SEA, SWALLOW, 

 (海の青さ以外 全てモノクロームな世界・・・、私はツバメ。)

    まことに人生これ一瞬の夢、紙風船のごとき儚さかな。 (中原中也 調)


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2009年
12/18
■人生はなかなかドラマティックにはいかない。では、現実以外の表現活動を、更には現実の職業自体をも、強引にドラマティックにしてしまえばいい。
それが、自作自演屋を自称し、東京事変を結成するに至る椎名林檎なのである。
非常に寺山修司的である。

12/17
■私は知識欲から、深夜にやっている『CBSドキュメンタリー』なんぞを観ている。
すると、すでに亡くなっている有名人の肖像権を、遺族に取り計らい、マネージメントをしている職業がある事を知った。ジェームス・ディーンやエルビス・プレスリーなど、その映像でCM等を作る際、著作権料的なものを、がっつり取るという事なのだ。
ちなみに、その亡くなった有名人の事を「デレブ」というらしい。「デッド セレブ」の略である。 
文学に於いては、作家の死後、60〜80年後ぐらいになったら、著作権は消滅して、いくらでも引用(盗作ではなく)出来るという事になっている筈だが、肖像権は確かに隙間産業というか、よく目を付けたものである。
自分のこのページにも、ジミーを貼り付けているが、それで商売はしていないので、見逃してくれれば幸いである^^;)

音楽に於いては、そこらへんしっかりと管理されていて、著作権協会か、もしくはマイケルジャクソンみたいに、ビートルズの著作権を買い取るなど、誰かしらが管理運営されているので、インターネットなどでも、かなりうるさい。であるから、最近はMIDIファイルでも、なかなか手に入らず苦労する。
ただ、個人のHPに貼り付けるなら、それをダウンロードする事は出来ないので、宣伝という要素もあり、そのまま流しても良いとは思うのだが、マンガなどでも歌詞を載せたりすると必ず著作権を表示するので、これからも不可能だろうな。

12/7
■『夜話』の「中岡慎太郎と龍馬暗殺」を、全面的に修正しました。
実は、知り合いから「あくまでも説であるから、あまり断定口調なのはよくないのではないか」との指摘があり、全体的に少々直そうかとは思っていて、この度、『夜話』を読んで戴いた方から、「つづきを読みたい」とのメールをも戴き、あせり書き直した次第です。指摘した知り合いも、中岡主目的の説を持っており、別段私の説には反対という訳では有りませんでしたが、確かにそうだと思いました。

昨今のTV番組に於ける決め付けの論説を観るにつけ、やはり宜しくないように思ってはおりました。今井信郎が犯人とした歴史推理もののTVでも、おそまつ極まりないものでしたから。証拠のあやふやなものを引き合いに出して、いかにも犯人であると決め付けている手法は、問題があると思うのです。とはいえ、自分の説文もそうなのかもしれませんが、「気を付ける」という心持ちは大事だと思うのです。故に、言葉尻を整え、柔らかくする事によって、多少なりとも、目に付く強引さを控えめにしました。
全体的に書き直したので、最初からまた読んで戴くと、印象が違ってくるのが分かると思われます。目新しく変更したり、付け加えたものは、赤い矢印マークをしてあります。

ちなみに、本来は文章として、段落が変ったら一マス空けるのですが、『意訳』も然り、自作品ではなく、他者の資料などから書き起こしたものなので、正式さを外したものとしています。
 
11/12
■なんというか、今週は何かしら作品か書き物を更新しようと思ったのですが、疲れが出て書く気が起きませんでした。すいません。やはりね、仕事をしている身ですから、こういったものは趣味と言われれば確かに趣味なんですよね。私もそう思います。文で飯食っている訳ではありませんから。でも、趣味にしては作品作る時、気が入り過ぎるし、まぁ、マニアみたいなものでしょうか。詩作マニア? 笑)

最近はあまりお便り(メール)も無く、こんな私とて、やはり「楽しみにしてます」等のメールを戴ければ、それなりに(それなりに?)頑張ったりはする訳でして、なんというか世はブログ一色なので、そうそう閲覧者の声は、こういったHPだと聞けないのは確かですが、管理に手間かかるし、ブログはやはり興味が湧きません。大体、作品発表出来ないし。
なにかの書き込みで、「メールはダイレクトにサイト作者と連絡を取れるので、実際はブログよりも有効に使えるのに」と言っていた人を見かけた事がありました。ただ、ウィルスやメアドを知られるといったリスクが嫌なのでしょう。
ちなみに私は、ウィルス対策として、abast に入ってますから、一応安心してメール下さると幸いであります。このソフトは軽くて高性能なのでお薦めです。とはいえ、100%安心という訳でもないのでしょうが。
最近気になったのは、ボットウィルスです。佐野元春氏のソングライターズを、BSの再放送で観ている私なのですが(まだ地デジ化してなくて、アナログ3チャンネルだと映像が悪いので)、一旦休止の今は、その時間枠でネット講習的な番組をやってまして、それで知りました。感染すると他者から遠隔操作されるという悪質なものです。
対策としては、総務省HPのCCCにて、ウィルスチェック及び駆除できるツールが手に入ります。 私はウィニーやカボス、ライムワイヤーなどの共有ものは嫌いですので、当然そういうソフトは、パソに入れてません。すでに違法になってますしね。

只今グラチャン真っ盛り。対ブラジル戦を観ていて思ったのですが、やはり勝負というものは、紙一重なのだなと。あそこまでいくと、あとはミスの差ぐらいですよね。全日本女子は頑張ったと思いますし、強くなったとも感じました。ただ、勝てないのはなぜか? これはひとえに体格差でしょう。ミスをしないというのもありますが、底力というものを考えさせられます。
強い相手と接戦になった時、勝てそうだと思っても最後は畳み掛けるように、やはり元々強い相手が勝ってしまいます。僅差でも勝ちは勝ちといったような勝ち方です。競馬とかでもよくいわれる底力ですが、これは一体なにかと考えると、総合的な体力、ここぞという時の残っているエネルギーだと思うのです。
これは試合時間を通して体力が持つかといった所から、要所要所のターニングポイントで、いかに全力を出せるか。そして、それを試合最後まで持続できるか? といった事だと思うのです。それには全体的に七割〜八割の力で相手と渡り合い、互角か頭差勝っておいて、いざとなったら十割の力で圧倒するといった運びです。強さの器(容量)の大小とでもいう所でしょうか。総合力で勝るともいえます。
そういう相手にどうしたら勝てるでしょうか。
やはり中国のようにミスを少なくする体力をつけるしかないような気がします。球技はマラソンなどと違い、技の連続体だと思うので、体格的に優れている相手には、技を繰り出す時のミスをなくすような、或いは安定した技を磨きぬくしかないと考えますが、いわば当たり前の事だともいえます。そしてそれが一番難しいのかもしれません。
ですが、ルールというものを研究し尽くし、日本選手に合った戦略のもとに、体力か技の安定感を前面に出した時、道が開けるような気がするのですが、、、。具体案が思いつきません、当たり前ですけど^^;)
歴史的にみると、弱い相手が、強い相手に勝つには、ゲリラ戦法や不意打ちといったものが有効ですが、何度も使えば相手に研究され、いずれは通用しなくなります。でも、今回のような短期決戦ならば、ゲリラ戦法は通用するのでは?
「勝つ為にはなんでもやってやろう」という気持ちが必要です。フェイント、クィック、時間差、ツーアタック、平行、バックアタック、ブロード、多彩な攻撃を期待します。特にフェイント! 苦し紛れではなく、狙ったフェイントを! ゲリラ戦法的なツーアタック!! バンバン使いましょう。。。無理かな^^;)

11/7
■自分のパソコンのブラウザをVerUPしてから、あまりページをチェックしなかったのですが、フォントの大きさが思い通りになっていない(ーー;) 更に小さくなってしまっている。以前はIE6でしたが、IE8へとVerUPしました。最近までIE6だったのは、IE7が使いづらくて嫌だったからです。ですが、IE6の有効期限が切れているとの表示がでるサイトがありましたので、ま、別段そのままでも不便はなかったのですが、試しにIE8を旧パソコンにインストールして使ってみた所、IE7より使いやすくなっていたのでVerUPしました。速さも良好です。IE側は一応ファイヤーフォックス等より速いと唱ってますが、ハード次第の所もあるでしょう。Google Chromeよりかは確かに速いですが、これもハードによるかもしれません。

フォントは「意訳(Free translation)」やこの「更新履歴」みたいな大きさが、スッキリしていて良いとは思うのですが、なるべく大きい文字の方が、目の悪い方にも読みやすいと思い、自作詩は標準のままにしてあります。私もあまり目が良い方ではないので。。。
今回ついでに、この「更新履歴」を左寄りにしてみましたが、私自身試してみて、それでも雑に書けるみたいなので、一応体裁が良さそうだし変えてみました。見た目、ちょっとはスッキリしたかな。。。
様々な方のブログを見て、かなりデザインが良いようで、私のこのHPは古臭くなりましたが、ネットで知り合った方に、目のお悪い方がおられまして、いまだ小さい文字表示に抵抗があるのです。
更にワイド画面が一般的になり、最近のブログ等は、表挿入して左寄りの文を、中央に集約しているデザインが多いですね。これは綺麗ではありますし、自分が使っているHP作成ソフトでも出来るのですが、文字を小さくしての前提のようでもあり、大きくてもまあ綺麗に見えるかもしれませんが、なにぶん天邪鬼でして、皆がそうなら自分はそうしたくないといったとこですかね^^;)

まだ、直してないページもありますが、追々フォントは小さくならないように直します。来週の一週間は仕事が暇なので、色々更新したいとは思っとります。

10/5
■なんか『クレヨンしんちゃん』の映画か原作だかに、良い名言があったので。

「正義の反対は悪なんかじゃないんだ。正義の反対は『また別の正義』なんだよ」

「弱い者ほど相手を許すことが出来ない。許すということは、強さの証だ」

作者の死は国際的な損失だそうで。
春日部はTVアニメのおかげで、国際的に有名な日本の地名になったとか。
ギャグを生み出す人って、しっかりと人生についても考えている。
ご冥福を祈ります。

10/1
■最近の気になるもの。
今度BSで始まるイギリスドラマ『マーリン』
ファンタジーといったら、やっぱアーサー王伝説!

ビエラのCMでかけられている曲「彼方の光」、リベラというボーイソプラノグループ。
ウィーン少年合唱団も好きだったが、こちらはより現代的。
ハーモニーの力が生かされている、美しい歌声。
最近は、単独ボーカルでも、低音を混ぜたり、
機械で変声させたりしてるアーティストが多いが、こちらはスタンダードな合唱。
やっぱり合唱はいい。ビートルズだって、ハモりが良かった訳だし。
生理的には女の子の合唱団の方がいいと思うのだが、
私、不思議とエンヤとかケルティックウーマンとかは駄目。
なんか、こちらに届いて来ない。コクトーツインズやジョンレンボーンの女性ボーカルは好きなのに。。。あと、サラ・ブライトマンも好き。

アヴリルラヴィーンの「ガールフレンド」はいいね。
ただ、真似するグループが多くて埋もれそう。

ギャグでは、ファンキーモンキーベイビーズ。後ろでただ変な踊りを踊っている人。
ボーカルが前で歌っているけど、後ろのお猿(失礼)ばかり見てしまう。
釣竿でリールをただ巻いていたり、所々、カメラ目線でポーズを決める。
きゃつは只者ではあるまい。。。

もちろん、ガーネットクロウのニューアルバム。
これから聴くぞっと。


9/16
■「旅人」のつづきを書きました。えらく長く書いたと思ったのですが、
たいした量ではなかったようです。
仕事が暇になったのもありまして、つづきはまた近いうちに書き込むとは思いますが、
確約はできませんみたい^^;) すみません。
まだ、手直しをするかもしれません。いつものように、たいした時間もかけないで、
仕上げたものでして、ま、時間を置くのも文には良いのですが。
いつも、トップページから訪れて戴いている誰か様、
この更新履歴からでも、訪れて戴いている誰か様、
の為だけに書いています。
いつも、ありがとう。

8/24
■以前もそうだったかもしれないが、女子バレーボールにガッカリ。
かなり強くなったと思ったら、決勝ラウンドに入った途端、
相手がどうやら本気を出してきて、アッサリ負けが込んでしまった。
いや、別に選手には文句はない。対戦相手に文句があるというか、
でも、いい夢見せてもらったというか^^;)
「ブロックを制する者は、世界を制す」
この考えは、ブラジルを見ると間違っていないようだが、
日本選手のように外国選手より体格的にハンデがある場合は、
むしろサービスに力を入れた方が良いようだ。
ただ、ブロックもかなり強化されていたので、結構互角に戦えたと思うのだが、
何よりも相手のブロックやレシーブの方が上手である。その証拠に、アタックが決まらない。
では、同じアジアの中国はどうなのかというと、よく分からない。
いつのまにか勝っているという感じ。組織的プレーや連携プレーにミスが少ないからかな。
日本人より技術に安定感があるといった所なのか。
以前だと、サーブで崩しても、結局強烈なアタックを返されて、サービスには意味が無いような感じだったが、今回のバレーのように攻撃的なサーブを中心に、戦っていくしか道がないように思える。そして、ブロックも今回のように意識しつつ。
とにかく、メダルが取れるぐらいに、強くなってもらいたい。
決勝ラウンドで唯一勝った、オランダ戦のように戦ってくれれば、
勝てると思うんだがなぁ(ーー;)

8/16
■暑いですね、こう暑くて仕事も忙しいと、文章も書きたくなくなります^^;)
それにしても新生女子バレーボールは面白くなってきました。
以前、3Dバレーを推し進めていた頃、目まぐるしく変る攻撃に、
これは凄いと思ったのですが、その試合だけで、その後は普通のバレーに戻ってしまいました。結局、奇抜な戦法は使う方も難しく、常にそれでは戦えないのでしょう。
凄いと思った次の試合には、「東洋の魔女」の元メンバーの一人が、
女子バレー強化委員長だったとはいえ、わざわざ観戦に訪れていました。
それぐらい、すごく強い試合だったと思うのですが、今回のチームもかなり凄いのではと思います。3Dバレーのアクロバチックなものとは少々違い、有効な攻撃パターンを多様化し、単調になりがちな攻撃にIDデータを利用しつつ、常に変化をもたらしているといった所でしょうか。
アタックが決まるというのもありますが、ブロックアウトにさせる技を木村選手が身に着けたのも大きいし、何よりブロックも決めてきます。私は以前から「ブロックを制する者は世界を制する」と思っていたので(何様?)今回のようにブロックも重視するバレーをしてくれれば、観ている方も爽快感と安心感が増します。
たとえブロックがあまり決まらなくても、相手のエースのアタックを、一本でもブロックすれば、相手のエースは調子よくアタックを決められなくなるので、やはり有効になります。
栗原選手のサーブも良いようです。TVのフレームインのせいかどうかは判りませんが、何かしら助走が短い時か、ジャンプがゆっくりしている時に、サービスエースが決まっているような気がします。助走やジャンプに勢いをつけると、ボールへ当てる事だけに気を取られてしまうからかなと思ったりします。
テニスに於いても、バレーボールにしても、女子しか観ないのですが、
それはラリーが続くので面白いからです。それに、どちらのスポーツも女子の方が、華があるからでしょうか。
長らくブラジルに勝っていない日本女子バレーですが、今度こそ勝ってもらいたいですね。

