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詩的思考回路
           詩の読み方について


 私が始めて詩というものを読んだのは、十三歳の頃だった。中原中也の詩だった。その時から、詩というものを意識し始めた。そして、十八歳の時にフランスの詩人アルチュール・ランボーを読み、衝撃を受けた。それは、その後読み始めた寺山修司が言っていたように、まさに交通事故のような突然の出会いだった。
 それからは、詩の読み方がよく解り始めた。ほとんどの詩が、詩人の言いたい事や、詩人の感情を汲み取る読み方しか出来ないのに対して、ランボーの『イリュミナシオン』は違った。言葉を読んで映像が出てくるのである。それはまるで音楽が流れてくるように、映像が映画のように流れてくるのだ。なるほど、詩人の言いたい事ばかり並べたてても、中原ぐらいの詩人ならともかく、普通の詩なら読むのをやめてしまうだろう。共感する人もいるかもしれないが、それでは自分の日記を見せているようなものである。文学ではない。
 もちろん、ランボーは、言葉による映像表現という事だけではなく、究極の詩表現にまで達した詩人であるし、アンデルセンの『絵のない絵本』のような物では、比べものにならない。岩波文庫の小林秀雄訳『地獄の季節』を読んでいただければ、よく解ると思う。ランボーは、十六歳から二十歳までの、たった四年間で文豪一生分の成果を残したといわれ、まさに文学史上の奇跡と称えられた詩人である。そういう本物の詩が、読者に詩の読み方を努力せずに教えてくれる。
 私は今でも詩を読む時は、自分なりにその詩から、映画の一場面のように映像が浮かんでくればいいと思うし、音楽が耳からではなく、詩によって頭の中に流れてくれば、なお、いいとしている。
 まあ、私の詩も含めて、なかなかその様な詩には出会えないものだが。



           詩の書き方について


 私が詩を書こうと思ったひとつのきっかけとして、寺山修司の存在があった。
 競馬が好きな私は、競馬雑誌を読んでいて、よく寺山の名を見かけたのだった。「詩人寺山修司が、競馬文学を確立した」とか、「競馬をドラマティックに詩で表現してくれた」とか、皆一様に絶賛していた。
 そして、寺山の本との出会いも、実に寺山的であった。銀座の場外馬券場近くにあった古本屋で、『書を捨てよ、町へ出よう』を見つけたのだった。なにげなく買って読んでみると、もう、めくるめく言葉の魔術の洪水だった。よくも言葉だけで、物事の裏側を、次から次へと視点を変えて表現できるものだと思った。
 寺山の比喩の使い方は、秀逸である。比喩とはこういう風に使うものだ、という事を教えてくれる。いや、比喩というものの表現の仕方を、知らないうちに身に付けさせてしまう魔力が寺山の言葉にはある。
 寺山は著書のなかで、こんなふうに言っていた。
「サーカスの猛獣使いを見ていて、それなら自分は言葉使いになってやろうと思った」
 私自身、言葉使いとまではいかないが、寺山を読む前と後では、あきらかに言葉の使い方が上達したと思う。ただ、自分でも、ある程度納得のいく作品を書けるまでは、随分時間が掛かったが・・・・・・。
 詩を書く時、自分の表現したい事を言葉にしようとしても、なかなかうまくいかないものだ。そういう時は、寺山ワールドに触れてみる事をお薦めする。



           ポエトリーリーディングについて


