未刊詩選集

ミッシング



レオナルド・ダ・ヴィンチ画
「洗礼者ヨハネ」

これらの詩は、新しく書いたものでもあり、かなり前に書いたものでもあります。
ですが、詩集『アフリカ』とは、また別に始まった世界である事は、間違いないようです。
そして、詩集『アフリカ』のように、一連の世界観をもって、作っているものではないので、
どれか、ひとつでもフックし、色々な意味で、心に残って戴ければ幸いです。





       アストロロギア

詩人 「実は困っているのです」
占い師「何でも占ってあげましょう」
詩人 「私は詩を書いている人間ですが、最近、書けなくなっているのです。いや、書けないというよりも、興味が無くなってきたのです。書こうと思えば、いくらでも書けるのです。でも、書きたいと思わないのに、無理に書こうとする事は、私にとって、とても耐えられない事なのです。書きたい時に書き、書きたく無ければ、無理に書く必要も無い。意図的に作る芸術に、本物など出来る筈がありません。それに、私は本職を別に持っているので、職業としている人は無理にでも作らなければならないでしょうが、私には必要ないのです。これは、私だけではないのでしょうが、詩を発想して書いた後、現実に不幸な事ばかり起きるのです。たとえば、仕事をしていても、うまくいかなかったり、トラブルが続くのです。そして、一週間ばかり過ぎた後、ようやく収まるのです。偶然だろうと、試しにまた詩を作ってみたら、次の日からすぐにトラブルです。これが、何回も続いたので、偶然とは片付けられない現象なのです。それに、詩を書いている時は、充実していていいのですが、それを仕上げようと清書すると、それに使ったエネルギーというか、何か体の中身が薄くなり、消耗感が激しくて、何もかも作品に力を持っていかれたようになるのです。それが、苦痛なのです。ハサミの存在自体が怖くなる、その神経を人が理解する筈はありませんものね。そうまでしないと、作れないのかって思うでしょう? そうしなければ、気が済まないだけかもしれません。なるほど、歴代の作家達の伝え聞く、私生活の不幸な事といったら・・・・・・、納得です。それがここにきて、どうしても作らなければならない約束が出来まして、その人の為にも、書かなければならないのです」
占い師「分かりました。でも、占いで相談する事では、ありませんねぇ」(読者をチラチラ見ながら)
詩人 「私もそう思います。でも、出来ればなんとかしたいと思い、仲間の詩人××に相談したら、あなたを紹介されたのです」
占い師「そうですか・・・・・・、××さんの紹介ならば、致し方ありません。では・・・・・・」
 占い師は、両手を縦にして水晶球を掴み、その中心をじっと見つめた。
占い師「今から言う言葉を、あなたの心に書き留めよ。これは、失われようとしている言葉。欠けていて、世に現れる事のない言葉達である。

           ミッシング   〜星の部〜

 ──太古の記憶を辿り、別世界を、君ら道連れにして引きずり回す。華麗なる世界に軽く跳びあがり、気が付くと、見渡す限りの世界は星々で埋まり、目の前に映し出される壮大な景色は、今にも燃え上がる薔薇色星雲の爆発。たとえ、魂が光速を超えて、本体の溶けるような速さを感じ得たとしても、それは、美しい涙を流しながら 恍惚のうちに発狂してゆく ひとしずくの記憶。
 銀箔の砕け散る、砂のような涙を、太陽風に持って行かれ、降り積もり、形成される、折り紙のような惑星は、瞬く間に、二つの太陽を周回する。そのまま、暗黒宇宙の果ての先、片手を伸ばし、五本の指を引っ掛けて覗き込めば、そこは白く、ただ、光だけが満ちていた。
 私は外宇宙を漂う折り紙。やけにゆるやかで、やけに速い。粒子もかすかで、慌しい。
 それにしても、この奇妙なる光線は、恥じらいのうちにガラスの海を焦がし、瞬きする間もなく懺悔する。

           〜未完〜 

以上、これがあなたに与えられるヒントです」
詩人 「ヒントですって! まるで、詩そのものではないですか!?」
占い師「今、私が言った言葉を、そのまま発表しても、しなくてもいい」
詩人 「そんな事をしたら、あなたの作った詩の盗作という事になってしまうのではないですか!?」
占い師「いえ、そういう事にはなりません」
詩人 「なぜです?」
占い師「これは、あなたが近い将来に、発表するであろう言葉達なのですから・・・・・・。ほら、こうやって発表しているでしょう!? でも、最終的には、世に出ない事を願う詩でもあるのです。解らないでしょうね。でも、いずれ分かります。なんでしょう?」



      DEEP BLUE

 黒い油のような水が流れている川に、一人の老婆が、棒を持って川底をつついている。
 僕は彼女と橋の上でそれを見ていた。
「あの人、そのまま死んでしまいそうね」と、彼女は言った。
「あゝ」と、僕は答えた。
 ひどく現実味の無いその風景に、僕もそう感じていたのだ。
「汚い川だね」僕は言った。
 あの老婆から、彼女の注意をそらそうと思って言ってみたのだが、彼女は何も答えなかった。
 僕達は街の中にいて、まわりは人だらけなのに、僕達こそが現実的でないように思えてきた。
「何か、空気が汚れていて、息が苦しいわ」
「・・・海にでも行こうか」と、月並みな誘いをした。
 僕達は車に乗り込むと、都会から少し離れたところの海に向かって車を走らせた。
 