7/5
■新作『賢者と旅人』の題名は、『旅人』にしようと思う。
本当は『賢者と旅人』にしたかったのだが、その理由の一つとして、
トルストイの寓話があり、十代の頃、えらく感銘を受けたからであり、
『賢者と旅人』も、そういったおとぎ話的にしたかったのだが、
だいぶ方向性がそれてしまったから、仕方がない。
『旅人』の元のアイデアは詩的だったのだが、
すでに半分は哲学的になってしまったので、
今回の作品は「詩」と言い張る事は出来ないだろう。
残念だ^^;)

6/13
■YUIの新曲はかなりいい。
以前、彼女の「迫り来る切なさ」に、びっくりしたと書いたが、
今回の新曲の詞が、かなり成長していて、更にびっくり。。。
元々、ギター1本で登場してきたイメージのある彼女。
だからこそ、これからはビッグバンドを結成して演ったら、
面白いと思うのだが・・・。

5/8
■久しぶりに『詩集 アフリカ』の詩を、書き加えた。
今また所々読んでみると、当時の葛藤が思い出され、
なんとも恥ずかしく感じる。
「新世界」は、かなり初期の作品で、今回、少々書き直してしまった。
本当は、あまり書き直さない方が、当時の自分が出ていて、
いいとは思っているのだが・・・。
文法に関しては、それに即していなくとも、自分が書いたものが、
文法になる! と、自信過剰なのだが^^;)
やはり、今読み返すと、もうちょっとなんとかしたくなってしまった。
とはいえ、なるべく残してはいる。大幅な書き換えは無理だし。

例えば、Wordで書き起こすと、細かい間違いを指摘してくれるのだが、
すべて、こっちがワザとやっているものを、指摘してくるので、
無用といえば無用なのだが、反復文字に関しては結構役に立つ。

当時としては、練りに練って、漢字から平仮名まで、選び出したのだが、
やはり今現在の自分の方が、成長しているので、分がある
(これはただ日本語の使い方に関してのみではあるが)。
しかしながら、書き換えると、実は前後に関係があり、
ワザとそうしたものがあったりするので、よほど気を付けなくてはならない。
出来上がっているものを、全体的に手を加えるというのは、今でも難しい。
自分で書いたものであるから、大丈夫だろうと思われるだろうが、
無理な部分がほとんどだ。
これだから、作品とは、生まれてくるものなのだとしか、言えなくなる。
意識的に作ったものは、いくらでも書き換える事が出来るから。
世界観や構成といったものは、無意識の中で、出来上がるのが、
作品としては理想的なのである。

5/3
■忌野清志郎氏が逝去した。なんともいえないショック。
まだまだ亡くなる歳ではなかったのに・・・。
ど派手な人だったが、不思議と悪口を言う人はそんなにおらず、
飛び抜けた個性であったが故か、世代を超えて愛された人だったように思う。
見た目が不吉^^;)ではあったが、一番「死」のイメージから遠い、
パワフルな人だった。
それにしても早い死であった。悔やまれる。
ご冥福を祈ります。

4/3
■年度末という事で、忙しかったのですが、ようやく落ち着きました。
といっても五月にはまた忙しくなりますが。。。
新作「旅人」を書く前まで、目の調子が悪く、暫く書き物をしてなかったのですが、
なんとか、目も落ち着き、またぼちぼち書こうと思ってます。
という訳ではありませんが、夜話のつづきを書きました。
薩摩藩説に書き加えたのですが、ほぼ、言いたかった事を書き込めたと思います。
自分にしても、早く結論に至りたいのですが、
まだまだ書かなくてはならない事が多く、じれったいです^^;)

ところで、以前詩集を自費出版した所が完全に倒産したので、
このHPに詩集「アフリカ」全編を、書き込めるようになりました。
これも、ぼちぼち書き加えて完成させたいと思っております。



さて、ジミーのお写真、バイクに乗っていて、皮ジャンを着ているのですが、
この写真から、そっくりの皮ジャンを何十年か前に「ジェームス・ディーン財団」が作り、
限定販売したのを買った事があります。
かなりカッコイイのですが、着る機会があまりなく、
今は保管?しているような感じであります。

2/1
■唐突ですが、ジェームス・ディーンはリーバイスを穿いていたか?
リーバイスのCMで当然のように言われてきた事ですが、
映画『理由なき反抗』ではリー・ライダースを穿いていました。
なんかの雑誌に、写真をデシタル処理して、リー・ライダースと判明。
けれど、そこまでしなくとも、かなりアップの写真があるので判った筈。
という事で、その雑誌の記事掲載後、リーの方から101の復刻があり、
CMは初めてジミーを前面に打ち出したものでした。
ジミーはリー・ライダースを好んで穿いていたのでしょうか?
ここらへんは噂というか言い伝えというか、はっきりしません。
プライベートではリーバイスを愛用していたとも言われております。
だから、どちらも愛用していたという事にしておきましょう^^;)
ただ、ジミーはバイクを乗っていたし、映画『ジャイアンツ』では、カウボーイ的な役、
機能的には、バイクや馬に乗る時、前かがみになりますが、そういった場合でも、
ジーンズの後ろ生地があまり開かないように工夫されているのが、
リー・ライダースのジーンズなのです。
私はジミーのファンですので、煙草を吸い始めた理由に
「ジミーも吸っているから」というのがありました。
ジーンズは、リーバイス501や505が好きですし、リー・ライダースの101も穿きます。
十代の頃は、ブラックジーンズしか穿きませんでしたが、これは「反抗」というものを、
自分なりに表現していたからでした。
映画『理由なき反抗』では、赤いジャンパーも話題になりました。
ブランドは、マックレガーのドリズラーという事ですが、
これも実はそうではないとか、諸説あります。
でも、これってなんとか買える値段なので、違っていても、いずれ買いたいと思ってます。
赤は似合いそうも無いので、黒のドリズラーになるかな。
長年、疑問がありまして、ジミーは、映画『理由なき反抗』で、
愛称を自ら「ジェイミー」と発音しています。
日本では一般的に「ジミー」ですが、発音的には「ジェイミー」の方が正しいのかな?
ネットで検索しても未だ答えは見つかりません。

1/6
■さて、「旅人」のつづきは、また気が向いたらという事で^^;)
今回、この作品を未完ながら仕上げ、思った事は、今までの詩については、
批判を受けた場合、反論する事は出来るし反論したい、
だが、「旅人」について批判を受けたら、
もう、その通りですとしか言えないだろうという事だ。
何故ならば、この作品のみ、非常に哲学や思想といったものに偏っていて、
以前からも言っているように、そういうものは結局答えなど出ず、
人間の見方などもそうだが、良く思っている人であれば、どういう行いをしても、
いい方に捉え、悪く思っている人であれば、どんなにいい事をしても、悪く思われる。
思想、哲学などはイタチの追いかけっこであり、その答えなどは時間や状況が変れば無力化し、結局、解けないパズルを、さも解いたかのように見せるに過ぎないと。
別段嫌いだという訳ではないのだが、根が詩作人であるから、そんな暇人がやるような分野には、到底手を出そうとは思わない。
という論でさえも、「今日の一言」などで、思想哲学っぽい事を言っているので、すでに破綻している。
では、いったい詩とはなんなのか? 文学とはなんなのか?
国文学者に言われてしまったが、
「空事の中に真実がある。空事の要素がなければ真実は伝わらない」といった所か。
「旅人」にしてもそうだが、最近書いている事が、ややっこしいというか、言葉自体も難しくなっている。
段々、頭が悪くなってきているようだ。。。

2008年
12/27
■この作品を発想していた時、私はジャイナ教の事を知らなかった。
だが、仏陀の事を調べているうちに、ジャイナ教の事を知った。
その内容は非常に自分の考えに近かった。
しかも、祖師のマハーヴィーラは仏陀と同時代の人間である。
ニガンダ派の24人目の祖師となった、マハーヴィーラのジャイナ側の言い分?では、24人目の祖師になる事を、仏陀も望んだのだが、マハーヴィーラに負けたとされている。在り得ない話であるが、仏典にしても、はっきりとした解釈が、現在でも確立しておらず、あちこちで仏陀の教えに対する解釈もまちまちなのを見て取ると、これはジャイナの相対論が出番になるという皮肉な結論になってしまうような気がする。つまり、ある側面からすると、仏陀に負けていない面を持っているという事である。
ジャイナの相対論とは、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると・・・」という限定を付すべきだとする、「スヤード・ヴァーダ理論」というものを説いた。私もこの論法については大賛成であるし、本作品中にもいずれ出現する論となる。
ただ、ジャイナは戒律が極端すぎる傾向があり、布施の取り方も、いったいどちらが欲張りなのか分からない、という批判も出来る。
「欲」について、ある宗教学者は「仏陀は無欲という印象が定着しているが、実際は欲に走りすぎてもあらず、また、欲が無くてもあらず、と解釈でき、ここでも中道を以って教えを説いている」と解説していて、納得はできるが、ではまるっきり無欲という解釈は間違っているのかというと、それもまたそうとは言えないような気がする。
結局、多元的な解釈をするか、相対的な解釈をするか、唯一絶対的な解釈をするか、これも相応にして、その解釈のどれを採用するかと、収拾がついたのか、収拾がつかないのか、といった有様になる。ここで出番となるのが文学であり物語と成り得るのではないか。
だから、本作品中の仏教的な解釈は、正しいとも間違っているともいえない事になり、それを以って成立するのが文学であり物語であると考えるのだ。
であるから、本作品はこうであるという決め付けの論があったりするが、どの論に対しても、読み手は俯瞰で見ていただけると、作者としても助かる次第なのであります。

本道は私的仏陀観である。だから、自分自身の思考がジャイナに似ている所があったとはいえ、ジャイナ教のエピソードや思想からの直接表現は、極力避けるように書いている。
でも、一つだけ却下できないものがあった。それは、マハーヴィーラの別名が、ニガンダ派に属していたので、ニガンダ・ナータプッタというその名の意味である。
ニガンダとは、「束縛を離れた者」という意味で、この言葉はどうしても使わざるを得なかった。それ以外にも、似通っている思想があるものの、特にジャイナを意識し、直接採用して書いたものではない。私の思考性が、ジャイナに共通するものがあったというだけなのであるから。

12/20
■題名も決まらぬまま、新作の発表となりました。
こうなったら、題なんて二つあってもいいじゃないかと、投げやりにもなったりします^^;)
読み手がどっちか勝手に選んで下さい、みたいな。。。
何故、一つに決めかねているのか、完成した後、よくよく読んで戴けると、分かって戴けるかと思われます。
さて、本作品ですが、どのような本でも早く読める人に念押し。
根が、詩作人な為、一行一行に、無駄なく念入りに意味を凝縮しています。
たまには、ゆっくりと読んで戴ける事を、切に願う次第です。
でもまあ好きに読んで下さい。強要はしたくないので、、、。
この作品、新作とはいえ、10年くらい前に発想していたもので、実は『ミッシング』に書かれてある他の作品も、大体そのくらいの時期に発想していたものでありました。
ですので、本人的にはあまり新作といった感覚はありません。
発想から書き込みまで、時間がかかるのも、別段仕上げる気が無いだけでありました。
つまり、自分的には、新作などあまり発想していない訳であります。
でも、その新作といえる最近発想したものは、無い訳ではなく、
この「旅人」或いは「賢者と旅人」が完成したら、
もしくは未完のままでも、次の本当の新作を発表しようかなと画策しておる次第です。
終らせてからにしろよ、と思うのですが、長いと自身飽きてくるから^^;)
今の所、恋愛詩二つ(別に恋愛中でもないですし、苦手なのになぜか)
SFまがいの変な作品一つ(ある意味問題作!)。来年の前半にはやっとこうかなと、、、。

さてさて、今回のつづきは、未完ながらすでに出来上がってます。
また、来週の土曜日の夜か日曜日の朝にでも、書き込みたいと思っております。
別段、アラン・シリトーとは、関係ありませぬ。
でも、アラン・シリトーは好きです。特に学歴の無い所が、私と一緒だから(^◇^)
では、また来週。

12/16
■仕事が忙しく、久しぶりの更新です。
まあなんというか、年内に新作をと思っていたのですが、
難しそうな、そうでもないような、なんともいえない感じです。
とはいえ、仕事が一段落ついて、今月はもう少なそうなので、なんとか発表したいのですが、いずれにしても、未完のまま発表となり、発表したものを更に書き直したりする作業を露呈しつつ、書き加えていくような感じになりそうです。
これは『意訳』で、そういう形を見せて、どういうふうに書き直すかが、
ここに訪れてくださる人達に、面白く映るというコンセプトがあったのですが、なにぶん、結構完成した形で意訳できてしまっていたので、あまり作業中の面白さは出ませんでした。
ので、今回の新作では、それが露になり、面白いかもしれません。
まあ、マメにワードでコピーしたりして、見比べてみないと分からないものなのですが、
そこまで熱心な方がいるのかは窺い知れません。
でも、どうせほんのちょっとの直しの連続になると思うので、やはり面白みはないかもしれませんね。
以前、完璧な作品を作りたくなり、などと申し上げましたが、
暫く創作に離れていたせいか、作品とはそう簡単に完璧なものなど生まれないという事を忘れておりました。とはいえ、詩集『アフリカ』は、いい線いっていたとは思うのですが
(^◇^)
今回は、8割くらい完璧だと思うのですが、やはり10割はどうかと思いますと、時間が教えてくれるので、それを待つしかない訳です。
詩作も重ねると、初期のように、ポンッと生まれてくるものも少なくなってきたりするのです。ポンッと生まれてきた作品ほど、完璧な作品が多いと感じます。
今回の新作は、長い為か、結構考えて書いているので、そうなると完璧にはいかなくなるようです。
慣れない長編(とはいえ、小説より短いと思いますので、やはり、物語作品としか言いようがない)ですから、直しも多く、完璧に操作できるようにはいかない感じですからね。

だからこそ、煮詰めていない今、発表した方がいいのかもしれません。
取り合えず、今週の土曜日の夜に発表しようかと、今、決めました。
ので、宜しくお願いします。
忘れたらごめんなさい・・・^^;)