 私の詩は朗読に向かない。なぜなら、朗読を意識して作っていないからだ。黙読で読んでいただくのが望ましい。だから、詩のホームページ中にも音楽は挿入していない。なかには、声に出して読んで、効果があるものも出てくるかもしれないが、それは偶然そうなっただけだ。ただ、その事によって私の詩を理解していただければ、それに越した事はないのだが・・・・・・。前に声を出して読み上げてみたら、まるで効果がなく、むしろ出来の悪い表現になる一方だった。もし、ポエトリーリーディングをするなら、それを意識して詩を書かなければ、だめだと思っている。まあ、複数の人の前で、何かをするという行為自体、大の苦手なので、この先ポエトリーリーディング用の詩を書く事はないだろうが。そういった意味でも、詩に音楽性がある事と、声に出しても音楽性が伴う事とは、違うように思われる。決してポエトリーリーディングを否定している訳ではない。古代の吟遊詩人達の例もあるし、現代においても朗読して、また、素晴らしい効果を発揮する詩がある事は事実である。ただ、私は文字や文章だけで、読み手に、映像を見せたり、音楽が頭のなかで聞こえてくれば素晴らしいのではないかと、初めから黙読を強く意識して詩を作っていたにすぎないから、黙読を望むだけである。そして、それが私の詩作に最も適している。
 音楽界は強い。声と音楽と詩、それが三位一体となって成功するのが歌の世界だ。音楽は大好きだが、私は楽器を奏でる才能がない。楽器を持たず、声も出さず、文字だけで表現する詩は、それだからこそ、私自身のフィールド内にあるものと感じる。演奏は出来ないが、それでも心の叫びはある。そして、詩は作れる。それを勝手に「ロックンロールだ!」と言ってみたりもする。
 だが、詩を職業にしたいとは思わない。若い考え方だとは思うが、職業にすれば必ず芸術性が堕ちる。詩とは私にとって人生の意味そのものだ。
 そして、芸術性を損なわずに飯を食っていけるバランスのいい唯一の手段がミュージシャンだと思うのである。羨ましい限りだ。



            尾崎豊について           


 1985年、「LAST TEENAGE APPEARNCE」代々木オリンピックプールでのLIVEを体験したファンは、いったいどこへいったのか?
 いや、どこへもいっていない、ただ、黙して語らないだけだ。大人になったからと、離れていった人達もいたとはいえ・・・・・・。そういう僕は、「LAST TEENAGE APPEARNCE」のLIVEを、実際に観る事は出来なかったのだが・・・・・・。
 尾崎豊の事を、自ら他人に語ろうとするファンは少ないであろう。よほど訊かれない限りは、話そうとはしない。僕もそうである。真に尾崎豊のファンであれば当然である。なぜなら、普段は隠しておきたい生身の自分を、他人にさらけ出してしまうような形になるからでもあり、辛い思い出をも蘇ってしまうからでもある。現在もそうかもしれないが、尾崎を含め、あの時代のティーンエイジャーは、本当に色々あった。
 1980年頃から、校内暴力のニュースが流れ始め、窓ガラスを割るなどの行為も、尾崎がシングル「卒業」をリリースする以前から報道されていた。学校の体制と、教師への不満が顕わになったもので、教師側の生徒に対する締め付けが、理不尽であった故の事だと思う。後年、僕の友人が、当時、青山学院高等部に在学していたという人から聞いたエピソードを、話してくれた事がある。同級生がなんらかの理由で、教師から責められそうになった時、尾崎はやってもいないのに「僕がやりました」と、同級生をかばったという。尾崎とはそういう奴なのだ。僕も、教師嫌いなのだが、尾崎もインタビューで語っていたように、そもそも教師の人格に問題がありすぎたといえる。納得できる理由も説明されないまま、いや、説明できる頭のない教師が、生徒に対して暴力や権力をふるい、ほとんどの生徒は、なす術もなく屈するしかない。将来への不安や、存在意義に揺らぐ生徒達の人格すら否定してくる教師。大抵は、校内暴力といっても正義は生徒側にあり、暴力的なのは教師側だった。少なくとも、僕にはそうであった。そんな中、現れたのが尾崎豊だ。今思うと、もし尾崎がいなかったら、当時の中学生や高校生の自殺者は、もっと多くなっていたのではないかとさえ思う。だが、使命を帯びて登場してきた感はあるが、時代が尾崎を求めたなどという次元の話ではない。