 ──僕は高速の入り口を間違えた。急いでいる訳ではないので、別段構わないだろうと思ったが、彼女は苛立ったりしていないだろうか。暫くして、ミラーを見るフリをしながら彼女を見たのだが、眠ってしまったようだ。
 僕はラジオの音を小さくしようと思い、手を伸ばそうとした。すると彼女はいきなり目を開いて「そのままでいいのに・・・」と、つぶやいた。なにか、音楽が一瞬、止まったように感じた。でも、そう言いながら、少し笑ったようにも見えた。
 その後の彼女は、助手席の窓の外ばかり見ながら、音楽に合わせて、曲を口ずさんでいるようだった。
 僕は煙草を消して、スピードを上げ、高速のカーブに身を委ねながら、このまま二人とも放り出されればいいと、肘の先に窓ガラスの硬さを感じながら、ハンドルを放したくなった。
 瞬間、彼女は僕の方を振り向いた。が、視線は僕に向けておらず、右フロントガラスの方を見て言った。
「う・・・み・・・・・・」
 山とまでは呼べない巨大な崖の端から、海が見えてきた。
 
 ──辿り着くと、曇り空の下、黒っぽい海だった。
 砂浜に、恐竜の骨のような流木が打ち上げられていたが、僕らは無関心だった。
 彼女は立ち尽くしたまま、ずっと海を見ていた。
 僕は後ろの方で、座って海を見ていた。
 しばらくすると、彼女は振り返り、僕に言った。
「あそこの、何か空が汚れている所、灰色と黒の・・・」そこで、彼女は言いかけてやめた。
 僕は、彼女の言う方を見た。
「それがどうしたんだい?」
「あそこの下・・・、何か島が浮かんでいるよう・・・」
 僕は彼女の指差す方向を見た。──なるほど、そこだけ黒くすすけていて、木炭で描いた絵のようであったなら、息を吹きかけると、何も無くなってしまうかのように、ザラザラしている。
「現実的でないね」僕は言った。
 彼女は何かに絶望している。その何かはなんとなく僕にも解ってはいるのだが、それをはっきりと彼女に伝えても、なんにもならないので、言いはしなかった。彼女もそれを望んではいまい。
「本当、現実的ではないわ」
 彼女は、もう、振り返らず、そう言った。
「でも、実際はこんなもんだろ。どこに行っても汚いところばかりだよ。都会にいるかぎり」
「でも、そんな汚い都会の光景でさえも、あなたは作品にしてしまえるのでしょう?」
「それこそ非現実的だね」
 彼女のつらさは、僕に対して起こるものではなく、誰にも手に負えないものだ。彼女自身にも。

「帰りましょう」

 僕は全身が縮む思いがした。
 それは、「別れましょう」と同意語だと感じたからだ。
 平日なので、砂浜には僕達の足跡だけが残っていて、誰もいなく、風だけが常に唸っていた。
 帰りましょう、と言った彼女は、いつまでも帰ろうとはせず、黙って海を見つめていた。





       奥底

 そこは暗く、そして想像もつかないほど深かった。
 いつまでも、いつまでも、底まで降りて行く自分がいる。
 私は髪も、服も、上になびき、そして最後はスローモーションのように、底に着いた。
 すると、そこにはやはり、少年の姿の彼がいた。
 暗くまわりは何も見えないのに、彼だけは見えていた。
 彼は発光しているのか、薄く青か緑色の光が、全身から感じられた。
 そして、彼の足元には、何か水溜りのような光が広がっていた。
 足元の光と彼の他は、真っ暗である。
 私は尋ねた。
「ここで何をしているのですか?」
 彼は答えた。
「わからない・・・。だが、ここは、深く、そして暗い」
「悲しいのですか?」
「そうかもしれない。ただ、僕はずっとここにいる。これからも、きっと、そうだろう」
「何故ですか?」
「ここは、僕以外誰もいない。僕はずっと、僕のままでここにいる。それは、ここでなければ存在しえないからかもしれない。僕は、そう思う。いつまでもこうしている。時間という概念もここにはないようだ。だからこそ、ここにいるのかも・・・」
「私は、あなたと会う為に、ここに来ました。いや、そんな気がするだけかもしれませんが、私が求めていた場所にあなたがいたから・・・」
「僕と会ってどうする?」
「解りません」
「ここは何もない」
「私は苦しいのです・・・。だから、これからも、時々こうしてあなたに会わなければ、生きていけないのかもしれません」
「ならば、そうすればいい」
「いつまでも、あなたはここにいてくれるのですか?」
「たぶん、君の肉体が滅びるまでは、ここにいるだろう」
「その後はどうなるのですか?」
「ここから、抜け出せるのではないかな」
「抜け出したとして、どこに行くのでしょう?」
「どこに行くのか分からないから、今から楽しみだ。それまでここに、こうしているのだろう」
「つらくはないのですか?」
「つらいのは君だろう。だから、来たのだろう?」
「えゝ、確かにつらいです」
「でも、君はそれを言うまい」
「えゝ、私の心の奥底の事ですから・・・。人に知られたくはないのです」
「でも、僕には言ってもかまわないよ。僕は君なのだから」
            *
「だとしたら、なおさら言えません」
「でも、僕を頼りにここへ来たのだろう?」
「自分を、いや、あなたを頼って解決するものなのでしょうか?」
「解決? それは僕には計り知れない事だ。・・・が、他人に頼るより、自分に頼った方が、まだいいのではないかな」
「そうですか」
「告白すればいい」
「でも、それを言ったら、あなたが消えてしまうような気がします」
「やはり、君もそう思うか?」
「はい」
「日々の告白。人が人として生きる為の行動。行動した結果の告白。存在の告白。そして、意味の告白。なにゆえなのだろうか? ・・・僕は消えても構わないよ」
「私も消えてしまうのでしょうか?」
「それは一部だけだろう」
「よろしいのですか?」
「いいよ。話してごらん」
「わたくしは・・・・・・」