10/10
■これは、ついさっきまで見ていた夢である。

「ここは僕の住んでいるアパートメントだ。部屋は縦長で、ほら、この通り三回スキップ出来るくらい縦に広い。・・・横に広いのかな? 玄関の前はすぐ通りになっているから、部屋の中でも人通りのざわつき感を感じる。
そうだ、僕はこれから気晴らしにバイクを乗ろうとしていたのだ。だが、この前乗って帰った時の置き場所が不確かなので、ちょっと様子を見てこよう。僕は玄関を開けた。
すると、そこは通りには面していなく、このアパートメントの別棟へと通じる狭い敷地内であった。
僕は左脇の通路を通り、バイクを探しに行こうとした。が、ふと振り向くと、探検隊のようなクリーム色の制服を着て、なぜか虫取り網を持った二人が、僕の部屋の扉を調べている。すでに僕の部屋の扉は半開きにされていた。彼らは戸締りチェック機構の人達だ。別段彼らがそう名乗った訳でもないが、実際そうなのである。仕方ない、鍵を取りに部屋に戻ろうとしたら大家さんも立ち合っていた。僕は大家さんに挨拶をすると、部屋に入り、鍵を探す。すると、バイクの鍵も置きっぱなしで、都合よく見つける事が出来た。そうだ、バイクに乗るにはヘルメットがいる。さて、ヘルメットは? なんと、部屋の隅に複数置いてある。見覚えのないものだ。皮の繋ぎも畳んで置いてあり、誰のものか不思議になる前に思い出した。そうだ、この部屋は、友人からなんの手続きも無く、引き継いだ部屋だったのだ。だから、友人のまた知り合いかなんかのヘルメットや繋ぎも、無造作ではないが、邪魔にならないように部屋の片隅に置いてあるのだろう。とすると、さっき大家さんに会ったのはやばかったかもしれない。
ともかく自分のヘルメットを持ち出し、部屋を出ようとすると、水道を使っている音がする。だが、今も先ほども、水道は使っていない。とはいえ、水を出しっぱなしに部屋を出る事も出来ない。確認しようと僕はまた部屋内に戻る。大家さんも部屋に入ってきて、その音のする蛇口の近くまできて確かめる。あゝ、別部屋の方が使っていて、配管がこの部屋を経由しているのね、といい納得してくれた。
僕は扉に鍵を掛けて、この前バイクを置いた場所を探そうと、再び左脇の狭い通路へと歩を進めた。
だが、記憶を辿っても、この前バイクを置いた場所は、塀と別棟の間の外だったか、別棟の何故か中に置けたので収容したのか、定かではなく、しかも、複数のバイクが無造作にそれぞれ置いてあり、探すのがまた一苦労しそうだ。それにいったいこのアパートメントの数の多さときたら・・・」

と、途方に暮れた所で、目が覚めた。現実の僕はバイクを持っておらず、免許すらも無い。でも、昔に友人から借りて埠頭を流した事があるので、バイクへの憧れは強かったのだろう。時効です。現実的には、もう乗る気は無いのだが。
大抵、カフカの作品はこんな感じで、ささいな目的でも、それを達しようとすると、ひたすら邪魔が入り、いつまでたっても話が進まない。不条理だ。が、カフカ作品は、それでも面白い。
今回の私の夢は、果たして人が読んで面白いのかどうかは定かではないが、自分自身は面白かったので、一つ書いてみようと思い立ち、作品とまではならないようなので、ここに書き込んだ。ちなみに、構成など何も考えずに一気に書いたものだ。直しも無い。
夢の内容もそうだが、鮮明に浮かんだ物語は、すでに完成しているので、ただ、書けばいいだけなのである。
「A word」でカフカの事を書いたので、ついでにウィキペディアのカフカの項を読んでいたら、影響を受けた作家の中に諸星大二郎先生の名があった。
なるほどそういえばそんな感じだよなぁ、と一人感心。諸星先生といえば、ネクロノミコンのラヴクラフトのイメージが強かったが(近作の栞と紙魚子シリーズのせい)、なるほどカフカというのも納得。そして、私の「アフリカ」も、もろにカフカと夢の影響下にある。
諸星先生は、『暗黒神話』や『孔子暗黒伝』が代表作でもあり、その作品内での仏陀観は、私にかなりの影響を与えてくれたものであった。氏の仏陀観は、「ヴェーダ」とも融合させたりしたものであり、非常に奥深く、そしてカッコイイ。
諸星先生は知的な為、その作品は大ヒットには結びつかず、一時期はどこも掲載誌が無くなってしまったのだが、そんな時、丁度、諸星版西遊記といえる『西遊妖猿伝』が手塚治虫文化賞を取り、なんとか食いつないだ^^;) 
その後は、徐々に作品を増やしていけたのだが、たぶん氏は作品を、ほとんど一人で描いているご様子なので、週刊連載は出来ない状態。小出しに発表するしかない状態であった為、月刊誌での連載や、週刊誌でも隔週での掲載しかなかった。だが、昨今の雑誌形態が、週刊誌の不況もあったのか、不安定な月刊誌は意外と息が長くなり(それでも廃刊は多いが)、週刊誌の隔週連載という形式も認知され、氏のような単発作品でも、作品を発表できる場へとなっていった。そのせいもあってか、もしくは氏のように確実に中味のある作品を作れる作家を重宝できるようになったからか、更に更に、青少年時代に氏の作品に触れて育った世代が、出版社でも力のある地位になってきたからか、長らく中断していた『西遊妖猿伝』が、講談社『モーニング』で、10/23から、隔週連載が開始される事となった。大ニュースである。
連載開始から20年以上、連載中断から10年以上経ち、すでに連載再開は諦めていた。
長い、長かったよ諸星先生!! あんま、人の事は言えないけど^^;)

9/16
■この先、発表するであろう「賢者と旅人」(或いは「旅人」)に先立ち、
少々、仏教観について話しておこうと思う。
よく、仏教というと無抵抗のイメージが、あったりする。
私がまだ子供の頃、TVのニュースで、何を言われても、何をされても抵抗せず、
ニコニコとしていて、イエスさんとあだ名されていた人が、
殺されてしまったと、報道されていた。
不思議だった。
それは、その人が殺されたという事よりも、なぜに無抵抗だったのかが、疑問だったのだ。
それに結局、無抵抗は駄目なのだと、思い知った出来事でもあった。

原始仏教にしても、小乗仏教にしても、解釈が幼稚な部分がある。
であるから、実際、仏陀がどういう行いをしたか、或いはどう言ったかが重要だ。
どの経典に載っているかは、忘れてしまったが、
非常に興味深いエピソードが伝えられている。

ある日、仏陀のもとに少年が訪れた。少年は、仏陀に対してこう言う。
「私の父は酒を飲んで毎晩のように暴れ、暴力を振るいます。
でも、私は一切抵抗せず、我慢を貫き通しました」
こう言う少年に対し、仏陀は激しく叱ったという。
「お前は、父親を息子殺しの殺人者にするつもりか」

この続きが経典、または仏教伝に載っているのかどうかは定かではない。
私もたまたまこのエピソードだけを、見かけたに過ぎないから。
それでも、最古の仏伝『スッタニパータ』を通して、この教えの続きを考えると、
「その父親から離れろ」という事になるかもしれない。
だが、子供の立場からは家出をしても、連れ戻されたりするだろうし、
父親に抵抗する手段もあまり無いように思う。
こういった事から、後世の弟子達の、未熟な解釈が始まってしまうのである。

私的には、この少年を出家させるのが、仏陀に出来る最終手段のような気がする。
これが大人同士の人間関係であれば、自分が修行、または努力して、
相手を改心させるようにする、という事になりそうだが、それを説いた後、
結局どうにもならなければ、そこで初めて、
「その人から離れよ」というふうに持っていかないと、真意が伝わらないと考える。
小乗でさえも、そういう不手際が目立つ。

私は、こういうエピソードを知るにつけ、仏陀本人ならば、どのような相手でも、
必ず説得できると思っていた。
だが、『スッタニパータ』を読むと、必ずしもそうではないようである。
素朴にも、最古の仏伝であるが故か、相手を説得できなかったエピソードも、
ちゃんと載っているのであった。
人間としての仏陀を知る事の出来る、貴重な聖典である。

8/24
■しばし新作の執筆を中断。発想は思い浮かぶのだが、書く事に飽きる。
とはいえ、年内には仕上げたいのだが、これもままならぬようでは、未完^^;)でも連載的な形で載せようかと思う。
やはり面白いのは古代史。調べていると時間の経つのが早い。
埼玉古墳周辺や、邪馬台国、はては古事記偽書説まで、飽きがこない。
特にネットの世界では諸説百花繚乱。それぞれの説が対等する反対の説でも、いちいち説得力がある。
そんな中、ネットを彷徨っていると、浅野晃という人物に当たった。国文学者である。
その語録が簡潔でありながら深く、鋭いというか鋭すぎる。
東大出の共産党員だったらしいが、ショウペンハウエルやフロイトに傾倒して、国文学者になったらしい。小林秀雄を君呼びする。
名言集に載せようと思ったのだが、かなりの数があるので、名言集には一部載せて、
その他、感銘した言葉を、こちらに載せようと考えた。
引用元をリンクしたかったのだが、検索したページに「トップへ戻る」などの、リンクが無く、貼っても身動きが取れないので、「浅野晃先生のお話を聞く会」で検索する事を、勧めます。
トップは、c-faculty といって、中央大学の教員用個人ホームページサーバーです。でも、ここからどこへ行ったらいいのか、不明なのです。
浅野晃氏語録
「佐藤春夫先生が本当に偉い人だということを再確認した。(立正大学の小谷幸雄先生が『文学空間』という雑誌に「風流論」を書いた。)「秋風一夕話」(大正十三年)では、当時いちばんえばっていた八人の作家を取り上げて、忌憚(きたん)なく批評した。本当に忌憚ないのでびっくりした。菊地寛――全くつまらない男だ、芥川龍之介――つまらない、志賀直哉――なかなか描写がうまい、谷崎潤一郎――何にも中身がない(注:谷崎は八人の中には入っていない) 何にもあるのは、二、三人で、武者小路実篤さんの評価が一番高かった。一人前として認められているのは武者さんのみ。(注:武者小路実篤も八人の中には入っていない)批評家として、佐藤先生が不遇だった理由(わけ)が初めてわかった。あんなにひどいこと言うのだもの。実に大胆不敵だった!!中里介山、佐藤春夫 ← 正面きって菊地寛に喧嘩をふっかけたのはこの 二人のみ。シナのペン部隊に佐藤春夫先生は三人選んだ。中谷孝雄  … 作家としての地位を確立していた。富沢有為男 … 芥川賞に前年選ばれていた。浅野晃… 無名の青年だった」

「日本における文学批評の基礎をつくったのは、佐藤春夫である。小林秀雄はサントブーヴ(フランスの批評家で常に匕首(あいくち)を持っていたと言われる)を気取っていた。が、小林君は二番手、三番手である。日本の文学批評が決して彼に始まったのではない。
小林秀雄君の『本居宣長』も、ちっとも終わりになっていない。ここから始まる序論と言ってもよい。あっちこっちでいろんな事を言っているが、見る角度が違うと話の内容も違ってくる。『源氏物語』から『古事記』へゆくその過程が難しい。宣長の難所である。宣長は鄭重に慎み深く読みをつけたために、祝詞(のりと)のようにさらっと読めない。小林君はとうとう最後に、宣長が読み下したところに感動して、宣長に食らいつく。なかなかうまく言えないから同じことを言っているように聞こえる」

「宣長が最後に辿り着いた“道の学び” 、こういう大きな問題になると、あれほどの大学者でもさらりと言うことが出来ない。当たり前であるが。宣長は、何故に、かくも、のどかに生きられて勉強できたのか。僕らには俗世のことに気をとられて勉強できない。
霊力というものに対して、宣長は常にある一定の距離を保った。超能力、霊力という考えを、東洋人は持っている。これを、アメリカ人を含めて西洋人は欲しい。しかし、実態は台風を止められる程度の次元の低いものではないか? 終戦間際の頃、箱根に年配の女性の霊媒者がいた。これに佐藤通次が夢中になった。日本の将来を占ってもらった。「ハルマケ ナツマケ アキマケ フユマケ ハルマケ ナツマケ」と出た。その通りだったが、これでは何にもならない。ソヴィエトが早々と超能力の研究を始めた。アメリカも始めた。日本もしぶしぶ防衛庁が始めているが、(超能力、霊力というもので)清らかなものが汚され、人々の心が迷わされる危険がある」

「日本人には密教に人気がある。しかし、密教が出てインドの仏教は目茶目茶になった」

「『伝承を正確に伝えること』が歴史の本質ではあるけれど、文学として高いものになることで真実の歴史が伝わる、ということがある。これが、宣長が『源氏物語』で身につけた体験である。『古事記』は文学としてすぐれている。『源氏物語』は、形はフィクションであるけれど、人の世のありのままの生業(なりわい)、欲望が述べられている。人間の営みを伝えている。空事(そらごと)の中にまことがある。まことを伝えるには、空事の要素がなければ伝わらない」

8/16
■最近「サウンドブラスター」を買い、重宝している。
アナログ音源を、PCに取り込み、MP3にも変換できるからだ。
録音の仕方は、またアナログちっくな方法だが、
一曲だけを動画から録音したりする場合、特に苦にならない。
DVDしか発売しなかった「閃光少女」や、TVでしか放映されなかったLIVE音源など、
MP3に変換して、更にMP3プレイヤーに落とし込み、車で聴いている。
最近、車で聴いている曲:夏だからか?チューブの「サマードリーム」 永ちゃんの「イエスマイラブ」「時間よ止まれ スローバージョン」
ラヴ サイケデリコ「Your Song」「Freedom」
ブリリアントグリーン「Hello Another Way」「Stand by me」

7/22
■実は、7/14の深夜から「旅人」を書き始めた。
題名はまた元に戻って「賢者と旅人」になるかもしれない。まだ、未定である。
深夜、急に書き連ねたくなったのである。年内には発表出来るかも。
思うに、椎名林檎の「閃光少女」が原因のようだ。
例えば、ジュディ&マリーやガーネットクロウなどが、完璧な作品を作っても、
「もう、あなた達にお任せします。是非、私を楽しませて下さい」という気分になるのだが、今回、椎名林檎の「閃光少女」を聴いた後は、ちょっと違ったようだった。
自分でもよく解らないが、なぜか自分も完璧な作品を作りたくなってきたのだ。
別に、恐れ多くもライバル心とかではない。
何故か、林檎ちゃんだったのだ。

7/7
■いきなり、椎名林檎であるが。
今まで特に触れなかったが、昔から気になるアーティストではあった。
昨今の目まぐるしい活動内容から、「策に溺れている」などと、言われたりもしているが、
この人は、そういうイベント(事件性)が表現原則にあるので、
むしろ、だからこその椎名林檎なのだと思う。
事件が無ければ、作ってしまえという所に、智略と行動力を感じる。
ただ、スキャンダラス性の無い作品の方が、私には完成度が高く感じてしまうので、
これからもっと増やしてくれんかなと思ったりもする。
この人、ちょいちょいそういう作品も出すのである。
DVDでしか発売しないという「閃光少女」の歌詞が、特に完璧だったので、
ちょいと、言いたくなったのである。