 尾崎ファンは、自ら尾崎豊を語る事はないと言ったが、ではなぜ、僕は語ろうとするのか? 実はこれを書いている今も、語りたくはないという気持ちが強い。だが、あまりにも、「当時の尾崎豊」を、語っている人が少なく、毎年、彼の命日が近づくにつれ、迷いながらも、やはり書き残して置きたいという気持ちが、年々強くなってきたからだ。そして、十代の頃の僕や、同世代のファンが、その時の尾崎豊をどう感じていたのか、彼の死後、爆発的に増えていったファンに対しても、生前の尾崎豊とはどういう存在だったのか、自分の独断もあるとはいえ、当時の思い出を混ぜつつ、特に語りたい気持が強い。
 1985年前後、僕のクラスメイト達に、尾崎を知っている奴は一人もいなかった。僕が尾崎を知ったのは、妹が教えてくれた事がきっかけだった。話しの中心は「十五の夜」だった。そして、「十五の夜」を聴き、あまりにもストレートすぎる内容と、初めて聴く高い声に、僕は疑いすら持ってしまった。その後は、特に気に掛ける事なく、日々が過ぎて行ってしまった。今思うと、その頃は「十七歳の地図」より、「十五の夜」が、初期ファンにとっては象徴的なものだったと思う。妹曰く、ファーストアルバムこそ、尾崎豊であり、その後のアルバムは、付け足しとさえ言い放つ。僕はというと、セカンドアルバムまでが、一つの区切りだと思っている。一曲目の「Scrambling Rock’n’Roll」を聴けば解るように、セカンドアルバムはノリに乗っている感があり、サードアルバムでは、すでに大人っぽくなったなぁ、という印象を持ったからである。
 それから暫くして、妹は懲りずに、MTVから録画したらしいビデオクリップの「ドライビングオールナイト」を、僕に観せてくれたのだが、のたうちまわるように歌っていたので、なぜこんな歌い方をするのかと、最初は嫌悪感すら抱いた。だが、体の動きとは別に、尾崎の目の真剣さに気づき(わざと眉間に皺をよせたような、作られた厳しい目をしたものではなかったから)、これは魅せる為の演出などではなく、もっと深い方向へ向かって歌っているものだと気が付いた。「これはちょっと違うぞ」と思い始めたのは、この頃からだったと思う。そして、ノーヘルでバイクを疾走させる尾崎の姿はかっこよく、どの角度から撮っても絵になる男だと思った。その後、大量の写真を見る事になるのだが、どこから撮っても絵になるアーティストとは稀である。この「ドライビングオールナイト」は、大阪スタジアムでのLIVEだが、アルバムでの録音とは違って、低音かつ、地の底から湧き上がるような凄味のある声で、LIVEでもまた違った魅力を出せるという、稀有なアーティストの証明でもあり、時系列が思い出せないのだが、この後に観た「核」のビデオクリップでも感じた、まさに「叫び」そのものだった。
 でも、彼がどういう人物かまだよく理解出来てなかった。気にはなっていたが、僕は学生だったから、金も無く、アルバムを買うまでには至らなかったのだ。
 そんな時だった。たまたま深夜にMTVを観ていたら、「尾崎豊がSONYのオーディションを受けた時の、貴重な映像が手に入りました」という紹介の後、いきなりフィルムと音声が流れた。なんの曲かは思い出せないが(たぶん「街の風景」か「ダンスホール」)、その声が流れた瞬間、めったに鳥肌も立たない僕が、それを通り越し、その場で凍りついてしまった。・・・・・・理由無き生理的感動。心臓に直接響くその歌声は、モノラル音声特有のストレートなものだったからかもしれないが、今思い出しても、魂と肉体を揺さぶられた特異な体験だった。