「そうだったのか・・・。それで君は今、どんな気持ちだい?」
「あゝ、よかった。何か鎖が解けたような心持ちです。あなたに言ってよかった。あなたは、雪を溶かしてくれる春の陽射しのようだ。でも、あなたは本当に私なのでしょうか? 何かもっと違う・・・たとえば・・・」
「もういい。僕を知ったところで、君には逆に不便になるだけだ。とりあえず僕は消えていないようだが・・・、これで君が、新しい世界に踏み出せるのであれば嬉しいよ。これからどうする?」
「幸せを探してみようかと思います」
「そうか・・・、では戻るがいい。ここは、暗く、そして冷たい所だ。早くこの世界を温かくしてくれたまえ」
 少年は片膝をつき、左手だけを底に押しつけると、まばゆい緑の光が解き放たれたように、そこから溢れ出した。

 私は目を開いた。辺りは、しんと静まり返っていて、牢獄のようだった。いや、牢獄なのだろう。壁をぽつんと切り取ったような窓から、月明かりが蒼く差し込んでいる。地上から隔離されたこの塔は、虫のささやき声も、何も聞こえない。
 私はつぶやく。
「とにかく、ここから抜け出さなくては・・・」


      「旅人」

 それは、ある夏の暑い昼下がりの事だった。
 およそ街道からは離れたバニヤンの木の下に、一人の男が座禅を組んでいた。そこは、街道から離れてはいるが、なんとか視界の及ぶ範囲でもあった。その男の前に、わざわざ街道から逸れて来たのか、一つの影が揺らぐように近づいて来た。
 旅人のようであった。

