制度がまだ在るという事実に愕然とした。
そういった中で、いくら自由を振舞っても、所詮、国の中で生かされているのだと気付く。
世の中に生かされているのだから、一人では生きていけないとなる。
食うのも、交通を利用できるのも、住所があり住めるのも、国家というシステムのおかげなのである。
ではどうするか? 完璧な自由はさっさと諦めるといい。
ルールに基づいた中で、自由を得ようとする事が理想的だ。
それが嫌なら山の中で、自給自足の生活を送るしかない。

地球上のあらゆるものは、重力で縛られている。
逃れられた宇宙飛行士でも、酸素を詰めた袋のような服や、箱の中でしか生きていけない。

「空を自由に飛ぶ鳥も、空の呪縛からは解き放たれない」
〜ボブ・ディラン〜


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2009年度

***

「出る杭は打たれる」と、よくいわれる。
だが、絶好調な人間は、そのまま力を出していけば、
どんな分野にも関わらず、かなりの成果が上がる筈である。
でも、そういう人間は、どうしても態度が思い上がっているように見られるから、
他者から叩かれてしまう。
私は当初、自ら転ぶまで、そのままにしておいた方が良いのではないかと考えていた。
そして、それもある意味正解なのだが、「出る杭」の人は、
そのうち暴走し始め、反則を犯し始めるという事を知った。
「出る杭」の人間は、行き着くと、反則やルール違反、反社会的行為などに及ぶ確率が高くなるようである。
だからこそ、最初に叩いても良いという論調が否定され無いのかもしれないが、
私的には、暫くは好きなようにさせ、反則を犯しそうになれば、そこで初めて「叩く」ほうが、良いような気がする。
或いは、自ら転びそうになったり、自滅しそうになったら制動をかけるといった形だろうか。

***

言葉は時に無力だ。
なんの解決にもならない時がある。
態度や行動、または感覚だけでも解決しない場合がある。
結局、どちらが正しいとか、間違っているとか言えず、
どんな事態でも、時と場合により、有力なのか無力なのかになる訳である。
バランスの問題だ。バランスを考えなければならない。

***

仏教観を、研究者から学ぶと、仏陀は人間関係を常に考えてきた、という。
つまり、主観が人間関係に重きを置いてきたというのだが、
そうすると、私が仏陀に対してイメージしていた、自然観というものも、
また、考え直さなくてはならなくなるかもしれない。
すると、仏教観を元に書いてきた『旅人』もまた、
一部方向性が変ってしまう可能性がある。
やはり、作家というものは、辞書を作れる程の知識を持っては、
作品を創れなくなると考えざるを得ないだろう。

「天才は、ちょいと学べば、それだけでいいのである」
アドルフ・ヒットラー

***

人との付き合い方に於いて、不条理だと思うのは、
不思議と相手を嫌うと、その相手には好意を持たれてしまう。
相手を好きになると、相手は離れていってしまう。
たぶん、相手を嫌う事により、適切な距離を置く事ができて、
関係がバランス良くなるのかもしれない。
これは手段として、利用する価値があると思ったが、少々寂しい人間関係となる。
結局、損得の無い学生時代に出来た友でないと、親友には成り得ないように思う。
あとは、よほど趣味趣向が合う相手とか。

***

「そろそろ真実を明かしたらどうだい? いつまでも隠しているから、疑われるし、
人からあらぬ期待すら持たれてしまうんだ。それって重荷だろ?」

「僕かい? 僕は隠し続けるさ。明かすとしたら目の前にいる君にだけ明かすよ。
だって、人は一対一でないと真剣に話を聞いてくれないから。
・・・でも、一対一でも理解してくれない時がある。
そんな時は、その真実が間違っているか、相手が間違っているかのどちらかさ。 簡単だろ?」

『イアン・クローデルの日常』より

***

キリストや孔子などは、弟子達に際立った真実を語らなかったと読んだ事がある。
それを理解する準備が無い者には語らないという事らしい。
準備の無い者に語れば、それは毒となり、理解出来ずにいれば、やがて刃向ってくるからだという。
なるほどと思ったが、詩人萩原朔太郎は、もっと気の利いた事を言っていた。
「社交の秘訣は、真実を語らないということではない。
真実を語ることによってさえも対手(あいて)を怒らせないようにすることの技術である」
さすが、大先輩である。
とはいえ、非常に難しい技術ではある。