4/25
■とうとう書いてしまった。
とはいえ、前々から言っていた「旅人」ではないのですが、、、。
今日が命日の尾崎豊の事です。
そして、気が付くと思われますが、普段、文章には「私」を使うのですが、尾崎の事となると「僕」を使うしかなかった。
本当にあまり語りたくはなかった。
映画評論家の小森のおばちゃまが、生前よく言っていた事を思い出します。
「ジェームス・ディーンの事は、書きたくないの。彼を題材にして金銭が発生する事が嫌だから」 誰かさん達に聞かせてやりたい台詞ですね。まっ、聞いたとしてもお構いなしな人達ばかりでしょうが。
それはともかく、小森のおばちゃまとは、まったく同じ思いですが、『詩的思考回路』に書いたように、語りたい理由もあった訳です。
まあ、ここは無料のHPですから、金銭が発生しないという事で、宜しくです。
命日といえば、尾崎が倒れていた民家が、当時ニュースで流れていて、私の周りの大人達は、「いい迷惑だな」と、言っていましたが、その住人の方は一人暮らしで、その後、ひきりなしに訪れるファンに対して、迷惑とは思わず、むしろ、にぎやかになって楽しいと言い、住居の一部を開放したとの事。尾崎はやはり、次元の違う本物だったのだと、改めて感じましたよ。
それにしても、時系列が思い出せなくて、一度頓挫していたのですが、この命日前後、ぽっかり仕事が空きまして、仕上げる事が出来ました。
運命を感じます・・・、なんて、偶然でしょうが。とにかく、命日に間に合ってよかったです。
書くにあたり、先ほど申したように時系列が思い出せなく、参考にしようとネットを徘徊していたら、「尾崎辞典」なるサイトを発見。
ふと、掲示板を見てみると、なかなか熱い^^;) 掲示板特有の荒らし人はともかく、ファンの気持ちや、その尋常ならざる映像への執着は(佐藤輝氏の項)、共感するものがあります。
やっぱり、気持ちは同じなんだなぁ、と変に安心したものでした。しかも、東京ドームのLIVEに対しても、素直に観れているようで、私なんかよりも純粋なファンが大勢いる事を知りました。影ながら応援します。
ところで、文中に書いた広島平和コンサートでの「核」の映像が、ネットにありました。しかもノーカット!!私もVを持っているのですが、前半ちょこっと切れてます。その日、TVで演るのは知っていて、待機していたのですが、なかなか流れないもんだから、チャンネルを変えて裏番組をチェックしていたら、始まってしまっていて、大慌てで録画したのでした。
ノーカットが観れるとは、いい時代というか、凄い時代になったものだと、今更ながら思います。リンクしときますが、初めて尾崎を観る人にはショックな映像かもしれませんので、お気を付けを。。。私的には、本物の真実を見れるといえた映像なんですが。
http://www.dailymotion.com/playlist/x6qui_ozakifan_/video/x3r9k5_core19878_music

因みに、最近は連絡を取らなくなったのですが(私が失礼な事を言った為です。レディには言動に気をつけなくてはなりませぬ、反省しきり)、私の勧めで尾崎ファンとなった素敵な犠牲者がもう一人いまして、今年はNHKで特集も無いようだし、私が送ったVは、やはり前半が切れているので、今回のリンクは、よいプレゼントになったかもしれませぬ。是非観てみてねん。
でも、覚悟がいるVなんだよね^^;) くれぐれも、体力のある時にどうぞ。。。

4/2
■エネルギー充電中。。。

「横浜スタジアムミーティング ハッピーマン・メドレー」を観ながら・・・。

3/24
■あまり、長い間更新しないと、何かしら言いたくなってきますね。
自作品作りに於いてもそんな感じですので、ちょくちょく更新しない方が、書く気も起きてくるといった所でしょうか。
少々迷っていたのですが、ここで言わなければ、いつ言うんだという事になってしまいそうで・・・。まぁ、簡潔に言っておきましょう。
チベット問題です。
今回騒がれている問題は、以前から知ってはいました。中国は世界大戦後も侵略と虐殺をしています。最も悪いのは中国政府ですが、それを踏まえてから聞いてほしいのは、ダライ・ラマも、私は嫌いです。自分は安全な亡命先のインドで、何を言っても説得力がない。
これもまたあまり好きではないのですが、ガンジーの方がまだマシです。
私はもちろん戦争や暴力は嫌いです。でも、無抵抗は嫌いです。抵抗はするべきです。理不尽なものに関しては、なおさら抵抗すべきという事が持論です。
チベット国民は、ダライ・ラマに関係なく、民族の意思により、立ち上がるべきです。
以上。

2/1
■そういえば、私が自費出版(共同出版)した出版社が、事実上倒産したらしいです。これからは、違う会社と共同経営してゆくそうです。どうせなら、もっとはっきりとしてほしかったのですが・・・。
著作権が出版社と折半になっているからです。
でありまするから、今までは、少々、詩集に収められている作品のHP公開を、遠慮していたのでした。
ただ、別段売れた訳でもない我が詩集の著作権など、自費出版社にとっても、たいした事はなさそうですし、この先、全部掲載したとしても、問題にはならないような気がします。あくまでも感覚ですが^^;)
ですので、これからは、もうちょっと詩集の作品を書き込もうと思いまする。
あの詩集の作品群は、二、三読んでも伝わりづらいと思ってましたので。全作品通して読んで戴ければ、良さが解ってくると思われます。そういう作りになってしまっていると考えてました。

さて、例の出版社ですが、ネットでもちらほら騒がれてました。実際、いまだ定期的に機関誌みたいなお知らせが、一度でも出版した事のある作者には送られてくるようで、その内容にも、経緯が書かれてありました。
なんでも、自費出版した作者が訴えたとかで、ようするに「本屋に並ぶと宣伝されていたのに、並ばなかった」というのが問題の核のようです。
実際、ネットのほうでも色々読んでみましたが、まあ、どっちもどっちという感じですかね。
学生などでしたらともかく、いい歳した人が、自費出版されたものが本屋に並ぶと、本気で信じていた事が甘いと思いますし、そう謳った出版社も出版社です。
私なんか、はなっから信じていませんでした。だって、金さえ出せば書店に並ぶなんて、見た事も聞いた事もなかったし、商業出版社の意味がなくなるでしょうに。
では何故に私は自費出版したかと申しますと、当時は、インターネットも今ほど普及していなかったので、てっとり早く発表するには自費出版しかなかったからです。そうする事によって、少しでも、見知らぬ人から、作品の感想を聞きたかったのと、いわば若き日の記念ぐらいにも思っていました。だから、有名になりたいとも、売れたいとも思っておらず、作者不詳で出そうかとも考えていたぐらいで(これはさすがに狙いすぎていると思ったのでやめた)、ペンネームだと、後々恥ずかしくなると思い、本名にしただけであります。
それと決定的なのは、歴代の詩人達は皆、自費出版だったというのもあります。ランボォしかり、中原中也、谷川俊太郎(処女作)でさえもそうだったのです。
出版社を選んだのは、詩集が多く出されていたからでしたが、どの出版社でもよかったのです。丁度その社の、出版賞の公募があり、審査を通るたび、自費出版するにあたり、割引特典があったので、応募しましたが、賞を取れるとは思ってませんでした。案の定、二次審査くらいには残りましたが、最終審査まで行かなかったし。でも、まあまあ安く出版する事ができたので、賞嫌いの私としては、応募するなど不本意でしたが、思惑通りになったと思いました。
ただ、今となっては、こうしたネットの世界を通して、発表の場があるので、もう出版しようとは思っていません。よっぽど向こうから(商業出版社から)、是非本にしたいと申し出てくるなら、本にしてやってもいいくらいの気構えです(笑)
どちらかというと、やはり出版社の方が、分が悪いですかね。商売とはいえ、宣伝に問題あり。
いい所もあります。出来上がった本を、著名人に贈呈したり、全国の学校図書館にも寄贈したりしてくれます(ここらへんが、共同出版といわれる由縁。それとごく少数の提携している本屋さんには並ぶといったような、少しは流通を手助けしますよ、といった形)。
出版して数年経った頃、ネットで知り合った人から、大阪市立図書館に、私の詩集が置いてあったと聞き、大変嬉しく思ったのを覚えています。
実際、これが目当てだったというのもありました。文学少年少女が、学校の図書館などで、私の詩集を手に取ってくれるなんて、随分と素敵な事だなと。
自分の作品を、書店に並べたいのならば、賞などに送って、受賞するまで頑張りなさい。私はそんな気、毛頭ありませんが(ネットでの発表の方が、断然いい。印刷所と違って、誤字脱字を修正しやすいし、見知らぬ人から感想もきます)。
ようは、本を出す「目的」の問題です。

1/28
■目の事ですが、マッサージが一番良いようです。
痛くない程度、強めに目を揉むと、暫くして治ってきました。
朝、顔を洗う時と、夜、シャワーを浴びている時に、二分程度マッサージします。
特に、朝のマッサージを怠ると、すぐに悪くなってしまうようです。
目は血管が多いとの事で、冷やすよりも暖める方がいいとの事。適温のお湯でマッサージするのが宜しいようです。
そういえば、十五.六歳の時から近眼になり、暫くすると乱視にもなりそうになり、とにかく近眼を直そうと、寝る前に目のマッサージをしていた時がありました。結局、近眼は治りませんでしたが、乱視は防げたようです。

新聞などで知りましたが、浜崎あゆみは、片耳が聞こえなくなってしまったようで・・・、そういう話を知るにつけ、人ごとながら、好きな事に邁進していると、何故に、必ずといっていい程、それに関わる邪魔が入ってくるのかと、少々憤慨してしまいます。彼女のつらさの方が計り知れないでしょう。
私は、私自身、商業ベースで作品を発表できる、言わば職業作家になりたいとは一度も考えませんでした。何故ならば、まず、破滅型の作家になる事が、目に見えていたからです。
神経も磨り減らし、のめり込んでしまうでしょうね。寿命も縮んでいた事でしょう。

1/7
■遅ればせながら、明けましておめでとう御座います。
元旦から風邪を引いてしまい、何もする気が起きませんでした。
目の調子は、まあまあ良くなり、今年こそは色々と書かなければならないと考えています。
何もやる事がないと、やはり、書く事が特技?であるならば、それをやるしかないという気になります。結局、自分の一番得意なもので、存在意義を表していくのが最善という訳です。
とはいえ、まだエネルギーが湧かない感じなのです。胸の奥がカラカラというか、ガス欠状態といった感じなのです。
悲しみが足りないのかな。。。


2007年

12/19
■木曜日の夜九時に放送している、『秘密のケンミンSHOW』は面白い。
様々な地方の特徴を紹介するTVで、県ごとに、こんなにも文化が違うものかと、非常に驚かされる。特に大阪の人のお笑い気質には、唸らせられるものがある。
大阪の人に、わざと刀を斬りつけるジェスチャーをすると、ほぼ全員、斬られたリアクションをする。銃で撃つ真似をしても、撃たれたリアクションをするというのだ。
検証VTRも流れていたが、本当である。カメラマン曰く、そのVTRもすぐに撮れたとの事。
携帯で電話中でも、やってくれる^^;)
ここまでくると、尊敬に値する。人生の送り方を心得ているようで、思い出す度に、気持ちが楽になる。ビバ!大阪人!!

最近、ガーネットクロウの一つ前のシングルばかり聴いている。
「涙のイエスタデー」である。
「大事な哀しみも、見失いそう」と歌ってくれた。
悲しみではなく、哀しみなのだが、「悲しみ」を大切だと歌ってくれた。

12/11
■まだ、目の調子が戻りませぬ。
これはやはり、自作品を書けという天の声? なのかな。
『意訳』にしても『夜話』にしても、資料を見つつ、更に打ち込まなくてはならないゆえ、今の目の状態だと、おっくうなのです。
自作品だと、何も読まず、見ず、ただ、頭で発想したものを書いていけばいいだけなので。
でも、今もキーボードが見づらいぞ。これじゃあ、自作も、おっくうだよ^^;)
確かに、残された時間というものを、考えさせられるなぁ。

12/1
■それにしても、もっと楽しく作品が作れないものかと思う。
いや、作れるのだが、仕上げの段階で、やはり人様に見せる訳だから、きちんと突き詰めて、矛盾のないようにとか、あれこれ神経を使ってしまうのである。
前回パズルのように作品が出来る過程を言及したのだが、「旅人」については、特にそういう訳でもなく、すでに全体像はあり、なんというか作ったら終ってしまうという感があったりするので、最後までとっておきたいといった心情である。発想は三十歳前後にあったものだから、結局何年振りかの新作とはいえ、僕にとっては新作ではない。
もうちょっと深みのあるものにしたいので、自分自身、まだ、知識を掘り下げていきたいという願望もあったりする。
でも、これを作って発表しなければ、前には進めない感もあり、かといえ、後にも下がれないものでもある。困ったものだ。

11/24
■SFといえば、自分もSFを書きたいとは思うが、小説っぽいものならともかく、詩となると、難しいというか、前例がないので、なんともどういうふうに作ったらいいのか分りませぬ。
例えば、星だけを表現してもSFにはならないだろうから、登場するものはやはりスターシップ等は必要だろうし、なにか未来的なものも登場させないとSFにはならんだろうから、そういったものを題材にしたとして、やはり、リアリティがない分難しい。
と、考えると、詩とは物語があるとしても、リアリティが必要不可欠なものだと気付きます。
実は、それっぽいアイデアのものも一つ持っているのですが、なんというか、ハリウッド映画をからかっているようなもので、問題作というか、いいかげんというか、そんなコンセプトのものがあったりします。
ま、いずれ発表しますが、それは「賢者と旅人」の後となりますでしょう。
この「賢者と旅人」ですが、たぶん、「旅人」というものに題名を変えます。
今の所アイデア部分を書き留めてはいるのですが、まだ、本格的に書こうという踏ん切りがつきません。
創作に於いて、全部現われて一気に書けるものもあれば、全体が部分部分しか現れず、パズルでいうとピースが所々欠けているような感じで、それが除々に見えてきて、やっと完成するという作り方もあります。作品の完成度に影響はないと思いますが、なぜそうなるのかは解りません。いずれにしても、「旅人」は完成させます。好みはあるでしょうが、期待を裏切らない作品となる事は約束できます。

11/18
■もう秋を通り越して冬ですね。星の季節です。
ストレスを解消するのに、宇宙の星の存在は効果的です。
特にSFに触れるのは、一番の特効薬ですね。
SF映画やSF小説、あとハッブルが捉えた星雲などの画像が、星に想いを巡らせてくれます。
という訳でもないですが、暫く星雲や星の画像を貼り付けていこうかと思います。