「あなたはここで何をしているのですか?」旅人は座禅を組んでいる男に尋ねた。
「私はずっと目を閉じていました。長い時間が過ぎました。でも、先ほど目を開いたら、世界があまりにも美しかったので、今、再び目を閉じようとしていた所です」
 男は旅人に構わず、再び目をつぶろうと、瞼をゆっくりと閉じつつ、視線も落としていった。だが、瞼の隙間から、旅人の片足に、生々しい足枷の痕が残っているのを見て取り、瞼は下ろしきらず、暫く目を細めたまま、その足をじっと見つめていた。
 やがて、重く閉じようとしていたその瞼が、再び大きく見開かれた。そして、男の、旅人に対する態度も変ったようだった。
「水でも飲むかね?」
 そう言った男の傍らには、水をたっぷりと湛えた白く美しい小壺があった。
 すると、木の下の男は両腕で壺を高く掲げた。瞬間、壺が陽射しを反射して光り、その姿はまるで、その水を全世界へと捧げているかのように見えた。
 旅人は一瞬たじろぎ、身動きが出来なくなってしまった。
 バニヤンの木の傍らには、岩が横たわっている。その岩の上へと、風に吹かれた葉が一枚落ちたのだが、いつまでもゆらゆらと揺れるだけで、大地へ落ちようとはしなかった。
 旅人は、水を貰わなかった。
「こちらへ来る途中、周辺にあった湖沼の源泉で、飲みましたから・・・・・・」
 そして、閃いたかのように尋ねた。
「私は、ある賢者の噂を聞いて、ここにやって来ました。あなたが賢者様なのではないですか?」
 男は答えた。
「そう呼ぶ者もいるだろうが、私は賢者などではない。束縛から離れた者、唯一在である。賢者とは、かつて、勝利の塔を上りきった『目覚めた男』のような者を指し示す言葉だ。そういった意味でも、私はただの修行者に過ぎない」
「目覚めた男・・・・・・、私もかつて、その男の噂を聞いた事があります。あなたは彼の男をご存知なのですか?」
 修行者であるとする男は、おもむろに地平の先を凝視した。彼方には微かに暗雲が立ち込め、遠く雷鳴も轟いている。だが、それはまだまだ遠い先の光景である。今いる場所は晴れ上がっていた。
「時が迫っている・・・・・・、いや、およそ十数年前の事であったか、私は真理を獲得したという男の噂を聞いた。ある理由から、私はその男に会い、確かめておきたい事象があった。そして、多くの人に訪ね歩き、その男が勝利の塔に向かったという噂を聞きつけた。なるほど、勝利の塔には魔物が棲み、今まで、塔を上り切った人間はいない。塔の最上段に辿り着けた者は涅槃に達するという言い伝えからも、きっと、彼の男は塔を目指したのかもしれない。私は、いい機会だと考えた。もし、本当に真理へと達した者なのであれば、必ず勝利の塔にも上り切ると思ったからだ。私は勝利の塔へと向かった。私も若かった。彼の男に会いに行くなどと、今では考えられない行為だが・・・・・・」
 そう言い終えると、暫く修行者は黙ってしまった。すると、風が強く吹いてきた。木は大きくなびき、揺れだした。岩の上で、落ちようとはしなかった葉も吹き飛ばされた。
 旅人は訊いた。
「なぜです? あなたは今も若い。それに、彼の男に何を確かめたかったのですか?」
修行者は静かに笑った。すると、かしずいたように一方向へと揺れ続けていたバニヤンの梢は、長い風が止んだのか、また元通りの形に治まった。バニヤン独特の枝から派生する根も、今は垂直に垂れ下がっているのみである。
「私は二十歳前まで、自分の存在意義について悩み苦しんでいた。何の為に生きているのか? それに、私は一人で自由に生きて行きたいのに、なぜそこに他人が関わってくるのか? やがて、私の脳の思考と肉体とは、連携を保てなくなっていった。ある日の事、私は目的も無く、いつまでも彷徨っていた。思いとしては、家に帰りたかったのだが、体が言う事を聞かなかった。ほどなく私の肉体は、近くを流れていた川の橋の上から、飛び降りようと動き始めた。思考としてはそれを拒否しているにもかかわらず。私は必死に抵抗した。ほんの少しでも気を抜くと、まさに橋の袂へと向かいそうになるのだ。長い時間戦い続けたが、やがて、嗚咽をするでもなく、悲しくもないのに、涙だけが零れ落ちた。それを機に、私の肉体は、やっと思い通りになり、家に帰ろうとする事が出来た。私は打ちひしがれ、家へと歩き出した・・・・・・」
 旅人は話に聞き入っていた。すると、草むらから一匹の蜥蜴が這い出てきた。暫くじっとして動かなかったのだが、話の内容を聞いて驚いたかのように、慌ててまた草むらに引き返してしまった。
「その帰り道の事だった。坂道を上がろうと見上げた瞬間、夜空には、かすかな星しか見えぬのに、私の視界は広大な暗黒の空間を見渡し、あらゆる星々の光に囲まれ、何故かその全ての星々を認知する事が出来た。宇宙全体が、私には体全体で、一瞬のうちに認識出来たのだ。それは、私の体に宇宙が入ってきたというよりも、私の意識が宇宙全体に広がっていったかのようであった。今思うと、自分の限界を知り得たからだったと考えられる。そして、同じ時間の上に生き、同じこの空間を共有している他者という存在を、初めて実感する事が出来たのだ。感触で言うならば、人と人との間にあるものは空気であり、空間である。これを紐と例えれば、『空』という紐で確かに人と人は繋がっている。それはつまり、同じ時間、同じ世界、この同時空間に於いて、皆、生存し、時空を共有しているのだから、当然、離れていても、全てが繋がり関わり合っているという事を悟った瞬間でもあった。それに伴い、この世の事象、因果、根本原理などが、全て私の中で閃き、解き明かされていった。解ってしまったのだ。この世は、正と負で成り立ち、そのどちらに傾いていても、釣り合いがとれぬという事。そしてその中間が『無』であるという事に。私の心は喜びに満たされた」
 旅人は驚いた様子で、修行者に問いかけた。
「それはあなたも『目覚めた』という事なのではないですか。見事に解き明かされたのではないのですか? やはり、あなたは賢者です」
「違う。確かに当初はそう感じたが、やはり何か違う。そして、それを確かめるべく、彼の『目覚めた男』に、会おうとしたのだ」
「会えたのですか?」
「会えた。真実を実感してから四年後の事であった。私が勝利の塔に辿り着くと、大勢の人が居た。普段は不吉な場所であると聞いていたので、人が大勢いる事に少々驚いたが、すぐにその理由が分かった。どうやら、彼の男が塔の最上段まで上り切ったので、魔物がいなくなったという事らしい。私は傍に居た老人にその男の行方を尋ねた。すると、すぐ先の菩提樹の下で休んでいるという。私は早速、その場所へと向かった。──辿り着くと、人々が遠目で彼を取り巻いていた。私は人を掻き分け、構わずに歩を進めた。人込みが途切れ、視界に男の姿を確認できた。その男は座禅を組んでいて微動だにせず、私は彼から視線を逸らさず、更に近づいていったが、やはり微動だにしない。まるで、動かないから、彫像のようにも見える筈なのだが、彼の髪、頬と唇、腕と足、そして眼からは、生気がほとばしっていて、体全体から生々しく皮膚の色が発色しているようで、まさに特別な人間である事を実感させられた。どのような事でも揺るがないという強固な意志と肉体をも感じられ、そして、美しかった。なにかしら、水分を含んだ光に包まれているようで、その周りに群生している苔さえも、輝いているようだった。私が彼の目の前に立った時、私に対し初めて反応したかように、暫し片腕を脚の方に動かした。だが、彼は下を見ながら微笑んでおり、手の指は、印を思案しているかのように、優雅な動きを陽に照らし、まるで、光を集めて楽しんでいるかのようだった。そんな彼に動じた心を必死に隠し、私は不躾にいきなり切り出した。『私は真実を実感した。それがあなたも実感した真実と同じであるか知りたく、ここまでやって来た』そう問い掛けた私に、彼はこう答えた『それは真理とは違う』と。私は改めて自分の行為を恥じた。