 初めて、十六歳当時の尾崎の高い声を聴いたら、誰でもそうなるのかもしれない。天才の歌声とは、こういうものなのだと思い知った。だが、「気持ち悪い」とギリギリの所でもあり、それを嫌う人もいるだろうが、その後に完成された低音の声は、初期の高い声をベースに完成されたものであるから、全盛時になれば、誰が聴いても悪くは聴こえない筈である。ちなみに、最初のオーディションを尾崎はすっぽかしている。デモテープを送ったとはいえ、受かる訳がないと思い、停学中という事もあり、家で友達と遊んでいたのだ。二回目のオーデション当日、担当者がどうしてもオーディションを受けてもらいたく、自宅へ電話をした。それを受け取った母親が、部屋でまた友達と遊んでいた尾崎に、受けてきなさいと言い、SDオーデションに行ったのだった。その時点で、すでに担当者はぞっこんだったようだ。
 そして僕は尾崎の情報を集め始める。特に、日比谷野外音楽堂(アトミック・カフェ)で、7メートルの高さの照明塔(トラス)から飛び降り、足を骨折しながらも最後まで歌い続けたというエピソードを聞いた時、これは本物だと確信した。
 そうして、とうとうファーストアルバムを買った。まず最初に「十七歳の地図」の歌詞を見たのだが、その言葉数の多さに驚き、「こんな文章のような大量の言葉に、曲をつける事が出来るとは思えない」と、咄嗟に思った。だが、アルバムをセットし、「街の風景」のイントロが流れ始め、「街の風に引き裂かれ 舞い上がった夢くずが」と歌い上げられた瞬間、凄まじい衝撃を受けた。こんな歌詞、今まで聴いた事がない。最後まで聴き終わるまでもなく、もう僕は夢中だった。
 すでに三枚目のアルバムを出していた尾崎について、それで今はどうしているのかと、妹に訊くと、「ニューヨークへ失踪」との一言。僕は失踪と聞いて、そんな事が有り得るのかと思った。レコード会社からアルバムを出しているアーティストが、失踪できるものなのかと。後から知ったのだが、時々は連絡を取っていたものの、関係者にも所在を明かさず、本当に失踪してしまっていたのだった。ある親しいミュージックライターが、偶然ニューヨークでの尾崎を目撃したらしいのだが、全身刺々しく、声を掛ける事が出来なかったという。
 すでに伝説は終わっていたのかもしれない。僕が尾崎を知った時期は、結構遅かったかもしれないが、彼が早すぎたともいえる。まったくTVには出演する事もなく、デビューからたった二年間で三枚のアルバムを出し、その直後、無期限の活動休止、そして失踪である。だが、遅かったとはいえ、今、思い返すと、ファンになった僕の方も、数ヶ月で一気に尾崎の事を駆け巡ったかのような状況にまでなっていた。それに、帰国直後の尾崎のLIVEは、第二の伝説ともいえる程、凄まじかったのだから、もっと早くに知りたかった気持ちはあるが、致し方ないと自分に言い聞かせるしかない。
 失踪とは、尾崎を取り巻く状況の中で、至って当然だったと思う。ファーストアルバムから、十代最後のアルバムまで聴けば、すでに、ファンも「これからどうするのか?」といった雰囲気があったし、尾崎もそうだったように思う。でも、失踪期間中、ファンの間で、「ドラッグ漬けになっている」とか、「死んだ」などの噂が飛び交いはしたが、皆、尾崎は必ず復帰するという確信めいたものもあった。
 そんな中、やはり帰国の噂が立ち、1987年1月、尾崎はアルバム制作の為、活動を再開する。とはいえ、当時の音楽雑誌『GB』には、四枚目のアルバムの発売延期が幾度となく書かれ、とうとう無期延期になってしまう。そういったアルバム制作頓挫中での、ツアー開始であった。
 僕は今、1988年9月号の音楽雑誌『What’s in?』を開いているが、時系列が載っており、後に、「お帰りコンサート」と言われた有明コロシアムでのLIVEは、ツアー開始から、実はかなり後で、それまでには、2度目の大阪球場や、「広島平和コンサート」、「熊本BEAT CHILD」がある。