***

文学を書く側になると、どうしても現実から遠ざかってしまう。
芸術脳と現実脳というか。
芸術脳を使っていると、浮世離れしてくる。世間一般の人々に対応出来なくなる。
「天然」と言われる人みたいになってくる。それがまた芸術脳の特徴なのだが・・・。
かといって、現実脳に切り替えるのも躊躇する。
やはり現実ばかりだと、つまらない。困ったものだ。

***

今までにはない、新しいシステムや物事を成功させるには、
段階というものを踏まえないといけないのだと思った。
徐々に、進めて行かなくてはならないという事だ。
明治維新の時も、坂本龍馬は、いきなり変革するのではなく、
皆が納得するまで、少しずつ徐々に変革をしていった。
また、そうでないと成功しなかったように思う。

黒人初の大統領のオバマ氏は、黒人とはいえ、白人とのハーフである。
まずは、ハーフの黒人から、そしていずれはそのもの黒人大統領へ、という気がする。

***

ランボォは言う 「天才とは、深淵を照らし出す、一瞬の爆発である」
恋というものも、そんな感じかもしれない。
桜咲く季節に想う。



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2008年度

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10/10 これは、ついさっきまで見ていた夢である。

「ここは僕の住んでいるアパートメントだ。部屋は縦長で、ほら、この通り三回スキップ出来るくらい縦に広い。
・・・横に広いのかな? 玄関の前はすぐ通りになっている筈だから、部屋の中でも人通りのざわつき感を感じる。
そうだ、僕はこれから気晴らしにバイクを乗ろうとしていたのだ。
だが、この前乗って帰った時の置き場所が不確かなので、ちょっと様子を見てこよう。僕は玄関を開けた。
すると、そこは通りには面していなく、このアパートメントの別棟へと通じる狭い敷地内であった。
僕は左脇の通路を通り、バイクを探しに行こうとした。
が、ふと振り向くと、探検隊のようなクリーム色の制服を着て、なぜか虫取り網を持った二人が、僕の部屋の扉を調べている。
すでに僕の部屋の扉は半開きにされていた。彼らは戸締りチェック機構の人達だ。
別段彼らがそう名乗った訳でもないが、実際そうなのである。
仕方ない、鍵を取りに部屋に戻ろうとしたら大家さんも立ち合っていた。
僕は大家さんに挨拶をすると、部屋に入り、鍵を探す。すると、バイクの鍵も置きっぱなしで、都合よく見つける事が出来た。
そうだ、バイクに乗るにはヘルメットがいる。さて、ヘルメットは? なんと、部屋の隅に複数置いてある。
見覚えのないものだ。皮の繋ぎも畳んで置いてあり、誰のものか不思議になる前に思い出した。
そうだ、この部屋は、友人からなんの手続きも無く、引き継いだ部屋だったのだ。
だから、友人のまた知り合いかなんかのヘルメットや繋ぎも、無造作ではないが、邪魔にならないように部屋の片隅に置いてあるのだろう。
とすると、さっき大家さんに会ったのはやばかったかもしれない。
ともかく自分のヘルメットを持ち出し、部屋を出ようとすると、水道を使っている音がする。
だが、今も先ほども、水道は使っていない。とはいえ、水を出しっぱなしに部屋を出る事も出来ない。
確認しようと僕はまた部屋内に戻る。大家さんも部屋に入ってきて、その音のする蛇口の近くまできて確かめる。
あゝ、別部屋の方が使っていて、配管がこの部屋を経由しているのね、といい納得してくれた。
僕は扉に鍵を掛けて、この前バイクを置いた場所を探そうと、再び左脇の狭い通路へと歩を進めた。
だが、記憶を辿っても、この前バイクを置いた場所は、塀と別棟の間の外だったか、別棟の何故か中に置けたので収容したのか、
定かではなく、しかも、複数のバイクが無造作にそれぞれ置いてあり、探すのがまた一苦労しそうだ。
それにいったいこのアパートメントの数の多さときたら・・・」