いや、自分を恥じた。私は彼と長く話をするつもりだったのだが、もう、その言葉で充分だった。彼は話さずとも、私の全てを見通していたのだ。気が付くと、私は跪いていた。そして、どうしたらいいか判らなくなっていた。すると、先ほど彼の行方を教えてくれた老人が、群集の中から叫んだ。『真理への道はこれからではないか。そこな賢者も、この若者に道を指し示しては如何なものか』──助け舟とはよく言ったものだ。だが、私はそれ以上の答えを、彼に求める気はなかった。私は老人の言葉をきっかけに、立ち上がり、その場を去ろうとした。すると、背後から彼が、『面白かった』と、私に声を掛けた。でも、私は振り返る事はしなかった。何故ならば、また新しい道のりが、開かれたからだ。私はその場を立ち去り、それから二年間、旅を続けた。その間、彼の名声は高まり、よく噂を耳にしたものだった。だが、私は逆に、段々と迷い始めていた。新しい道が開かれた筈であったのに、何故か日に日に迷いが生じてきた。そう、それこそが彼に見抜かれていた事だったのだ。それ以前も実は迷っていたに違いない。だが、自覚をしていなかった。彼に会い、突きつけられた問いであったと言えよう。・・・・・・私が真実を実感していた期間は、六年ばかり。ただ、その期間の脳は確かに覚めた状態ではあったが、それと引き換えだったのか、過去の記憶が思い出せなくなっていた。過去を記憶している脳の部位が働かなくなったようであり、より目の前の物事を見極める部位のみが、働いてしまっているかのようだった。いや、過去を記憶する部位までもが、現在を認知する為に、使われてしまているかのようでもあった。私は限界を感じた。楽しく幸せな思い出も、つらく悲しい思い出さえも、皆、蘇らなくなってしまった。思い出したくない事もある、だが、このままでいいのだろうか? と。逆に生きている実感が無くなってしまい、私は真実を実感する前の自分に戻りたくなった。たとえ、力が劣っても、それでいいとさえ考えた。それに、私はこの期間、人に対してやさしく接する事が出来なくなっていた。人に苛立ちさえも感じていた。何故ならば、私の閃きの速さに、他人がついてこられなかったからだ。実際、三人くらいであれば、相手の話を同時に聞き分ける事が出来たし、千里眼を持ち、修行などしなくとも、記憶力は虚空を手に入れたかの如く、あらゆる事を全て記憶出来た。だが、そんな自分も嫌になっていった。そうして以前の、云わば普通の人間に戻ろうとした。つまり、私はやめてしまったのだ。それから暫くして、私は望み通り、段々と、過去の記憶が取り戻せてきた。年齢を重ねていったせいもあったのだろう。それは静かに戻ってくれたのだ。それと同時に、六年ばかりの実感期間はだんだんとおぼろげになってきた。しかも、真実を実感する以前の自分よりも、更に能力が衰えてしまってきた。実際そうなると、今度はそれが、幸いな事なのか? 不幸な事なのか? 望んだ筈であったのに、更に迷いが生じ、暫く、消え去る事がなかった。思うに、私には覚悟が無かったのだと考える。真実を継続させる覚悟というものが・・・・・・。でも、今はそれで良かったとも思える様になったのだ。実際、ああいう脳の状態では、常に糸が強く張り続けているようで、私には重荷であった。それに、私は確かに真実を実感したのだ。真理には辿り着かなかったのかもしれないが、例えばまだ、あなたに話せるぐらいのわずかな実感だけは留めているようでもあるし、それで良かったのだと。そう思えるようになり、遠い旅路の果てに、この木の下に辿り着き、こうして座っている。ただ、今の状態に納得はしているが、本当にこの先、このままでいいのかどうか、まだ迷ってもいる。私はまた出発点に立った、いや、出発点にも立てない修行者のようでもあるのだ。人には、大そうな名乗り方をするがね」
 旅人は、それでも私にとって、あなたは賢者であると言った。
「そう呼びたければそう呼んでも構わないが、その賢者にいったい何の用があって来たのか?」
 旅人は、少々ためらいつつ答えた。
「実は、先程あなたが訪れたという勝利の塔から私は来ました」
「勝利の塔から? あの塔が今現在、どうなっているのかは知らないが、また随分と遠くから来たものだ」
「あの塔は現在牢獄になっています」
「牢獄・・・・・・、なるほど皮肉なものだな」
「私は、罪を犯しました。でもそれは単に人を救おうとした結果、罪人となってしまっただけなのです。私は納得がいかず、脱獄しました。そして、幸せを探そうと旅を続けてきました」
「幸せ?」
「そうです」
「何故だ?」
「幸せになりたいからです」
「あなたが?」
「えぇ、そうです」
「幸せになってどうする?」
「・・・・・・人間、幸せになる事が、人生に於いて、意味のある事だと思うからです」
「それで見つかったのか?」
「見つかりません。ですので、賢者に教えを乞おうと思い、ここを訪れたのです」
「それこそ、目覚めた男に訊くべきだ」
「それが・・・・・・、彼にはすでに会って訊いたのです」
「では、解決しただろう」
「・・・・・・解決しませんでした。いえ、答えてくれはしたのですが、私には当たり前の事としか理解が出来なかったのです」
「そこに真理がある筈なのだが・・・・・・」
「是非、あなたの意見を聞かせて下さい」
「私の考えなどは到底彼の男には及ばぬが、あれから思案を巡らせ、或いは彼の男が何を人々に伝えているか、よくよく風聞も交えて、思いに耽った事もある。それに束縛から離れた身ではあるが、やはり時には、他者と関わっていかなければなるまい。どんなに腹の立つ人間でも、今の私には、人間というものが面白いと感じられるようになったからでもある。そんな私もかつて、あなたのように幸せについて、考えた時期もあった。云わば私とて、そこに到達してはいないが、思うに、あなたを見ると、今現在必要であろう言葉は思いつく」
「なんでしょう?」
「人を幸せにした時、自分もまた幸せになるのではないかな。今の時点では、そう考える」
「人を幸せにするのですか?」
「そうだ。彼の男ならば、それに全ての心在る生物を含むと唱えるであろう。私には、人一人だけでも精一杯であろうが、きっと、あなたはそこまでの答えを彼から引き出せずに終ったのだと思う。聞く所によると、彼は人によって、全く何も答えない時があるそうだ。──そう、干渉するのではなく、真に幸せをもたらしてやらなくてはならない。ただ単に人を救っただけでは、人を幸せにする事は出来ないのだ」
「それは、神にしか出来ない所業なのではないですか?」
「神? 果たして私には、あなたが言わんとする神がどのようなものなのか、今一度訊いておきたい」
「全知全能の神です」
「その神は、衆生がよく信じて言う、実体や意思が在る、存在としての神という事か?」
「そうかもしれません。人間を超えた全能の神の事です」
「そんなものは、所詮、実体など無く、存在しないと私は考えている。それに、人を幸せにするという神など、信じない方がいい。例えば、人間が想像した神ならばともかく、実体があり独立した意思を持った存在としての神など、私には認識出来ない」
「神は存在しないと言うのですか?」
「そうではない。人の想像上の産物であり、人間の思いから生じる神を信じるのであれば理解出来るが、実体としての神など、私には到底認める事は出来ないという事だ」
「どういう事でしょう?」
「考えてもみるがいい。今、この瞬間にも、餓え、苦しんでいる人々がいる。今、この瞬間にも、争い、人と人とが殺し合いをしている。もしも、全知全能の神がいるとすれば、何故、そのような事態を終息させないのか? 神というものは、そのような力を持ち得ないのか? 何故だ!」
 旅人は何かを言いかけたようだったが、やめてしまった。
 修行者は続ける。
「私が衆生から聞く神というものは、人や自然をも支配出来る絶対的な権力者と捉えられる。では、その絶対者は何故、何もしないのだ。ただの傍観者ではないか!?」