11/17
■眼の調子がまた悪くなりました。やはり、悪くなったり良くなったりです。
でも、病院に行こうと思った時ほど、悪化はせずに済んでます。視線を急に動かした時にだけ、像が少し歪む程度なので、日常に支障をきたすほどではありません。
でも、怖くはありますね。こういうのと、付き合っていかなくてはならないようです。

前々回の話で、ミハイル・バリシニコフの話が出ましたが、それについて補足をば。
彼がステージで、今日は最高の踊りが出来たと思い、自宅に帰り、フレッド・アステアの映画を観ると、その完璧さに結局落ち込むんだそうです。自分はまだまだだと。
そこまでアステアのステップが素晴らしいのかは、素人の私には解りませんが、アステアの映画は大好きです。
『トップハット』『コンチネンタル』『有頂天時代』などなど、アステアの映画は全部揃えたいくらい好きです。

ガーネットクロウの新曲が出ました。大体、アルバム収録を目算して、シングルを買う事は少ないのですが、アルバムとダブってでも買いたくなるアーティストは、今のところガーネだけですね。
ちなみに、初めて買ったシングルレコードは、久保田早紀の「異邦人」でした。
その頃から、歌詞がいい曲に敏感だったようです。

11/7
■眼の調子がだいぶ良くなってきました。
でも、病院に行ったせいではありません。ここ毎日、ひたすらビタミンに気をつけた飲み物を選んだおかげだと思います。それだけで治ってゆくとはなんて単純な体なのでしょう。
ブルーベリーはよく効きます。でも乾燥させたものはあまり効かないような気がします。冷凍されたブルーベリーを毎日二個以上(カナダのブルーベリーって、でかいね)食し続け、飲み物は野菜果実ジュースを積極的にした所、効果があったと思われます。
完璧に治った訳ではなく、ちょっと調子が悪いとすぐに再発する感じですね。それでも、ここ一か月ほどのひどさにはならなくなったので一安心しました。物がちゃんと見えるという有り難味を思い知ります。
病院では^^;) 生まれて初めて検査用とはいえ、コンタクトをはめられ、その後、眼底出血する有様。鏡で見ると怖かった。
先生さまは「黄斑変性症みたいだけれど、若いから万年角膜ナンタラという事にしておきましょう。じゃ、そういう事で」
「どういう事ですか?」
「暫く様子見ね」
・・・はっ? 二度と来るか!
受け答えが一方的で、分らないとはっきり言いたくないみたい。
絶対に黄斑変性症だと思います。症状がぴったりですもん。でもこれって治りづらい病気なんですよね。自分で調べた所ビタミン摂取により治った事例があるとの事。その通りにしたらほんとに治りました。ただ、私は薬嫌いなので、サプリとかも飲みません。漢方とかは自然の成分なので、風邪とかには葛根湯ぐらいは飲みますが、薬は体に良くないと思ってますので、ギリギリまで何も飲まないのです。
という事で、ますます病院嫌いに拍車が掛かりました。骨折とか外科にかかる時は諦めますが、なんていうか、いい病院って少なそうですね。
治ったとはいえ、まだ暫くは無理が出来そうにありません。

話は変わって、映画の話など。
TVでやっていたのですが、トムクルーズ主演の『コラテラル』。
えらく面白く、トムクルーズの映画ってハズレがないなぁと感じていた所、海月氏のサイトの日記ではクソミソでした^^;)
彼とは同じ佐野元春ファンである為、音楽の好みは合うようですし、私の詩も気に入ってくれているようなのですが、映画の好みは合わないようです。
でも、その時の精神状態も関係してくると思われますが、音楽にしても映画にしても、多種多様なので、なかなか好みが合う事は少ないのかもしれせん。
なーんも知らないで、彼に『コラテラル』って、面白かったねぇと、なんかの時、あけっぴろげに話しかけなくってよかったです。
『未来世紀ブラジル』は、共通の好みなのですが。
改めて、人に物事を勧める時は、気配りや警戒? が必要だなぁと感じます。
と、舌の根も乾かぬうちになんですが、最近の気になるアーティストは「風味堂」。
ジャズ? のようでいて、声がなかなかいい響きのバンドです。
ではでは。。。

10/29
■女性の天才について話したが、考えてみると逆に、男の天才は、また女性的な面も持ち合わせているという事になる。だからこその、高踏派が掲げた両性具有という事が言える。
女性にしても、男性的な面を持ち合わせている人が、天才的作品を作り得るといえるのではなかろうか。だが残念なことに発明が無い。その分野での継承したものを出発点として、男より表現しきる事は出来るのだが、新たな発展性や革新性を提示した女性はいないのである。これは生物の特性によるものではないかと思う。
ダンスという点に於いては女性の方が芸術面で優れていると考える。
日本の芸能界になるが、踊り方やポーズだけで、分析不可能に人を惹きつけた存在として私が挙げる人物は、ピンクレディーのミー、森高千里、元ジュディマリのYUKI、振付師の夏まゆみ、玉置成実である。見ていてハッとさせられたのはこの方々だけであった。
どんなに、技術面が優れ、ブロードウェイのダンサーみたいなプロのダンスを見せられても、理由なき魅力が無いと惹きつけられない。ギタリストでも、凄いテクニックを披露されても、その音や曲に芸術性が無いと、何かしら「はいはい、上手いのは分りました。それで? だから何?」で、終ってしまう。
バレエと比べるのははばかるかもしれないが、「一度跳び上がったらなかなか降りてこない」と謳われた天才ニジンスキーは、映像が無く、実際見る事は出来ないとはいえ、伝え聞く所によると、跳躍力や幻想的な作品の演技にのみ、その評価が下されているような感がある。ヌレイエフは見た事があるのだが、芸術の方向性が違うのか、全体的にはもちろん高みにある芸術性を感じ得るが、女性よりもハッとさせられる程のものはなかった。
ミハイル・バリシニコフにしてもそうだった。彼が尊敬してやまないフレッド・アステアは、確かにハッとさせられるのだが、アステアだけは別格ともいえるし、何よりジンジャー・ロジャースとは対に見えた。まぁ、プロが見たら全く意見は異なるだろうが、技術論を持ち出されても、必ず芸術と繋がるとはいえない。むしろ、技術ばかり目立つ場合、芸術性は落ちてくるともいえる。
私は人間が踊る時に魅せる芸術性も好きなので、ローザンヌバレエコンクールなど、NHKで見たりするのだが、やはり女性の方が表現力の面に於いて分があるように感じる。

「天才とは、スピードと量である」と分析した学者がいる。
例えばカフカは生前、短編小説を発表していたが、あまり評判にはならなかった。彼の死後に発表された長編群を以って、一躍有名になったのである。確か、長編作品を、数週間で一気に書き上げたものもあり、常人には出来ないスピードである。
ランボォの詩「H」一つをとってみても、同じレベルの詩を、技術論や内容の解析をして、書き上げようとしても、果たして一生かかるのではなかろうか。
つまり、どんなにその作品を解析して、技術うんぬんが解き明かせたにしても、たった数行の傑作詩を、常人が書き上げるのに、一生かかるか否かになってしまうのである。
ここで初めて、作品とは「生まれてくる」ものだという事が証明できるのである。

10/22
■最近の気になるアーティストとして、YUIをあげる。
あの、「迫りくる切なさ」のような歌声には、びっくり。
歌詞も曲もまだ稚拙なのに、あの声だけでも、関係者がメジャーデビューさせた理由が解るというもの。曲や歌詞はこれから成長すればいいからである。
あとは、mihimaru GTかな。前に、『ヘイヘイヘイ!』を観ていたら、これからランクアップするぞ的な、アーティスト紹介コーナーがあって、複数のミュージシャンがビデオクリップなどで、アピールをしていたのだが、mihimaru GTのクリップだけ群を抜いていた。表現したい事がしっかり表現されていたといった所かな。現在のように売れるとは思わなかったが、ヴォーカルのhirokoのキャラは、いい意味でアクがないというか、陰が無い分、これからも受け入られやすい存在なのではないか。
まぁ、自分にとっては、どちらもガーネットクロウより、重要なアーティストにはならないが。

昔は男性ミュージシャンを聴く事が多かったのだが、最近は女性アーティストばかりになる。「女性に天才は現れない」とした、心理学者:宮城音弥氏の分析にも、再考が必要になるかもしれない。ただ、突き詰めた分析をしてみると、歴代の男の天才は、一つの作品に対して、全てを一人でやり遂げる傾向があり、その作品群は歴史的に女性よりも優位に立っている。女性は複数の共同作業により、一つの歴史的作品を完成させる傾向があるように思う。その才能も、部分的である。それに、発明がない。例えば美空ひばりは、歌声と絶対音感を持っていたが、作詞作曲はできなかった。ジュディマリのYUKIは、ジュディマリとしては、作曲をしなかった。体で表現できる「芸」の方が、女性は男性よりも秀でているのではなかろうか。もちろん、男性の方でも、部分的な完成しかできない人もいるし、どの分野でも例外はある(中島みゆきとか、岡田史子など)。
だが、ジョルジュ・サンドにしても、ジャンヌ・ダルクにしても、女性でありながら、その傾向は非常に男性的になってしまう。
交響曲などは特にそうであるが、女性が作曲した交響曲は、圧倒的に少ない。
こういう事を言うと、女性蔑視と思われるかもしれないが、芸術を創作するという事に関して、そうなのではないかという事であり、それ以外の分野では、男性が女性に敵わない事は、沢山あるのである(くどいようですが、数が少ないというだけで、必ず例外はあります)。例えば、学問に於いて、トップの成績を安定して取れるのは女性が多い。男は一位になったとしても、急落したり、成績は安定しないそうである。
言い訳ではではないが、私は至って男女平等主義であるし、尊敬する女性も多いのであります。本当です。

10/13
■今日、病院の眼科に行ってきました。自分で病院に行くのは、初めての事なので戸惑うことばかり。大病院を紹介されたので、また人の多い事うんざりです。検査の為に変な注射と点滴も打たれました。二度と来たくないと思いました。小学生の時の骨折以来、病院など行った事がなく、風邪の時でも、薬は飲まずに回復してきたからです。結局、西洋医学の薬は、胃薬などが特にそうですが、根本からの改善はなく、一時しのぎだから、むやみに飲みません。基本的に健康体なのですが、目と歯だけは致し方ありませんね。
そして、診察の結果は・・・、やはり分らないようです。自分でもこれはやっかいな症状だなと思っていたので、諦めモード。説明されたのは、隔膜にやや傷があり、これは治るとの事だったのですが、黄斑変性症だと治療がやっかいだとの事。
実はネットで、事前に調べていたのですが、片目から進行して、像が歪むというのは、黄斑変性症ではないかと思ってました。でも、加齢によるものという言葉が加わるものでして、ネットでも五十以上に多いとされています。まだ早いんだけど^^;)
病院の先生も、黄斑変性症みたいだけれど、これは加齢によるものだから、うーん、まだ若いしねぇ、と首を捻ってました。って、先生、見かけに左右されてませんか?
私は巷でも、ミュウではないかと噂される男(『地球へ・・・』のミュウです。これはミュータントから由来された呼称であります。ミュウは歳を取っても、超能力により、見かけは若いままを保つ事が多いからです)。男女問わず、私が年齢を言うと、皆、「えっ?」となります。そういえば、二十七歳あたりに肌が荒れてきたなぁと思った、言わばお肌の曲がり角があったのですが、それまでは高校生に間違われる始末でしたし、また、その時からはあまり変化がないので、未だ二十代後半か三十あたまぐらいに見られてます。現場でも、年配からですが、あんちゃん! と、呼ばれることが多いのであります。
でも、中身は歳を取ったなぁと感じる事が多いので、まぁ、加齢によるものでもいいのですが。
原因はたぶん野菜嫌いなので、ビタミン不足なのでしょう。最近不摂生だったので、一気にツケがきたようです。これからは、なるべく飲み物にしても、野菜や果実100%を心がけるつもりです。
また、二週間後に、もっと本格的な検査があるそうです。あ〜、いやだいやだ。皆さんも、ビタミン不足には気を付けませう。

10/8
■PCを新しく買いました。OSはビスタが嫌なので、XPにし、そのかわり各スペックをかなり高くしたので、ご機嫌です。ビスタ対応のマイナーチェンジ前のモデルですから、高性能の割には安く手に入りました。と言っても、デュアルコアの、ハードディスクもRAMも、ハイスペックにしたので、そこそこしますが。
ビスタはまだまだ様子見ですね。あんなにメモリ食う、無駄な処理するOSは、不必要と考えました。それに各ソフトが、どこまでビスタに対応するのか分らないですし、数年はXPで十分と思います。
画面がワイドになりましたので、我がHPも、それに対応しようかと思いましたが、まぁ、これもしばらくはスタンダードでもいいかなと。慣れない画面ですが、目が以前より左右に動かさなくてはならないようで、少しは目の運動になるかなと。
目といえば、わたくしの左目がピンチで御座います。実は以前から兆候はあったのですが、今回急にひどく焦点が歪むようになってしまったのです。病院は嫌いなので、あまり行きたくなかったのですが、さすがに、支障をきたすので、眼科に行きまして、今週末は病院に行く事になってしまいました。キーボードも、非常に見ずらく、更新もままなりません。目の不自由な方の気持ちが、以前よりも増して、解るようになりました。
暫く、長文の更新は出来ないかもしれません。誤字にも気が付かない状況が出てきそうです。

9/25
■そんなこんなもあり、『意訳』を読み直していて、思い出した事があります。
「都市郡T」なのですが、元々これを意訳しようと思い立った理由は、昔読んだ記憶として、今までのランボォとしては、絵画的表現が強かったのに、非常に緻密な建築物を構築し、立体的な表現をしていたと感じていたからでした。いつか、自分もと思っていたので、宇佐美氏の訳を意訳する事により、身に付けようと策略したのでしたが、意訳しながら読んでいると、昔読んだ感覚とずれが生じていたと申しますか、自分の感覚が変化したものなのか、それほどの収穫が無かったのです。ですので、解説でうっぷんを晴らしたような形になってしまいました。
ですが、もう一度小林秀雄訳を通しで読んだ所、昔読んだ印象のままでありました。つまり、この詩の緻密な印象は、小林秀雄の力が強かったのであります。そのカラクリは、今読んでみて分析できたのですが、それはそれとして、自分の意訳はそのままに、小林の手法を取り入れ、書き直す事はしないでおこうと考えました。
実は、小林訳のランボォの詩は、発表当初から、「意訳しすぎ」という批判が多かったものなのです。元祖意訳の張本人は小林秀雄だったといって過言ではありません。岩波文庫で読めるランボォは、まさに小林のランボォだったのです。だからこそ、他の訳とは圧倒的に、その輝きが違っていた訳です。
ランボォとしても、友人との書簡で、はっきり断定はしていませんが、『イリュミナシオン』の事を、「しまりのない代物」と揶揄していたとされています。それでも、ヴェルレーヌでさえこだわり続けた凄い詩表現であり、私の詩作の根本がここに有りますので、なんとも複雑な気持ちだったのですが、そのしまりのない代物を、しまりあるものにしたのは、小林の功績ともいえるでしょうか。そして、その小林訳が私の詩作の根本であったとするならば、納得してもいいわけです。
そのランボォが「僕の運命はこの本にかかっている」とした、『地獄の季節』より、後に出版された『イリュミナシオン』は、1874年にヌーヴォーと共同で清書済みだったにも関わらず、長く『地獄の季節』よりも前に完成済みとか、後に書いたとの論議が盛んで、普通に読めばその表現形態から、あきらかに『地獄の季節』よりも後に確立した詩文もある事が読み取れますので、実際は文学に興味の無くなりつつあった時期に於いて、作者が過小評価していたという事にしておきたいですね。とはいえ、ランボォとしても、『イリュミナシオン』の清書には、意欲的であったように感じますし。