と、途方に暮れた所で、目が覚めた。
現実の僕はバイクを持っておらず、免許すらも無い。でも、昔に友人から借りて埠頭を流した事があるので、バイクへの憧れは強かったのだろう。
時効です。現実的には、もう乗る気は無いのだが。
大抵、カフカの作品はこんな感じで、ささいな目的でも、それを達しようとすると、ひたすら邪魔が入り、いつまでたっても話が進まない。
不条理だ。が、カフカ作品は、それでも面白い。
ちなみに、構成など何も考えずに一気に書いたものだ。直しも無い。
夢の内容もそうだが、鮮明に浮かんだ物語は、すでに完成しているので、ただ、書けばいいだけなのである。

***

自分が肉声でしゃべる言葉と、文章に於いて発想し、書く文字言葉とでは、かなりの隔たりがある。

***

ピカソのキュビズムは、間違ったパズルのようである。
普通、間違ったパズルを見せられても面白くない。
だが、ピカソの絵は、間違ったパズルでありながら、面白い。
なぜ面白いのか?
それは、ピカソの絵を見ていて、自然とそのパズルを正解にしようとするか、
その謎を解明かそうとしてしまうからだと考える。

***

他人は、自分自身の評価を、自分が思い描くようには、なかなかしてくれない。

***

大体に於いて、世の事象や情報は、半分信じて、半分疑う事にしている。

***

肉体的に――― 「美」が、自身に発現していなければ、「個性」を磨く事である。
もし、自身に「美」が発現しているのであれば、更に「美」を磨く事もいいのだが、
「美」は肉体から、やがては失われてゆく。やはり、「個性」を磨く事がいいのである。
「個性」はまた「美徳」でもあるのだ。

内面的に――― 「美」が内包されているのであれば、何もしなくとも美しい。
もし、内面に「美」が存在していないのであれば、これは「美」を追求すべきである。

***

カフカは、実存主義文学を書こうとして、作品を書いたのではない。
書いて、生まれた作品が、たまたま、実存主義であったに過ぎない。

***

「なぜ、月がいつまでも美しく、人から飽きられないか知ってるかい?
それは、地球と直にくっついていないからさ。一定の距離を保っている。
顔も常に一面しか見せない。裏側を決して見せないだろ。だからなのさ」

『イアン・クローデルの日常』より

***

シュールレアリスムに関して、分かりやすい例がある。
映画『時をかける少女』大林版のエンディングである。
この映画のエンディングは、出演者全員を含め、各場面場面の主人公が、主題歌を歌い始める。
過去の場面や、今さっき観ていた場面から、いきなり皆でリズムをとり、主人公は主題歌を歌う。
映画とは、作られた架空世界である。その架空世界の中で、現実の人間が役を演じきる。
なのに、架空世界の芳山和子という役が終ったとたんに、まだ架空世界であるにも関わらず、現実の原田知世として主題歌を歌い始める。
このように、現実と非現実の狭間を取り払う手法が、一種のシュールレアリスムなのである。

***

佐野元春氏やガーネットクロウに、スマッシュヒット(オリコン一位)のシングルが無いという事実に関して、
私は、作り手の知性が邪魔をしているのだと感じている。
アルバム等では、一位を獲得しているので、むしろシングルで一位にならない事は、誇りになるのではないか。
アルバム全体で一つの世界観を構築できているからこそであり、また、そういうアルバムを作れるアーティストは稀有でもある。
曲一つ一つが、同一の世界観を以って、繋がっているのであれば、その中の一つを切り売りしても、すぐには伝わりづらいと考えるのである。



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2007年度

***

偽物が、本物のように見え、本物が、偽物にされる世の中だ。

***

「なにも、僕なんかの為に、君の人生すべてを、失う必要はないんだよ」

『イアン・クローデルの日常』より

***

社会とは、他人と同じようにする事を、求められる世界である。
少数の共同体でも、同じだ。

***

「何故いい写真が撮れるかって?
自然は、時間という流れに乗った、変化の連続体だ。
元々、素晴らしい姿を常に保持はしているが、それは、一瞬一瞬にだけしか、
表現してくれないんだ。実に慎ましいだろ。
僕は変わり者だから、他人が瞬きして目を閉じている瞬間に、目を開けているって事さ」