「ちょっと待って下さい」旅人が口を開いた。
「あなたは先ほど勝利の塔についておっしゃられましたが、魔物は信じて、神は信じないというのでしょうか? それに、自分を幸せにする為、人を幸せにするとおっしゃるのですか? 私には利己的に思えてなりません・・・・・・」
 修行者は、さすがに少々驚いた表情を浮かべたようだった。そして、暫くしてから首を振り、湖沼のある方向を見つめ続けた。遠く、かすかに雷鳴が鳴り響いた。が、湖沼に佇む水鳥達は、沈黙していた。

「私は・・・・・・」と、旅人が再び口を開いた時、修行者は遮るように振り向きざま、また話し出した。
「いや、つい喋りすぎてしまったのかもしれない。私は自分の考えを人に押し付けるつもりはない。久しぶりに人と話したので、過ぎた事をしてしまったようだ。こんな私とて、大海に投げ出され、たまたま縋った木片などで、一時的に助かったとして、その絶望的な状況から、神に祈るかもしれない・・・・・・。今までの話は、忘れてもらっていい。そして、」
 今度は旅人の方が、修行者の話を遮った。
「もう、手遅れです。それに、私はそんなつもりで言ったのではないのです。私の方こそ、謝らなければなりません。今まで、こんなにも私の問い掛けに対して、真摯に事細かく話して戴いた方はおりませんでした。ただ、図々しいのですが、納得のいく答えが欲しいのです。気分を害されたら謝ります。今一度、私の疑問に答えては戴けないでしょうか?」
 修行者は、地面を見つめながら答えた。
「私のような者は、気分を害する程の身上を、持ち合わせてはいないよ。だが、勝手気ままな生活ではあるが、それはそれで、時には虚しく感じるものだ。世を離れていれば当然である筈なのに・・・・・・。どうやらあなたはちょっと違うようだ。変わり者というか、いや、失礼。私が言える立場ではないがね・・・・・・」今度ははっきりと、修行者は笑った。旅人も、つられて微笑んだ。
 修行者は暫し間を取ってから、おもむろに話し出した。
「私は真実を探し出す事が、人間にとっての使命だと過去に思っていた。大抵の人は、またそうであると思っていたが、別段真実など、どうでもいいという人々もまた存在する事は事実である。それを踏まえて、これから話す事は、あくまで私個人の考えである。そして、その考え、或いは私が * 一思に想う事は、時間、空間、状況が変れば、まるで反対の答えが待ち構えていると、心しておいてほしい。然しながら、私が捉えたと感じた事は、そういう意味でも、在る側面から覗き見た場合に於いて、有効なるものと自負している。まず、魔物についてだが、私は他者であるあなたに、或いは衆生が一般に認識している形で話しただけに過ぎない。私の詳らかな考えとしては、彼の男が魔物を信じていないからこそ、自分を試せたのだと考えている。理由は定かではないが、あの時の彼には実績が必要だったのではないか。魔というものは、人の心に発生するものだ。つまり、塔に上るという行為は、恐怖心の克服を他者に指し示す行為だったのではないかと推測した。古き慣習を払拭し、新しい意識を立ち上げる為にも、行動を起こしたのかもしれない。実際、魔物が棲むなどという場所は、人が寄り付かない分、見知らぬ生物や蟲などがいて、人間を襲うからに他ならないと思っている。それだけの事ではあるが、それも彼が行動を起こしたからこそ、指し示された事だ。事実、彼は無事に戻って来た・・・。それこそが、涅槃に達したという事であれば、人々はそう思うのだろう。ただ、それ以外の考えに及ぶとなると・・・・・・、私が昔、年老いたバラモンに聞いた伝承と関係があるからなのかもしれない。私も塔を後にして、旅をしていたと話したであろう。その時に聞いた伝承であるが、元々、勝利の塔は梵天の塔と呼ばれていた時代があったという。その昔、梵天の塔は三本の巨大な柱であり、天地創造の時に神が下から輪を積み重ね、塔のようにしてその輪を、ある決められた法則に従い、隣の柱へと移動し、全ての輪が完全に移り終えた時、この世界は終焉を迎えるという。だが、いつからか二本の柱が崩れ去り、今ある塔だけが残り、勝利の塔と呼ばれるようになったらしいのだ。そしてそのバラモンが言うには、梵天の塔こそ神そのものを表しているのだという。私はただ単に、その伝承から塔や柱を、古の人間が建てたに過ぎないと思ったが、どうやら底知れぬ意味が、そこに隠されているのではと感じるに至った。何故ならば、様々な国を訪れた時、バラモンだけではなく、異国の伝承も、ほとんどが三神ばかりを象徴しているからである。いったい、神と三柱、輪とが象徴している実体とは何か? 私は老バラモンの顔を、その額の皺を、よくよく覗き込んで思案に耽った・・・・・・。さて、なんだと思うかね?」
「さっぱり解りません。でも、興味は湧きます」
「私は滑稽な事を話しているのかもしれない。説得力のある話、納得のいく答え、これ全ては聞く側が任意に決めてしまうものだ。事実が想像よりも奇異な場合、聞く側がそれを受け入れる事が出来なければ、たとえ真実であったとしても、拒否してしまう。つまり、納得のいく答えというものは、時として真実などどうでもよく、自分の好みによって選別してしまう危険性がある。これから話す事は、たとえあなたが受け入れる事が出来なくとも、一つの考え方として、聞いてほしい。私とて、これが真実であると言いきれるものではない。たとえそのように聞こえたとしても、先程言ったように、在る側面から見れば、無力化してしまうものなのだから」
「承知しました」
「・・・・・・私はこう考える。神は、この世界のあらゆる事象を知っている。知っているが、何も手を下さない。そこに意思はない。何故なら、この世界はあるがままだからだ。そして、世界は神というものに支配され、その力に抗えないのであれば、神とは『時間』そのものなのではないかと考えるに至った。時間とは、まさに神なのだと言えなくはないだろうか。時間は人間の力で止める事は出来ない。現在というこの瞬間も、ただ時間が流れているだけではあるが、時間そのものは歴史を作り、今を知り、そして未来へと流れていく。誰も抗えない。この世界に於ける絶対的な力とは、まさに時間そのものなのではないか。神を指し示す三柱とは、過去、現在、未来を象徴し、輪の移動は時間の流れ。古から伝わる、あらゆる宗教の原始的な根本、神の正体とは時間なのではないかと」