そんな『地獄の季節』と『イリュミナシオン』は、対になっているので、今日の一言には『地獄の季節』の意訳はしないと言いましたが、短縮したものを、意訳しようかなと、最近は思ったりもしています。かなり先になるでしょうが。

9/20
■久々の更新だからなのか、先日の『意訳』を更新した日のアクセスログは、なかなかの数でした。嬉しく思います。
トップのカウンターとは連動してないので、たぶん、この更新履歴や意訳のページに、直接リンクされている方が多いのでしょう。それはそれで構いません。この更新履歴は、第二のトップページと化していますので・・・。ちなみに、お金をかけていなく、無料のHPなので、アクセスログの数だけ分かり、アカウントまでは知る事が出来ませんので、これからもお気軽に覗いてやって下さい。
やはり、ランボォは人気があるのかな? そういえば、19歳で芥川賞を取った女の子も、今はランボォを読んでいると言ってましたね。芥川の「羅生門」は、ほんの一部ですが、シュールレアリスムな所があります。
ただ、芥川もランボォに傾倒していましたが、芥川の詩ともいえる「或る阿呆の一生」は、やはり詩としては下手です。小説家は素直に詩で参考にした表現を、小説に生かした方がいいですね。
私の意訳は、ランボォに興味はあるが、既存の邦訳では、その良さが解り辛いという人に、もってこいの意訳だと自負しております。でもまぁ、人によりけりでしょうけれど。
言葉の意味としては、過去の訳者の方々のものは、確かに言い回しがよく解らないものが多いし、汲み取りにくいのですが、読み手の方々も、私の意訳で気に入った言い回しだけ、心に留めていただき、あとは、正統なる訳者さんの邦訳をメインに置かれた方が、いいのかもしれません。書いている本人も、今や一割ぐらいの遊び心となってしまいましたが、ある意味言葉遊びとしていますので、読み手の方も、私の意訳比喩表現を、遊び心で受け取ってもらうという読み方で全く構いませんし、もちろん、ランボォが現代日本語で書いたなら、絶対こうなる! ^^;)といった、大袈裟なものでもいいので、それこそ自由に受け取って下さい。

9/19
■久々の更新。『意訳』に「メトロポリタン」を、追加しました。
このくらいの詩が、意訳していて、ちょうどいいと感じます。
元々この詩は、言葉に勢いがある詩です。でも、ランボォ特有の密度がありますので、読み慣れないと勢いが感じられないかもしれません。ので、意訳していて、かなり凝縮させた部分もあります。

昨日のTVで、坂本龍馬暗殺ものがやっておりました。中岡証言に基づくとしていますが、中身はずさんなものでした。それに、ちっとも答えを言っていませんでしたね。『夜話』がまだ途中なので、人の事は言えませんが^^;)
相変わらず、薩摩藩説を主張したげな構成。確かに、大政奉還後の薩摩は、龍馬に対してかなりの不信と反感を持っていた事は事実です。が、相手は薩長同盟の立役者であり、恩人です。大体、当日、近江屋に龍馬がいる事を知っていた薩摩藩士がどれだけいた事か疑問です。中岡は薩摩とかなり親密でしたが、当然、龍馬の立場を察していた筈で、薩摩に居所を知らせていたとは思えません。それに、近江屋の前には、酢屋に潜伏していた龍馬ですが、そこに幕士がかなりうろついていた為、危ないから土佐藩邸に移るようにと、忠告していたのが西郷でした。それを聞かず、藩邸が嫌だからと近江屋に移ったのは龍馬自身でしたので、言わずもがなであります。
ぼちぼち、また書かなければなりませんな。こういうので火がついたりしますね。

8/29
■まだまだ暑いですね。
ところで、『夜話』でも紹介していた、中原中也の伝記的漫画『含羞』の作者、曽根冨美子氏の最新作が、雑誌『モーニング』に掲載されていました。
一時期は、『含羞』の他に、かなり精神的にキツそうな作品を描いていたご様子だったので、心配していましたが、復活? されて良かったです。
中身は炭鉱のお話ですが、氏らしく人間の感情が細やかに描かれており、健在のようですね。
私も以前から、書かなければと申し上げていた自作品があるのですが、まだ気持ちが乗らず、困った事なのか、良い事なのか分かりませぬが、実は大作となってしまう感じで、よほど暇でなければ、取り掛かったら最後、日常生活に支障をきたすようにのめり込んでしまいそうなので、自粛しているというのもあります。
なんか、どんどん内容が膨れ上がってしまっているのです。
まぁ、ここ、一、二年のうちには書き始めようとは思ってます。その時は、珍しく発表日を予告しようと思いますので、気長にお待ち戴けると幸いです。『意訳』にしても、いきなり書き込んでいましたので、せめてもの罪滅ぼしであります。
ここを訪れて頂ける人は少ないとは思いますが、こんな私のオリジナルでも、書けと言ってくれるネットの友人がいるので、励みになります。

7/31
■さて、ランボォの「H」についてだが、詩を書く人間としての自分の直感で、オルタンスとは、中性的な人物であると、詩を読んだその時から感じていた。
その後、研究者の解説だったか、「オルタンスは、オルタンシアの男性名詞的なもので、実際には女性名詞としてのオルタンシアという名が一般的なのに、何故ランボーは、わさわざ有りもしない男性名詞的なオルタンスとしたのか?」という文を読んだ。それについての反論も含めた私の「H」の解説だったのだが、調べてみるとオルタンスという女性は歴史上実際に存在していたし、フランス語辞書を調べると、オルタンシア(紫陽花)の方が、男性名詞になっている。???である。
私としては、わざわざ男性名詞的にしたのは、当然ランボォがホモセクシャルだったのと、中性的なイメージとして女性名詞を、男性名詞的にしたのは、両性具有を含め、ランボォとしては当然ともいえると言いたかったのだが、どうやら以前読んだ研究者の疑問自体が、間違っていたようだ。
で、今回改めて書き直した解説だが、オルタンスを調べているうちに、そのモデルともいうべき人物を発見出来た。あくまでも、仮説だが、誰もオルタンス・マンチーニについて言及していなく、私個人の新説となるようだ。
名詞についてだが、実際の所、どこを探しても明確な答えを得られず、混乱したままである。それこそ、フランス語の権威、篠沢教授に3000点といいつつ、訊いてみたいものである^^;)
ただ、ヨーロッパ圏の言語には、ラテン語のように、男性名詞と女性名詞、それに中性名詞(自然的なもの。無機物に対して)がある事は事実である。ラテン語はもちろんの事、ドイツ語にも精通していたランボォが、中性的な名詞を発想出来るのは当然なのである。
「H」の書き直し解説だが、自説の結論は変更となっておらず、その理由が大幅に変更となり、恥ずかしいものがある。私のミステイクである故、申し訳ないが、懲りずに読んで戴けると、これ幸いである。すいません。

7/22
■先日、ランボォ意訳の「H」について、解説を加えましたが、内容に混乱と確証を得られない部分があり、削除しました。確認が取れ次第、後日、修正して書き表すと思います。すみません。

7/19
■今日、録画していた『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』を観ていたら、なんと、ガーネットクロウが出ているではありませぬか!
あ〜びっくり! そして、普段見慣れているダウンタウンと一緒である事もあり、「ガーネットクロウは、本当にいるんだ」と、今まで、ガーネが現実的でない存在であった事を知る。
でも、これからは今までと違って露出が増えるのではないかと、実は思っていたのだ。私の予想は、競馬以外なら結構当たるのだ。
何故なら、最新ライヴDVD『THE TWILIGHT VALLEY』を観ると、中村由利氏に変化があったから。
以前の、中村由利氏はイノセントな感じで、あまり業界慣れしていなく、とても、TVなどでの即興MCには、対応出来ないような素朴さがあり、それがまた魅力でもあったのだが、今回のライヴは、何事も積極的にテキパキとこなしている。なんかもう、ゆりっぺなどとは呼べないような、まあ、大人の女性になってしまった感があり、私などは寂しくなってしまった^^;)
でも、中村由利氏本人も、フィールドはスタジオレコーディングであると考えていたのだが(この辺の奥ゆかしさも良かった)、LIVEに来るファンの期待に応えたいという想いが、ガーネットクロウとしての中村由利氏に成長を促したのは、致し方ないともいえるかな。
だから、今のハイパー中村由利嬢であれば、積極的にTVにも出演するのではないかと感じていた所だったのだ。以前の、ゆりっぺであれば、とても、ダウンタウンとトークを交わす事など、想像できなかったけれど。
寂寥感はあるが、ファンとしても、TVでガーネが観れるのは、喜ばしい事だ。

7/14
■さて、ガーネットクロウのAZUKI七氏についても語らねばなるまい。
AZUKI七氏の歌詞は、まず仏教観とキリスト教観の両方を併せ持っている。故に、僕なんかが共感してしまう理由はそこにあったりもする。
逸話として、作詞にお経の文言を入れようとし、メンバーから却下されたなど、興味深く面白い。
曲作りの過程としては、中村由利氏がまず曲を作り、それをAZUKI七氏に渡し、氏は就寝前にその曲を聴いて詞を作るという。
実は、僕の作詩過程もそうなのだ^^;) 詩作を始めたばかりの頃の僕は、目を閉じるとすぐに言葉が浮かび、うんざりするほど溢れ返り、眠る事が出来なかったくらいだった。
まっ、自分の事はどうでもいい。
AZUKI七氏の言葉は、「生まれ重なる」「通り過ぎたあとの静寂に降る太陽」「遠い国まで連鎖して」等など、クオリティは非常に高く、その言葉の結合力は、シュールレアリスムよりもずっと自然で、むしろ完成度は、シュールレアリスムの詩よりも高いのではないかと思う。
LIVEDVDでのインタビューで、AZUKI七氏は「自分が聴きたい音楽が、今のJ−POPに無いから、自分で作るしかなかった」と言っている。
誰かさんみたい^^;) 大体自分も、読みたい詩が無かったから、詩を書いたのだが、こうなるとAZUKI七氏に任せればいいとなりそうだ。
ただ、過去のアーティストもそうだったのだが、不思議と、曲の為に作った詞は凄いが、活字だけの為に発表する詩はあまりいいものが無かったりする。ここらへんに、僕の出番がまだあるかな(笑)

7/5
■久々ですが、『意訳』にランボォの詩を追加しました。
やっかいな詩を意訳してしまいました。解説の為のページも追加致しましたので、詳しくはそれを読んで下さい。
あ〜疲れた(>.<) 

6/20
■佐野元春氏の最新アルバム『コヨーテ』が、リリースされた。
まだ、一回しか聴いてないのでなんとも言えないが、最初はよく解らなくても、またいずれは聴き入ってしまうものなのかもしれない。
以前、発表されたアルバム『ザ・バーン』がそうだった。
ふと、車に乗っている時にかけたら、えらくハマってしまった。
なんというか、曲のだらだら感がいいのだ。普通はだらだらしていると良くない筈なのだが、心地良い。
なにかしら、ドライブが楽しくなるようなアルバムだった。
佐野さん、まだまだ健在ですな。
ところで、「黄金の天使」って、どういう意味だろう?

6/10
■最近はガーネ中毒である。
一週間もガーネットクロウを聴かないと、イライラしてくる^^;)
以前、好きな曲として「君を飾る花を咲かそう」を紹介したが、バラード曲としては、「君 連れ去る時の訪れを」がまた良く、「さよならとたった一言で・・・」と共に、三部作になっているような感じだ。
ところで、中村由利氏の歌い方は真似しづらく、非常に特殊な歌い方である。だから、ガーネの曲自体も、同じように歌おうとしたら、なかなか難しい。これはすでに、他者に無い才能である。当初は単に、英語のように唄っているだけかと思った。
が、それだけではなく、その歌い方について、最近気がついたのだが、どうも声楽に則っているのではないかと思われる。言葉で説明すると難しいのだが、声楽の方法として、例えば「が」と発声する所を、「
がぁ」と一音で発声する、「を」を「うぉ」と発声し、母音を強調した中間音とでも言おうか、それ以外でも、かなりの数の接続詞を、中間音で歌っているのだ。
以前、相川七瀬が極端に日本語を英語っぽく歌った曲があったのだが、非常に違和感が有り、佐野元春氏のような歌い方は、女性がすると、違和感が出てしまうのかとさえ感じた。それを、覆したのが彼女だった。
例えば、一時期、本格的な英語のアクセントで、日本語が英語にしか聴こえない様な歌い方を、複数のアーティストがしていて、画期的と思ったが、当初の驚きは長く続かず、その手法は定着しなかった。
言わば、そういった歌い方とはまた違っていたのが、中村由利氏の歌い方であったのだ。およそ、他者が真似したとしても、上手くいかないであろう。
聴く人々の、声の好みというものがあったとしても、それを越えた所に、成立していると言っても過言ではない。

6/2
■ある日の事、あるTVを観ていたら・・・、『We Are The World』の映像が流れておりました。
あっ、懐かしいなぁ、この時は世界中で盛り上がったっけ、まだ幼かった私は、曲とマイケルとライオネル・リッチーぐらいしか、印象にありませんでした。
が、よくよく観ると、な、な、なんと、革ジャンバリバリの若きスプリングスティーンが映っているではありませぬか!!
しかも、ボブ・ディランもいる!!
そうだったのか!? 当時はまったく気がつかなかった。とはいえ、まだ二人の存在を知らなかったギリギリの時期だったのでした。
慌てふためき(何を今更^^;)、DVDを検索!
おぉ! あ〜るではないか、『USA for AFRICA』のDVDがっ!
早速購入。ドキドキしながら観てみると・・・、カッコイイ〜。。。
スプリングスティーンの第一声にまずびっくり。凄い、凄すぎる。ディランと肩を組んでいるシーンもある。
各ソロのパートも、そうそうたるメンバー、レイ・チャールズ、ポール・サイモン、ビリー・ジョエル、etc・・・、中でもこの人いい声しているしカッコいいなと思って調べると、スティーヴ・ペリーとあり、元ジャーニーのボーカルの人でした。CMでも気にかかっていたので、ベストアルバムも購入。
それはさておき、これだけのメンバーが集まり、一つとなって、曲を歌うという事は、ほんと奇跡としか言いようが無く、二度とこのような事は起こり様が無いし、今現在のヒットチャート上位の連中を集めても、これ程の感動は与えられないように思う。
これを、観れた時代に生まれて良かったと感じるし、これを観せてくれる為に、この時代に生まれたのかもしれないとさえ思う。
何故かしら、これ以降の文化の衰退や、種の寿命を感じてしまいさえする。文明ピーク後の失速世界に入ってしまっているという事だ。