『イアン・クローデルの日常』より

***

「なるほど、君の真実と、僕の真実は、随分と違うようだね」

『イアン・クローデルの日常』より

***

私は元々、詩を書ける人間になりたいと思っていた。
それで、詩を書き始め、実際、出来上がったものは、
散文詩である故、小説っぽいのだが、あまりにも短く、
戯曲っぽいのであるが、これもまた短いものばかり、
かといって、小説や戯曲の技法を取り入れてもおらず、
詩を書くつもりで書いたのであるから、詩であるとしてきた。
だが、これは小説だと言われても、戯曲だろうと言われても、一理あると思うので、
もし、実際にそう言われたら、はたして「文学」であるとしか、答えようがないだろう。
で、あるからという訳でもないが、私は自ら詩人とは名乗らないできた。
それは、他者が決める事であり、詩で飯を喰っている訳でもないので、
詩人と名乗る事はしないようにしようと思っていた。
では、芸術家とか、文学者なのかというと、随分ご大層なものになってしまうので、
やはり、詩人なのだろうなと、薄々勘付いている。
一時は、「シュールレアリスト」と名乗ろうかと思ったが、
それこそ何者なのか分からないだろうし、阿呆らしいから、これもやめた。
私の事を、芸術家と言ってくれた人もいるので、それはそれで構わないし、
人がどう呼ぼうと、文学や芸術に関わる呼び方であれば、恥ずかしいが、嬉しくもある。
でも、自ら名乗るとしたら、「詩を書く人」とか、「文学をやる人」としか、
言いようがないと考えている。
略すと、結局は「詩人」とか、「文人」になってしまうのだけれど・・・。
実際、呼ばれるとしたら、詩人と呼ばれるのが、自然なのだろうな。

詩で飯を喰っていなくても、「詩人」と名乗ってもいいのなら、
私はやはり詩人である。

***

私にとって、詩を書くという事は、画家のように風景をスケッチして、
自宅で絵を描き、完成させるという事に似ている。
その場で詩を書くというやり方もあるが、
写実よりも、時間を置いた方が、イマジネーションが発生しやすくなるから、
あえて、自宅で完成させた方がいいと考える。

***

人は歳をとっていくうちに、世の中や物事の仕組みがどうなっているか、
大体分かるようになる。
大人が新しい事に対する関心が薄くなるのも、
それがどういうものか、経験で推し量れてしまうからなのだ。
若いうちは、経験や知っている事が、まだまだ少ないから、初めての事に感動しやすい。
大人が冷めているのは、そういう感動を、もう何回も経験してしまっているからなのだろう。

***

俺は知ってしまった! 何を? ランボォを!
それは、普通ではいられなくなった瞬間だった。
ランボォを知るだけで、それからは、普通の人間ではなくなったのだ。
ランボォの『地獄の季節』を理解すれば、誰でもそうなる。

***

そういえば、私の詩には、精神的に追い詰められたような表現の作品がある。
「ベドラム」や「アストロロギア」などであるが、特に今まで、精神病や病院にかかるような事態にまで、発展した事は無い。
だが、詩作品を清書するにあたって、その過程では、精神的にギリギリまで追い詰められてしまう事が多々ある。
意識するしないに関わらず。
詩作品自体は、思いつく事に苦ではないが、精査や清書する段階で、ピリピリとしてしまうのである。
だからこそ、あまり作りたくはなくなってしまうのである。
人生に思い悩んでいる時、精神的に追い詰められたような作品を発想してしまうのだが、
そういう作品は不思議と、清書の段階では苦にならない。
最初からすでに、ほぼ、出来上がった形で現れるからかもしれない。
どちらにしても、生みの苦しみというものか、作品が出来上がる時というものはハードである。
本当に身を削っている。
だが、天才のように、精神病にかかってしまう程の所までは行かず、自分でブレーキをかけれるらしく、
それこそ、ギリギリの所までは行くが、たとえ、それ以上の所まで越えたとしても、すぐに戻ってこれるのが私である。
非常に特殊な例かもしれない。

***

実は、ランボォの詩は、「ヨハネの黙示録」の影響が強い。
黙示録を読むとそれがよく解る。
黙示録は、それを宗教から隔離した場合、第一級の詩であり、
歴代世界一の詩表現を、ランボォと争えるといえる。

***

よく、若い世代と話している時、昔のアーティストの名前を出すと、
古いからと蔑んだりされる場合が多い。いや、同世代と話していても、多かったりする。
解らない人間が多すぎる。
彼等に言いたい事は、過去にしか本物のオリジナルは存在しないという事だ。
時間と共に、それが洗練されて唯一残っていくからだ。
では、今現在に本物がいないのかと言われても、過去の実績があるからこそと言い返せる。