「時間・・・・・・」
「私は古き遺跡の中に、墓を見た事がある。そこには、人と一緒に花が添えられていた。私はそこに、死別という悲しみや苦しみを感じた。その人に対する思い出や、その時間は、もう戻ってこないという絶望感をも感じた。人が生き、そして死んでいくのは時間の流れがあるからである。その絶対的な力、原始的な死生観が、生きる人々に、死による恐怖感、抵抗出来ない老い。時間という力に対しての支配感から、神が派生したのではないかと。それが今では形を変えて、人々に崇められる、または、幸せを願う存在へと変化したのだと考えた。だが、神の正体を知ったとて、どうなるものではないが、それを利用する人為的な神に頼るよりも、時間に頼った方が、まだ増しという事だ。時間が解決するという事でもあるが」




〜つづく〜





*注釈*

唯一在(ゆいつざい:造語)=個が独立して在る状態。

束縛から離れた者:ジャイナ教の祖師、マハーヴィーラ(偉大な勇者)は、本名ヴァルダマーナ(栄える者)であるが、古くからの宗教上の一派、ニガンタ(束縛を離れた者)派で修行しており、ニガンタ・ナータプッタ(ニガンタ派・ナータ族の子)とも呼ばれ、六師外道の一人である。
 この作品を書き始めた頃、偶然ジャイナ教を知ったのであるが、登場人物である修行者の立場が、非常に似ている事に驚いたと同時に、「束縛を離れた者」という名称が気に入ったのである。
 これは、使わせてもらったと断言させてもらうが、言葉じりとしては「束縛から離れた者」という形に変えた。そこから「唯一在」という造語を発想したが、この「唯一在」も、哲学に於ける「真実在」から着想を得ている。
 この作品は、ジャイナとは無関係であるし、これもまた共時性のなせる事なのかもしれないが、仏陀と同時代に、こういう人物がいたという事に、やはりというか、面白味を感じずにはおられない。
 それにしても、似ている。

勝利の塔:インドのラジャスターン州チットールガル要塞都市にある、15世紀に建てられたヒンドゥー教彫刻を施した塔(勝利の塔は、他にジャイナ教のものとも、北インド首都デリーの1199年に建立されたイスラムのクトゥブミナールであるとも言われるが、定かではない)。原始仏教の時代(紀元前500年頃)には、当然、存在してはいない。この塔に於ける伝承は、これを紹介したボルヘスという人物の著作『幻獣辞典』でしか見当たらない為、ボルヘスの創作という説がある。中身の話を簡潔に紹介すると(ボルヘス自身の話が、理路整然としていなく、私の解釈を含んだ形で述べる)、不完全な魔物が、塔を上る人間の踵にしがみつき、人間が最上段に近づく程、完全になっていく。ただし、その魔物が完全体で最上段に達するには、その人間が涅槃に達した者でなければならない。それ以外の人間だと、最上段に達しても不完全で、存在がぼやけたままだという。そして、魔物が完全体で塔の最上段に達したのは、ただ一度きりであったという。
 仏教が興ってから相当後の時代にもかかわらず、仏伝のような雰囲気を持っている事から、この物語に引用、及び脚色させてもらった。

塔の最上段に辿り着けた者は涅槃に達するという・・・、本当に真理へと達した者なのであれば、必ず勝利の塔にも上り切ると思ったからだ:この文脈こそ、原作のボルヘスの話とは異なり、脚色したものである。
釈迦は、菩提樹での悟り後に、覚者となったが、その生涯、複数回に於いて、「目覚めて」いる。段階を経て、複数回、真理を獲得していった、といえる。ただ、覚醒後に於いては、経験に過ぎないのかもしれないが。

空(くう):私の「空」の解釈については、既存の仏教観とは異なるので注意してもらいたい。ただ、既存の仏教解釈も、様々であり(「空」に関してはある程度は特定されている)、私の解釈(実感を伴ってはいる)でも、許容するだけの懐の深さが、仏教というものにある事を信じたい。

虚空を手に入れたかの如く:これも本物語の時代設定にはそぐわない、8世紀初頭に伝えられた真言密教の、虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)から発想した表現。虚空蔵求聞持法とは、虚空蔵菩薩の御真言(マントラ)を百万遍唱えると、大変な暗記力を得られるとされる。だが、そんなマントラを唱えなくとも、人間は追い込まれた状況から逃げずにいれば、かなりの集中力を得られると私は思っている。記憶力とは、言わば集中力だと、私の経験則から推測する。ただし、それを持続させるには、記憶したい対象を絞らなければならない。例えば、仕事という対象であれば、仕事に関係するものだけに、集中する事である。そして、常にプライベートでも、その事ばかりを考えていなければならない。それ以外に楽しみを見出したり、遠い過去の思い出に浸るようになった時点で、集中力は途絶える。所詮、人間の記憶力など、その程度の限られた脳の範囲でしか発揮出来ない。それに、持続出来たとしても、歳をとれば、若い時は正確に記憶出来た事でも、または、同じように記憶した感触があったとしても、蓄積された古い記憶が邪魔するのか、細胞伝達の衰えか、若い時のように正確に情報を脳に焼き付ける事は出来なくなるものだ。もし、脳のリミッターが外れたとしても、物理法則からは逃れられず、脳や体が長期に渡ってついていけなくなる。これはかなり危険だ。天才が発狂したり、夭折するのも、そんな理由からだと、勝手に考えている。