5/27
■最近また仕事の内容がきつく、帰宅したらすぐ寝てしまう毎日でした。
それにしても、今日のダービーは歴史的な快挙!
牝馬のウォッカが、クリフジ以来64年ぶりのダービー制覇!
クリフジは、その歴史を見ると大好きになってしまう牝馬ですが、タイプこそ違え、生きているうちに、そのクリフジ以来となるダービー牝馬の誕生を観れるとは、鳥肌が立ちました。
ダービーは、大抵単勝三番人気以内の馬が勝ちます。私はというと、二番人気のヴィクトリーの単勝を買い、フサイチホウオーが、輪乗りで暴れているのを見て、しめしめとほくそえんでいました^^;)
ところが、肝心のヴィクトリーが、出遅れたのはいいのですが、後方で我慢せず、向こう正面で一気に先団に躍り出るという始末。ここで、私の今年のダービーは終ってました。
見れば、フサイチホウオーも、引っかかっています。こりゃ、三番人気のウォッカに持っていかれるぞ、と思いつつ、まさかのまさかでした。
でも、いい競馬だったなぁ、久しぶりに興奮するゴールでした。四位騎手も騎乗技術が優れているわりには、恵まれなかったので、勝った後の涙も解るというものです。
ウォッカは海外に挑戦するとの事。こういう馬は活躍できます。また楽しみが増えました。


5/6
■TVシリーズ『地球へ・・・』の話ばかりだが、段々と演出も良くなってきている。
僕は、同じく竹宮恵子先生のSF漫画『私を月に連れてって!』も好きなのだが、その漫画のヒロイン、ニナ・フレキシブルが、TVシリーズ『地球へ・・・』に登場している所が気に入った。
しかも、サブキャラのおヤエさんまで登場している^^;)
どちらかというと、おヤエさんのほうが、目立つ所がまたいい。
最近気がついたのだが、『私を月に連れてって!』の続編が、『ブライトの憂鬱』だった。主人公はかつての脇役なのだが、ちゃんとかつての主役ダン・マイルド氏も登場している。
なんだか、メチャクチャなようだが、楽しい。
やはり、竹宮先生はSFがいい。


4/15
■TVシリーズ『地球へ・・・』第二話を観た。
第一話よりかは、動きが良くなっている、が、やはりプロダクションI.Gに製作してもらいたかったな。同時期に始まった『精霊の守り人』を観るにつけ、そう思ってしまう。
でも、ジョミーが、ソルジャー・ブルーに、自分をアタラクシアに帰せと詰め寄り、ソルジャーが苦しそうに、そして悲しそうにジョミーを帰すシーンには、目頭が熱くなってしまった。
やはり、駄目だ(T_T)
封印していた魂を呼び起こしてしまう。ほんと困った。

4/8
■TVシリーズ『地球へ・・・』を観た。
画としてメインキャストは綺麗だが、それ以外はそうでもない。
それにもっと動きに於ける演出を凝ってほしかったな。なんか、淡々と進んでいっている感じ。映画版のほうが演出は凝っていた感じ。とはいえ、可は無いが、目立った不可もないので、これはこれで良しとしよう。
今回のTVシリーズのおかげで、新装版『地球へ・・・』がでるし、映画版のDVDも出るし、まっ、そっちに走るけんど^^;)
新装版はカラーページが発表当時のままにという事で・・・、でもやっぱり読めないな。うーんどうしよう。そうだ、新作の詩を作ろうと思い立ったら、その時に読むとしよう。映画版は観る事は出来るな。やっぱりある程度離れているから。

さて、お知らせをば、、、。

リンクしている海月さんが新作を発表しました。
彼のやさしさが滲み出てくるようなアルバムです。
音にも厚みを増して、なんかライ・クーダーみたいに感じたのは・・・、私だけでしょう。これ、誉めているんです。
ドライに、クールに唄っている曲もあり、いい感じです。
http://kurageya9.hp.infoseek.co.jp/top.html

3/26

■竹宮恵子先生の原作『地球へ・・・』が、TVシリーズとして復活するというニュースを知った。4/7から放映だ。
ショックであり複雑な気持ちである。
僕にとって竹宮恵子先生と『地球へ・・・』は特別な存在だ。
漫画が発表された当時、十代だった僕は、二十代になる自分が想像できず、ありえないと思っていた程若く苦しく、そして「生」というものに絶望感を持っていた。
社会との繋がり、何も実感のない将来。今の自分の存在意義。
そんな時に出会ったのが『地球へ・・・』だった。
その世界の精神性の深さ、自分達の存在を認めてくれない世界で、ただ故郷である水の星地球へ帰りたいと願い、前人類との共存の道を、傷つきながらも模索する主人公、ソルジャー・ブルーとジョミー・マーキス・シン。凄まじくも感情移入してしまう作品だった。
はっきりと言ってしまうが、『地球へ・・・』の竹宮恵子先生と尾崎豊がいなかったら、僕の精神は崩壊していたと思う。
後に、竹宮恵子先生へのインタビューで、再び『地球へ・・・』のようなSF大作が求められたらしいが、竹宮恵子先生は「あのような作品を作った場合、精神的な消耗感が激しく、二度とやりたくない」と答えている。
僕は当時、精神的に参ってしまうと必ず『地球へ・・・』を読み返していた。
二十代になってからは、三十代になる自分が、やはり想像できなかったが、ある意味、自分を乗り越える事が出来たので、もう十代のような追い込まれ方は無くなった。それでも、『地球へ・・・』は、あまりにも大切な存在だったので、飽きる事を恐れ、僕の中でも封印していたものだったのだ。
それが復活するとは・・・。
『地球へ・・・』は、設定とストーリーを変え、アニメーション映画にもなったが、不評だったようだ。僕的には悪くない映画だったと思う。画が綺麗だったし、ダ・カーポの主題歌も最高だった。それに、演出面でソルジャー・ブルーがよく描かれており、ジョミーが助けられるシーンは何回も観たものだ。
竹宮恵子先生は、どちらかというと『風と木の詩』で、ホモセクシャルを描き、評判となり、受け入れがたい人々からは批判や茶化されたりもしたが、『風と木の詩』は賞を取り、その作品性は確かなものだった。
ちなみに僕は、ランボォなどにも傾倒しているから、疑われる方もいるかもしれないが、至ってノーマルです^^;)

今回のTVアニメ化は、不安ではあるが、絵も綺麗だし、あの原作ならば、余程解釈を間違えない限り、いい作品にはなると思うので、期待したい。が、少々、打ちひしがれてはいる。

3/21
■衛星でやっていたのもあって、久しぶりに、映画『オズの魔法使い』を観た。
そこで、元々知ってはいたのだが、えらく勘違いをしているなぁと。
記憶だと、エンディングに近いシーンで、ドロシーが窓から空を見上げつつ、「オーバー・ザ・レインボー」を唄うと思っていた。
が、実際はそんなシーンは一つも無かった。
これは、創作にまつわる事として多いと考えるが、時間が経つと、原作を自分のイメージ通りに変化させて、記憶してしまう場合がある。
不思議とそれは原作通りではなくなり、自分の作品にそのまま取り込めたりできる程、かけ離れているものなのである。言わば意訳なのだ。
逆に、自分のオリジナルだと思い、作品を作った時、エッセンスのみだが、後々に原作があったものを、そのまま抽出している事に気づく場合もある。無意識なのだが、その無意識からの場合、意訳はされず、オリジナルのまま、作品に反映されてしまうようである。
だから、自作品から削ったりした場合もあったし、これはあの作品そのままだからやめようと思ったら、まるっきりかけ離れていたので、採用したという事もあった。
つまり、「意訳」は創作の一つのキーである事は間違いないと考えるのだ。

映画『オズの魔法使い』のドロシー役、ジュディ・ガーランドについて。
よく、解説などに、ジュディ・ガーランドの晩年は不遇であった、と書かれていたりする。確かに周りからすると、MGM全盛期から比べられたりして、批判も多かったのだが、娘の伝記には、母本人は決してそんな事はなかったと言う。どんな困難があっても常に前向きに行動し、子供達を励ましていたジュディ・ガーランドは、最期まで溌剌としていて、むしろ幸せな晩年であったと。
何かしら、ほっとする話であった。

3/13
■ガーネットクロウのニューシングルが届いた。
いい感じである。
ただ、ファーストアルバムのような世界観を、もう一度表現してほしいというのはある。
セカンドが出た時に、それが薄らいだから、あれ? と思ったのだが、サードアルバムで少々戻ってはいた。
だからこそ、失速し始めたのかと思い、その時に評価を下げてしまった。ファーストがいいアルバムだったとはいえ、せめて二枚くらいは、同じような世界観のアルバムを継続出来ないと、その才能を評価出来ないからである。
でもそれは、杞憂だった。
暫くは、ファーストのような感じで行くのかと思っていたのだが、すぐに新しい世界観を、模索し始めたようだったのだ。
それに、彼女等は、TV番組のタイアップソングを、作品に合わせて作り上げるという、素直な部分も持ち合わせていたからだと思う。番組スタッフからの要望に応えて、曲を作り直す事もあったのではないか。そうでなければ、こうも、タイアップソングの依頼が続かないと考える。
セカンドは、ブルース調の曲を、最初の方に持ってきた為とも思うが、自分自身の評価は低かった。私は寝る前に曲を聴きながら寝るので、ポップスな曲に入った時は、すでに眠りに入ってしまっていたという繰り返し、後半の曲の評価が定まらなかったみたいだ^^;)
「恋する事しか出来ないみたいに」は、私的には久しぶりに、初期ガーネといった感じで、嬉しかったのだが、もう一度、アルバム全体で、世界観を統一し、エコーバリバリで構わないから、青空に、必ず飛行機雲があるような、ファーストガーネの世界にどっぷりと浸らせてもらいたいものだ。

2/12
■久しぶりに姪御さんの話をば。
最近はやっと言葉も覚えてきて、おちゃめになってきております。
ある日の事、妹と一緒に、遊びに来た姪御さま。帰りは家まで車で送る事に。
妹の家までのルートは覚えているが、車中いきなり、
「にぃにぃ! 地図!!」(こう呼ばせておりやす)
と、後ろに置いてあった、首都圏マップを差し出され、は〜い♪とわたくし。
妹曰く「詩の賞とかに応募しないの? お金が入ってくるのに」
私曰く「金はいらんし、それに本名が知れ渡ったらやっかいだ。仕事に支障もきたすしね」(賞を取れるつもりで話すわたくし。実際はかすりもしないであろう、今の詩壇では)
妹曰く「そういえばそうだね、名前が知れ渡ると面倒かも」(だいたい妹も、こんな感じです)
「かわいいね!」と姪御さま。(最近覚えたお気に入りの言葉)
は〜い♪とわたくし。


2/6
■僕は現代詩を、ほとんど読んだ事がない。つまんないからだ。だから、『現代詩手帖』も、『ユリイカ』も、知ってはいるが買った事はない。
たぶん、なかには面白いものもあるだろうが、それに出会う為には、かなりの労力が必要だろう。それぐらい、面白い詩というものが無いのだ。
確かに、「詩」として完成度の高いものはあるだろう。だが、面白くない。
それは、「言葉」に魅力がないからだと感じる。
例えば、同じ活字体で同じような言葉、或いは文を綴ってみても、書く人が違えば、魅力がまったく違ってくる。それが言霊というものなのかもしれないが、そういう言葉を書く現代詩人が少なすぎる。(現代詩をあまり読んでないのに、なぜ言えるかというと、現代詩全集として出版されているものを、昔は読んだ事があるし、だいたい現代詩人の詩集が、文庫にならないのだから、たかが知れている。いいものというのは自然と目に入ってくるものでもあるし)
むしろ、現代小説(これもあまり読まないが現代詩よりは読んでいる)やエッセイのほうが、まだ面白いのではないか、魅力があるのではないかと思う。
それに、某サイトで出会った、詩を書く人達の作品のほうが、詩壇で発表されている詩よりも、魅力があるのはどういう訳か?
あきらかに、詩人と呼ばれる資格のある人が、かなりいた。
それがまたネット以外で世に出ないのである。
世も詩壇も、つまらないものだ。

1/16
■ガーネットクロウの最近よく聴く曲として、「永遠を駆け抜ける一瞬の僕ら」や、「恋する事しか出来ないみたいに」「今宵エデンの片隅で」「君を飾る花を咲かそう」などがある。
中でも、「君を飾る花を咲かそう」は、ラヴソングではあるが、想いのたけを綴っただけではなく、一つの曲全体として、しっかりとした物語となっている。
常々、恋愛詩は女性の方が上手いとは思っていたが、この曲は男心をも、しっかりと表現されている。僕自身の物語と重なり合ってしまったという事もあるが・・・。
僕自身、恋愛詩を書く事は苦手だが、この曲を聴いて「想いを胸に秘めたままではなく、その時の相手を思いやる素直な気持ちを、そのまま言葉にするだけでいい」という事に、もう一度気づかせてくれた素晴らしい曲だった。

1/11
■またまたアーティストの紹介になってしまうが、KEANEという、ドラムの代わりにピアノを駆使するというバンドに興味があり、アマゾンドットコムを彷徨っていたら、なぜか『バック・トゥ・ベッドラム』というアルバムも引っかかった。
自分の詩集にも収められている詩の題名「ベドラム」というスラングと、表記が違うだけで意味は同じだろうとすぐに気がついたが、今どきまだそんなスラングを使う奴がいるのかと思い、少々興味を持ち、調べてみる事にした。
アーティスト名はジェイムス・ブラント。元NATO軍の兵士という異色の経歴の持ち主。ヒットシングル「ユア・ビューティフル」と書かれてあり、あゝ、CMでやたらと流れていたあれかぁ、となる。
実際に買ってみて聴いたが、まず声がいい。この声は何度聴いても飽きが来ない。これだけでも、将来が約束されたようなものである。
リリックのほうはシンプルで特筆すべきものはないが、アルバム全体の曲は、どれも聴かせてくれるものばかりで、シングル一曲だけしかいいものが無いというアルバムとは違う。
アルバム全体にアップテンポの曲はないので、この先スプリングスティーンのような曲を歌い出したら、なかなか面白い奴となるかもしれない。
あっ、KEANEの『HOPES AND FEARS』も、なかなかいいアルバムだった