現在活躍している、全世界のミュージシャンに、ボブ・ディランのように詩が書けるか?
と言ったとして、誰一人YESと答えられる人間はいないだろう。
曲に於いても、オリジナルというものを創った人達に、文句は言えまい。
それに、今現在、活躍しているミュージシャンは、
大抵、過去の誰かしらのミュージシャンを、今も尊敬し、影響を受け続けているのだ。
カヴァー曲の発表が多いのも、その証拠である。結局、流行というものは繰り返される。
今、流行しているものでも、過去の流行の焼き直しが多いという事を、知らない世代が多すぎる。

***

表現とは何か?
それは自分の定義でいい。
例えば、私の詩は、あまり心情の独白はない。
これは、巷に溢れているからである。
J−POPは特にそうであるが、売れている曲の歌詞は、
大体、自分の恋愛経験や人生経験から感じた、その時に想った「言葉」を綴る。
これは、ある程度誰にでも経験する時に、気がつかなかった、
或いは、言葉に出来なかった「言葉」を綴るので、
ある意味、誰にでも共感できてしまうのである。
つまり、私には、そんな簡単に共感できる「言葉」を、
今更、自分の経験から焼き直しても、卑怯に思えてしまうのだ。
簡単に出来るからともいえるので、つまらない。
だが、全面否定しているのではない、自分の詩の中にも、少なからずあるのも事実だが、
それだけで詩や音楽を作って、発表しているアーティストには、夢中にはなれないと言いたいのだ。
そして、それが表現だと言われれば、それはそれでいいとも思っている。
ただ、私の目指した表現とは違うと、はっきり言える。

***

自分を変えたい時は、知ればいい。
「知る」事が出来れば、知らない時の自分とは違ってくる。

***

真実は変わらない。
だが、この世界に不変なものなど無い。
物質などは特にそうだ。壊れたり、腐ったり、劣化し、やがては無になる。
精神に至ってもやはりそうだ。気が変わる。
無が真実か? その無(物理的な無)からはまた何かしらが生まれてくる。
不変だと思われるものは、ただ長期的に安定しているだけだ。
永遠と感じる太陽も、やがては燃え尽きてしまう。
人間が創造する文明よりも長く、地上を照らすからに過ぎない。
ただ、その期間だけを切り取った場合のみに、真実は不変となる。
だから、ジェームスディーンの青春性は、真実なのだ。

***

日本のミュージシャンが海外に行き、現地の白人ミュージシャンに、
「日本人がロックンロールをやるのはおかしい」と、言われる事があると聞く。
ロックは白人のものだからという論理だ。
つまり、日本人は日本固有の音楽を、発展させればいいという論調らしい。
まあ、それも正解ではあるが、日本人がロックを唄う事に、白人は偉そうに忠告など出来ない筈である。
何故なら、ロックンロールは、もともと黒人のリズム&ブルースから生まれたものを、
白人が真似した事から始まっているからだ。
白人が、ロックを発展させた功績は認めるが、日本人がロックを発展させてもいい訳である。
たとえ、黒人に言われたとしても、白人だけにしか発展させる権利が無いのかと言える。

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ランボォの『イリュミナシオン』を、見れば解るように、
究極の「表現」というものは、既に世に出ている。
ランボォは『地獄の季節』で、言い放った証明として、
『イリュミナシオン』を、発表しなければならなかった。

僕は詩作に於いて、様々なパターンの詩を書いてきたつもりだが、
その後、古典の詩を読んだりすると、「これも既に書かれている」
「この手法も既に発見されている」という事が少々あった。
先達が既に発見していて、多少がっかりしたものである。やる気も少々失せた。
が、いつの時代も、誰彼問わず、古典を知らず知らず継承しているかもしれないが、新しい作品は生まれている。
それを、新鮮かつ新しいと思うのは、そこに手法や表現は古典的でも、新しい世界観があるからだ。