衆生(しゅじょう):仏教用語・ここでは狭義に於ける「迷いのある人々」という意味に使われる。単に人々と解釈していい。本文中では、「衆生」と書いたり、単に「人々」と書いたりしているが、あまり気にしないように。

一思に想う(いっしにおもう:造語)=云わば「思想」を、解体して表した、古の雰囲気を醸し出す為に、言葉のリズムを重視して着想した造語。示唆となったものは『日本書紀』(巻第一 神代 上)の、「一書にいう(いっしょにいう)」からきている。

梵天の塔:1883年にフランスの数学者エドゥアール・リュカが発売したゲーム、『ハノイの塔』の解説に書かれていたインドの古い伝承からきている。実際の伝承は、またまた脚色させてもらったが、本文に書かれている事と大差はない。果たして、本当にリュカが、インドで聞いた伝承なのかも定かではない。が、偶然なのか? 作為があったのか? それとも、本当に伝承を元にしてゲームを発表したのか? ある謎を解いた話として、私は注目した。云わば、この話が、「神」に対する答えの鍵となろうとは・・・・・・。この題材は、諸星大二郎先生の、『孔子暗黒伝』で知ったものだ。
 三柱に輪が移動するとは、時間の流れを示しているのではないか。そして、記紀にある三柱の神。神を数える単位を「柱」としている。ギリシャ神話のゼウス、ポセイドン、ハデスという三神は、未来、現在、過去を(全能の天空神と、海神、地下の神。これは、天空(未来)と地上(現在)と地下(過去)を象徴)、ティターン十二神やオリュンポス十二神は一年を(十二ヶ月)。インドのヴィシュヌ、ブラフマン、シヴァ神も然り(維持、創造、破壊)。モーゼの三種の神器(アロンの杖、モーゼの十戒石、マナの壺。アロンはモーゼの兄であり、モーゼは弟、世代を表す。マナは神から与えられた食物、力)。キリスト教の三位一体(父と子と聖霊も、世代を表す。聖霊とは、「神の力」と考える事が出来るが、聖霊には諸説有り、いずれにしても三神である)。ヨハネの黙示録、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる『私はアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである』」と、時間に関わる事が多いのだ。そういった意味では、ヨハネが最も神の秘密を明かしてしまった、とも言える。
 キリスト教の三位一体(三位格を一体)とは、何故一体としなければならなかったのか。唯一神としてのキリストが必要だったからだろう。キリスト本人のみに対する信仰を拠り所としたい為か。ただ、多神教も人気があったりと、時代により、その変遷は古代から様々である。それに、どうしてもユダヤ教の影響は受ける。
 ユダヤ教は、唯一神ヤハウェを信仰する。なのに何故、三種の神器があるのか。やはり、元々は三神であったからだとしか思えない。では、三神なのに、何故「唯一神」となってしまうのか。
 ユダヤの三種の神器は、神の象徴(神宝)でしかないが、インドに於ける三神一体(トリムルティ)と同じく、その三種の神器が一体となる場面がある。それは、三種の神器が「失われた聖櫃(アーク)」に納められた時である。

 唯一神とは、「過去・現在・未来(三神)」を、まとめて「時間(一神)」とした方が、より分かり易いとしたのか。歴史的流れで、唯一神が必要であった為か。
 それとも、「時間(一神)」とは何か、と考えが及んだ時、それは「過去・現在・未来(三神)」であるとなったのか、更に広げて「一年(十二ヶ月・十二神)」となったのか。原始の記憶を辿る事は、もはや不可能である。

 仏教に於いては、宇宙の周期が、成劫(じょうごう)、住劫(じゅうごう)、壊劫(えごう)、空劫(くうごう)を繰り返すとある。これは、仏教が他宗教との差別化を明確にしたい意図があり、この周期は四柱であり、四季を表しているともとれる。
 釈迦が王子の頃の逸話、四門出遊は、東門に老人、南門に病人、西門には死人、そして北門にて出家した修行者(!)と出会う。これはそれぞれ、「時間」とは関係ないようであるが、病人、老人、死人と、人生の流れを、最後に出家した修行者の登場により、釈尊の未来を暗示しているようにみえる。これはやはり、仏教は神の存在を重視せず、仏陀の格を重んじるからであろうか。三つの門(柱)の次、四つ目の門に出家修行者を置くのであるから。

 とはいえ、神=時間であるという私の考えは、宗教が組織化された以降、教えるべきではない者には、教えない方がよいとして、秘密となってしまっただけかもしれないし、これはあくまでも、説に過ぎない。あまり、信じないように。

 仏教には神すら、仏陀の運命を変えられないとする定義がある。神よりも位が上だとするのは、後世の弟子達による創作だとは思うが、「仏陀は、あらゆる時空を超えた出世間智に於いて、常に常住である」とするならば、時空を超えた存在として、確かに神を超えている。
 一般的には、仏陀が得た真理は、いつの世も不変で、その教えは永遠である、という事だ。

 そして、物理的には、時間に影響を与える存在がある。
 それは、重力である。
 しかしながら、人間の精神や心理から発生した神の存在は、物理学と無縁である事は間違いない。
 私は、子供の頃、ネアンデルタール人の墓に花が添えられていた、という記事を読んだ事がある。そこに、取り返しのつかないであろう悲しみ、そして、その人が生きている頃には、もう戻れないという、送別者の心情を感じ取った。そこには、時間に対する、恨みにも似た感情もあったであろう。無情にも流れていく時間というものへの無力さは、ネアンデルタール人が生きていた時代からにも、時間に対する畏怖が、連綿と人々へ受け継がれてきたのではないかと感じたのである。








「ハノイの塔」





「梵天の塔」

The Puzzle Museum (THE TOWER OF HANOI)
https://www.puzzlemuseum.com/month/picm07/2007-03_hanoi.htm



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