1/5
■『今日の一言 〜A word〜』でも書いた「ガーネットクロウ」の全シングルを買った。何故ならカップリング曲が、ほとんどアルバムに収録されていない事に、今頃気が付いたからだ。そして、同じ曲でもアレンジが違い、中にはアルバム収録よりもいい場合があったりもするので、ムキになって全部買ってしまった。
実はファーストアルバムの前に、インディーズとして出したミニアルバムがあるのだが、それに収録されている「SKY」という曲は、ちょっとした発見だった。
私が音楽に関して素人であるのを踏まえ、あえて語らせてもらうと、この曲はサビの部分が二つあり、最初のサビが、前触れもなくいきなり現れ、第二のサビへと向かうという、初めて聴いた時には驚いたぐらい、不思議であり、そして新鮮な曲だった。この曲は4枚目のアルバムに、アレンジを変えて収録されているが、インディーズバージョンの方が、より効果的に聴こえる。
個人的に好きな曲としては、「君の家に着くまでずっと走ってゆく」や、「Mysterious Eyes」、「スパイラル」であるが、ご興味を持たれたら、ファーストアルバム『first soundscope〜水のない晴れた海へ〜』から聴き始める事をお薦めする。
ちなみに、インディーズ版のファーストミニアルバムとでもいうものは『first kaleidscope〜君の家に着くまでずっと走ってゆく〜』となる。

「ガーネットクロウ」のサイト


http://garnetcrow.com/

1/3
■汐凪ぶちさんからメールを戴き、汐凪ぶちさんのサイトに、リンクしてもらう事となりました。
「言語による音楽表現」をテーマに、詩作品を綴っていらっしゃいます。
そのテーマには、感銘を受けます。
現代詩を読むのが苦手な私ですが、汐凪ぶちさんの詩には、すんなり入っていけます。
是非訪れてみて下さい。

http://www.catv296.ne.jp/~preludes/index.htm



2006年

12/2
■『意訳』にランボォの「王権」を追加しました。
この詩を初めて読んだ時、特にどうという感も無かったのですが、時間が経つにつれ、やたらと思い出してしまう詩となってきました。
小林秀雄訳の「二人は午前も王様だった。・・・二人は午後も王様だった」というこのありふれた言葉。午前、午後、王様、という本当にありふれた言葉を組み合わせただけの、この言葉に、何故いつまでもまとわりついてくるような不変の魔力というか、力が備わってしまっているのか、不思議でなりません。いわばこういう言葉を表現する為に、今も私は詩を書いているといっても過言ではないようです。
『意訳』は、小林秀雄訳の凄さに、なるべく触れたくなかったのですが、その効力を残しつつ、多少はアレンジした形となりました。
久しぶりに書いたのですが、いかがでしょうか? 訳す時の僕自身の勝手な意訳インスピレーションは、変りましたかね。それとも変っていませんでしょうか。

10/30
■夜話「中岡慎太郎・・・」の続きを、短いですが書き加えました。薩摩藩説の方々には痛い所をついています。たまたま中岡が居合わせたにしても、中岡を知らぬ薩摩人は居ないのであります。特に中村半次郎は。知らずに鉢合わせしたら、きっと慌てて引き返した事でしょう。
でも、あくまで持論であり、推理でありますから、決定的な証拠というものは、すでに無いものでありまするから、ご悲観なきよう。

10/22
■時の流れを跳ね除ける『事実』は、永久に記憶の中に留まり、決して消える事はないでしょう。
この世の涯で二人、永遠に寄り添うように・・・。

10/20
■やはりというべきか、ディープインパクトの年内引退が決まってしまった。
種牡馬の可能性についても、今まで多くの引退馬の、その後を見てきたので、あえて言うまい。すべからく、水ものであるから。
あれだけの馬である、たとえ上手くいかなくても、功労馬として、保障された老後を送れる事は確証されている。ファンも黙ってはいまい。
あとは、無事に現役生活を、終えてほしいものだ。

10/9
■ディープ君は負けてしまったが、いい競馬だった。完走した事も誉められるものだ。環境の違いで、出走前から故障をしたりする馬が多いというのに、ファンの期待も受けて、よく頑張った。また来年にもチャレンジするという。
だが、斤量の問題から、近年の凱旋門賞は、やはり三歳馬が有利なのは否めない。
三歳で挑戦した凱旋門賞二着のエルコンドルパサーを、例にとっても、三歳のうちから挑戦しないと、難しいように思う。しかも、斤量が重ければ重いほど、ディープ君のように小柄な馬は、影響されやすいのだ。
ヨーロッパやアメリカの権威あるG1は、甘いものではない。なにもかも、自身を有利に進めて行かないと獲得できるものではないのである。

9/27
■さて、書き物をしなければならないとは思うが、ディープインパクトがフランスの凱旋門賞に10/1(日本時間2日午前0時30分)出走する。
ディープ君に関しては、常に私の読みが外れて活躍してくれる。昔、競馬の神様、大川慶次郎氏が、一度もシンザンを本命にしなかったかのようである(大袈裟&恐れ多い)。馬体重の事でもそうだが、440kgでも彼の場合は問題なかった。有馬記念は菊花賞の疲れと、古馬との初対決での負けとみていいだろう。継続される強さに変りはなく、馬体の立て直しも、彼は乗り越えた。
だが、凱旋門賞に勝てるかどうかとなると、懲りずに厳しいと言わざるを得ない。でもまあ、こう書けばまた反対に勝ってくれるという私的ジンクスもあり、彼の勝利を願いつつという事で、以下、理由を述べたいと思う。
海外に行くという事で、馬主さんの資金が大変なのは分かるが、ローテーション的に、宝塚記念は不要だった。天皇賞後から渡仏して、現地のトライアルレースを叩き、本番を迎えてほしかった。
近代競馬に於ける、先行抜け出しが出来ない脚質にも疑問。ダンシングブレーヴの例はあるものの、凱旋門賞を最後方から差し切るというのは、かなり至難の業。でも、これは、直線に入るまでに、徐々に進出すれば、解決をすると思うが、ロスは否めない。
あと、これは、岡部元騎手も言っていたが、日本の馬場とフランスの馬場との大きな差が最大の理由である。最終的に、何回も現地の馬場を走れば、段々とそれに対応した走りをするようになると、岡部氏は言っていたが、時間は掛かるという。だからこそ、もっと早めにロンシャン入りして欲しかった。フランスはイギリスほど、パワーのいる芝ではないが、やはりタフでないと走破できない。坂の起伏が激しく、芝の質もさることながら、かなりのスタミナも要求される。騎手同士の駆け引きも日本よりシビアだ。
例えば、ダートだけに強いタフな馬が、海外の芝レースにいいという訳でもなく、芝もダートもあらゆる馬場に適応出来る能力と、起伏の激しいコースを走破できるスタミナがあるかどうかが、鍵となるのである。
適性という意味では、日本の軽い芝でG1を勝つ馬よりも、日本の軽い芝に適性がなく、いつも二、三着に負けているような、ズブいスタミナ型の馬こそ、海外いずれかの馬場に適性があり、勝てるのではないかと考える。G2だが、香港でいきなり勝ったフジヤマケンザンが、例として挙げられる。そういう意味で、僕は以前から、日本国内の芝だけしか勝ってないG1馬が、海外G1を挑戦する事に、無駄ではないかとすら思っていた。タイキシャトルやエルコンドルパサーなど、海外G1で活躍した馬は、いずれも、当初はダートを走り、そして芝をも勝ってきた、タフで環境適応力の優れた馬達である。また、そういう馬でないと勝てない。
しかしながら、日本のG1で、いつも二、三着に負けているような馬が、海外G1を勝っても、嬉しさが無いのも事実である。日本での最強馬が、海外G1を勝ってこそ、意義があるとも言える。
かつて、皇帝と呼ばれたシンボリルドルフは、米G1でレース中に脚を痛めていたとはいえ、負けてしまった。ルドルフの強さとは、人間並みに頭の良かった奇跡の馬であったという事だ。日本ダービーで、岡部騎手が、4コーナーを回り、追い出しに掛かると、それを受け付けず、慌てた騎手を尻目に、府中の長い直線は半ばに来たらスパートを掛ければいいとでもいうように、坂を上ってから猛スパート、見事、日本ダービーを制し、岡部騎手をして「ルドルフに競馬を教わった」と言わしめた馬である。そしていつも、ゴール近くになると、もう勝負はついたとでもいうように、後続に差されない程度に失速、悠々とゴール板を過ぎていた。鞭も見せ鞭と言い、馬体を叩く事なく、合図に空中で二回ほど振り回すだけで、スパートし、それもほとんど馬なり(馬の意志任せ)での勝利だった。その走法も、「ルドルフ走法」と言われ、全身で円を描くように走る、独特なストライド走法で、勝負服を見なくとも、ルドルフを判別出来た程だった。だからこそ、これ以上の馬は現れないと誰もが感じ、ルドルフで海外を勝てなければ、もう永遠に勝てないと思った。
海外でG1を勝つ事の厳しさの逸話として、こういう話がある。ルドルフの母方の父スピードシンボリが、野平祐二を背に、イギリスのG1キングジョージに挑戦した。結果は五着だった。野平氏曰く、4コーナーであまりにもスピードシンボリの手応えがいいので、こんなに楽に勝っていいものかと、少々拍子抜けしそうだったのだが、直線に入り、海外の強豪にアッサリと交わされた時、外国馬の底力というものを改めて思い知ったという。
そこで、ディープ君の登場である。
僕はここに来て、少々考えを改めた。頭の良し悪しというか、ルドルフのように、人間並みに意志を持った馬でなくとも、サラブレッドの走法というものを、超越した馬もまた、歴代最強馬、または世界的に見ても、奇跡の馬だと考えたのである。
なぜ、アメリカやヨーロッパでなく、近年に於いて日本にだけ、こういうサラブレッドの最高傑作が出現するのか、不思議ですらあるが、逆に、であればもう海外G1を勝たなくとも、満足のような気さえする。はっきり言って、海外の馬はしゃにむに強いだけで、そこにサラブレッドというか、動物を越えた走る芸術品とでも言うべき馬は、かなり歴史を遡らない限り見当たらないだろうし、実際、ルドルフやディープと同じタイプの馬は存在しなかったのではないかと感じる程だ。
ディープインパクトも、他馬と比べ、走り方で見分けがつくし、何よりも上下に動かず、空中を飛んでいるような、「走る」という事に於いて、まさに究極と言える走法をする、サラブレッドを越えたサラブレッドである。歴代の名馬の本でも、そんな逸話は読んだ事がない。
ディープでなくとも凱旋門賞を勝つという事は、日本競馬の長年の夢であり、それこそ手の届かないものであったが、こういう馬が凱旋門賞を勝たずして、どの馬が勝っていいものか。後はディープの環境適応能力次第と、異次元とも言える走りが、底力のある海外馬に通用するかどうかだが、もし、凱旋門賞をディープインパクトが勝ったら、夢の終りのような感もあるが、いつまでも叶わぬ夢を追うよりも、夢を達成した誇りを体現したいものである。

9/4
■やっと、仕事が一段落。
そして、夏も終ろうとしているが、夏休み中である。
また元の現場仕事に戻るのだが、デスクワークをされている方々の大変さもよく分かった。とはいえ、どんな仕事でもそうだが、どこにいっても、出来る人は出来るし、出来ない人は出来ない。あまり変わらないかな。
ただ、文学をやるならば、現場仕事をしながらの方が、僕にとってはやりやすい。精神的余裕は作れるから。
追々、また色々書いていきます。

パソコンの中身を整理していたら、小川洋子氏の名言なるものが、出てきました。誰からか教えてもらってそのままにしていたみたい。なんか、僕自身を言い当てられている感じです。

「記憶 とは、その人がつむぐ物語。
前向きがもてはやされるけれど、
記憶の底に沈んだ過去をみつめることが、内面を高める」

7/29
■少しずつ、仕事も落ち着いてきたが、まだまだ中途半端なポジションに居る。自分の立場と時間を取り戻せるのは、九月に入ってからとなりそうだ。

6/14
■予定していた仕事が長引いてしまった。
富永太郎のように、
「まいったよ、上海に渡る計画がフイになってね」
などと、かっこいい事の一つでも言えればいいが、
実に無様な状態である。
とりあえず、八月までは何も更新する気がないので、
申し訳ないが、よろしく。。。

5/13
■長い雨だった。
この一年、生活の為とはいえ、随分と不本意な仕事に就いていた。それもようやく終ろうとしている。
やはり、自分は書くしかない人間なのだと感じるが、それもまた今だけかもしれない。
だが、今年中に「賢者と旅人」を、書き上げなければならないと感じる。人は、歳を取れば、やはり作品にキレが無くなる。作家の晩年の作品を見るにつけ、そう思う。
僕は、自分から天才だとは言わないが、青春性の強い男である。ゆえに、十代の時から、詩をやめた後のランボォに、ひたすら興味があった。はたして、歳を取ってからは、いったいどういうふうに生きていけばいいのか?
「誰の事も知らない  誰も僕を知らない この街にたどりついた」
自分の詩「港街」の冒頭の言葉は、『ライ麦畑でつかまえて』に、近い言葉が書かれてある事を、『攻殻機動隊』で知る。
僕は『ライ麦畑でつかまえて』を、読んだ事はないから、青春性の強い人間であれば、誰でも感じる事であるという証明なのかもしれない。今思えば、佐野さんの所のサイトに生息していた自分の存在というものは、「笑い男」みたいなものだったのかもしれない。実際、よく笑っていたし。
天才は、たいてい夭折してしまうので、歳を取った生き方を、学べない。僕は、サリンジャーのようなタイプなのかもしれないが、意識してそうなろうとは思わない。それが、聡明というものだ。という事は、やはりそのうち何も書かなくなるという事か・・・。
ランボォが詩をやめた理由は・・・、別に才能が枯渇したとか、歳を取ったからとかではない。詩作に興味がなくなっただけである。

とはいえ、今の自分は、六月以降からペースアップする筈だ。
いよいよ、新たな物語の始まりである。

3/5
■皆様、お久しゅう御座います。もうすぐ、春です。
あともうちょっとで、仕事が一段落します。それまでは、ブランクも長いと思われますが、宜しくお願い致します。って、何を宜しくだか、分かりませぬが、それにしても、必ず、毎日、誰かしらが来て頂いているようで、大変申し訳なく思っております。
夏ぐらいには、かなり書き込みも、ペースアップする筈ですが、なにぶん、気まぐれなもので、はい。
m(_"_)m

あっ、そうだ、ランボォの「陶酔の午前」、多少書き直しました。