既に世に出払っている言葉でも、僕は僕の世界観で、その言葉を語ろうと思う。

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インスピレーションというのは、なにか外から来ているように今まで感じていた。
何故ならば、書いている時、夢中になっているからか、その時の意識がはっきりと思い出せず、
作品が出来上がった後には、自分でも、何故このような事を書いたのか解らないからだ。
だが、最近ふと感じたのだが、実は自分の内面の奥底から来ているのではないかと。
外から入ってくる、情報、例えば、映画なり本といったものは、
自分のなにか底のほうから来るものの、燃料に過ぎないのでは?
そんな事を感じ、考えたのは、あるミュージシャンが、ボブ・ディランを聴いた事がないのに、
君の曲はディランに影響されていると、言われた所から始まった。
すでに、「音楽」という同じ分野であるから、ディランの奥底からくるものと、
あるミュージシャンの奥底からくるものが、共通の奥底から来たものなのではないかと、
考えるに至ったのだ。

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反抗、反体制、反社会。
かくいう私も、すぐに反応してしまう。かっこいいからだ。
しかしながら、反体制、反社会を叫ぶならば、そのエネルギーを、
より良い体制を生む事に、よりよい体制を作り上げる事に、
全力を注いだほうが、説得力がある。
ただし、反体制や反社会から、それが始まる場合がある事を、忘れてはならない。

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詩などの作品を読む時に、同じ詩でも心に引っかかる時もあれば、
あまり心に引っかからない時もある。
以前は引っかからなかったのに、最近読んでみるといいと感じたりする。
でも、最初はいいと感じだが、最近読むとあまりいいと感じない場合ももあったりする。
これは、更に時間を置いて読み直すと、やっぱり良かったとなる場合もある。
曲とかでもそうだが、聴き直す事や、
詩ならば読み直す事が、結構大事だと最近は感じている。
タイミングの問題もあるが。

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自分の精神状態は、自分の社会的立場に左右されるみたいだ。
社会的立場や自分の今置かれている状況、仕事などによって、
物事や対象の感じ方が変わってくる。
ある意味当たり前の事ではあるが、精神的に悪い状態と自分で感じたならば、
自分の状況の変革に努めるのが、解決への近道となるのではないか。

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自分の詩には、「連」が無い。
その必要性を、感じないからだ。
必要であれば使うが、今のところは無用だな。

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2000年代の邦楽はガーネットクロウで決まりだった。
自分自身の勝手な基準は、もちろんまず歌詞にある。
そして、アルバム全体に世界観があるかどうかだ。
当初は総合的に、ややパワー不足かなと感じたが、
AZUKI七氏の詩は、この年代に於いて、実に秀逸である。
中村由利氏の低音ボーカル、そして作曲もいい。
初期佐野元春氏よりも、何を歌っているのか分からないくらい、
唄い方にクセがあるのだが、それがまたいい。
最近も、曲が絶好調に湧いてくると言うから、まだまだ期待できる。
特に、ファーストアルバムとサードアルバムが、良かったが、
セカンドも最近聞きなおすと、その良さが解り始めてきた。
デビュー当初から知ってはいたのだが、
2000年代のMyベストになるとは考えられなかったし、気がつかなかった。
すでに5thアルバムが出ているが、
10年ごとに、詩も楽曲も、のめり込ませてくれるアーティストが、
ちゃんと現れてくれるとは、実に嬉しい事である。


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2006年度

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自由とは、「心」の中に存在し得るものである。
「心」の中にこそ創りあげるものである。
それを、現実世界に、肉体ごと発現させた時、人々は魅了され、
自身、自由の喜びへと繋がるのではなかろうか。

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十代の時は、周りの状況と、どうにもならない自分とに悩んでいた。
だが、辛辣とさえ思える「人」との関わり合いにより、成長する事で解決した。

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真理・・・、それを言っても構わないが、結局ありふれた言葉にしか聞こえないだろう。
真理とは実感するしかないものだからだ。
そして、実感した後は、当然、ありふれた言葉から真理を読み取れるようになる。

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『地獄の季節』を、意訳しようとは思わない。
小林秀雄訳で文句はないからだ。

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この空間は、非常にスタンドアローンである。
自分がそうしているから当然なのだが、致し方ない。
賞に応募するつもりもないし、賞を欲しいとも思わない。
自分にとって注目は、やっかいなものなのだ。
この状態だと、多くとは言えないが、色んな人が読んでくれればそれでいい。
特にランボォの意訳に関しては、『イリュミナシオン』を全部意訳しようと思っているので、
これは程よいライフワークとなり得るし、我ながら上手くいっていると思う。
ランボォほどの複雑な詩作品は、訳者によって、その効果と解釈が、非常に左右されやすくなってしまう。
だから、ランボォの詩というより、僕が意訳したランボォの詩に、先々、影響を受けたとしてくれる人が、
もしも、いたとしたら、それこそが本当の賞だと思うし、自分自身、嬉しく思う。

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あゝ、フィオレンティーナよ・・・、結局僕は、君にはなれないんだよ・・・。
許しておくれ。

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私は作品に重みを持たせようという意識はあるが、
実際に生まれて来た作品は、自分が思っている程、そうではないかもしれない。
だが、よく読んでみると、重みとは意味が違うが、必ず一箇所は切り裂かれている作品は多い。

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私の作品には制約があり、自由度が少ないと感じる人もいるかもしれない。
だが、それはそう見えるだけで、実際は結構自由に書いているのだ。
自由詩からいきなり散文詩になったり、定型を崩しつつ、定型に戻したりと・・・。
自由の垂れ流しは、ただ単に、だらしがないだけである。
私の作品は、制約があるのではなく、音楽で言えば、調律をしているだけなのである。

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僕にとってのシュールレアリスムに、定義は無い。
それはロックンロールと同じようなものだと思っている。
シュールレアリスムとは、人生をドラマティックに演出してくれる表現手段なのだ。

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だいたい人の言葉で腹が立った、或いはムカつくなどという人間に限って、
自分も知らず知らず、人をムカつかせている事に気づいていない。
お互い様なのだ。

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いい作品を作れるか否かは、いかに、自分の作品を客観的に見る事が出来るかである。
他人が自分の作品をどう見ているかが、自分で解れば、当然、自作品の良し悪しが判る。
極端に言えば、第三者のように、自分の作品を見れなければ、いい作品を作れないという事になる。
いいと判断できれば発表すればいいし、悪いとなれば発表しなければいいのである。
発表しなければ、出来の悪い作品を作った事にはならないから。
最後は、他人に判断してもらうしかないが、自分でいいか悪いか解らないような作品を見せた時、
悪いとの判断が続くならば、やめるしかない。

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思いやりのある嘘は、真実となる。

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世の中は話し合いでは解決しない。
お互いの利益が絡んだ、交渉で解決するものなのだ。
損得の世界である。
だからこそ、私は世の中が嫌いだ。だが、それを利用するという手もある。
交渉が最も得意だった歴史上の人物に、坂本龍馬がいる。
しかしながら、自分自身は、それが苦手であり、何かしら嫌になってくる。

交渉が決裂した時、武力行使となる。
そこには、損得の他に、主義や宗教が絡んできたりする。

個別としての、人との付き合いに於いては、
損得のない友情を持てるのが、真の付き合い方と言える。
学生時代に出来た友が結局そうなる。
それは結局、価値観がお互い近くなければ不可能だが。

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自分の言った事は、忘れたらいけない。
その一言が、多大な影響を相手に与えていたら、尚更だ。
間違っていたら謝り、矛盾があったら素直に認め、矛盾を解決するべく、
その筋道を、しっかりと組み立て直す事。

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「相手を許す」という心から、頑なだったもの全てが、新しく始まるような気がする。
全て許すのではなく、そして、何回も許すというものでもなく、人間関係の基本として。
やがて、全体が見えてくるという意味に於いて。

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本当に誰もやった事のないオリジナルを創るのであれば、自然をモデルにする事だ。
原始時代から遡っても、今日に至るまで残っているものは、全て自然を参考に創っている。
これは強い。何故ならば、真の創造は、自然からでしか発生し得ないからである。
自然から解釈した初めての作品は、人にとって普遍的であり、
その作品に影響を受けた次の作品は二次的なもので、
人の造った物から、また人が三次的に作った物は、
どうあがいても、力は失せる。
コピーとはよく言ったものである。
コピーにコピーを重ねれば、劣化が激しくなるのは言うまでも無い。
人の作品を参考にするなら、その作品がどこまで自然を表現したものであるか。
かなりの所まで行ってない作品であれば、影響を受けたとしても、そこから作った作品は薄いのである。
もっとも、自然からインスピレーションを受け、表現する事が一番難しいともいえる。



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