 いつの間にチケットを購入したのか、妹はその有明コロシアムでのLIVEを観に行っていた。感想を訊くと、「新曲(LIFE)は良かった」との事。この「良かった」とは、当時、尾崎の「曲が作れなくなった」という、吐き捨てたようなメッセージが、関係者を通じて、音楽誌に載っているのをよく見かけたので、皆心配していたからだ。
 1987年10月21日、この頃になってようやく、すでに伝説となっていたLIVE「LAST TEENAGE APPEARNCE」がCDリリースされる。やはり完璧なLIVEだった事が解る。LIVEに於ける最初のピークが、大阪球場から始まり、代々木オリンピックプールで結実したようだった。
 そして、カウントダウンもののTVで「広島平和コンサート」での「核」だけが放映される。僕はこの映像を録画して持っているのだが、この時の尾崎の歌い方は、まさに「叫び」そのものである。曲のサビからは叫びっぱなしだ。それに、反戦コンサートであるのに「反戦、反核、いったい何が出来るというの。小さな叫びが、聞こえないこの街で」と、歌う所が尾崎らしかった。
 僕の自論で、アーティストは二度ピークを迎えると思っている。最初は、デビューから上昇してゆき、その勢いのまま完成に至る。そして、その後、表現は安定してゆき、その安定期の中で、熟成したピークを迎え、あとは歳と共に下降してゆく。尾崎の場合、それが凝縮された短期間に起こり、この「広島平和コンサート」、「熊本BEAT CHILD」あたりが、すでに二度目の、しかも爆発的であり、これで死んでしまうのではないかと感じる程の、燃焼度なのである。僕は、そしてファンは、こういう尾崎を観る度、どんな辛い事があっても乗り越えられると信じて生きていけるのだ。
 ただ、後にビデオで観る有明コロシアムでの尾崎には、すでに以前の尾崎には有り得なかったパワーの衰えが、この日の「核」や「僕が僕であるために」の歌声自体に、出始めていた。歌声がこっちに届いてこないのである。後述する「LIVE CORE」のビデオを観た時と同じような感があり、逆にびっくりもした。尾崎は、はっきりとした早熟の天才である。すでに、常人よりも早く、肉体的衰えが来始めたといえる。そういう目で見ていたせいか、三日月の夜空を見上げる尾崎には「時間よ止まれ」と、願っているようにさえ見えた。
 そして、1987年12月22日、覚せい剤取締法違反で逮捕される。世間の反響は大きく、そしてヒステリックで、この時に初めて「十代の教祖」だの「若者の代弁者」だのといった活字がマスメディアから出現し、ファンからは「裏切られた」的な声が目立ったが、これは一部のファンだけだったと思う。マスコミがそういった声だけを、意図的に取り上げ過ぎただけだったように思われる。僕も含めて、多くのファンは、尾崎がドラッグをやっていても不思議ではなかったように感じていた筈である。歌詞にも出てきていたし、法律上は犯罪な訳だが、やっていそうだけれどやってはいないだろう、という前提が崩れただけに過ぎないと。何を今更といった感が強かった。だが、確かにショックな事はショックだった。解ってはいた筈なのに、ショックではあった。ここは複雑なファン心理としか言いようがない。それに、尾崎が行き場を失くしたようにも感じた。それはその後、東京ドームでの1DAYコンサートが決まった時、尾崎はまた照明塔(トラス)に登るのならば、今度はそこから飛び降りて死んでしまうのではないかとさえ思ったぐらいであったから。多くのファンも同じように感じていたと思う。それぐらい、みんな精神的にも混乱した事件であった。
 年が明けて、1988年2月22日に釈放されると、6月21日にシングル「太陽の破片」が発売される。新曲だ。しかも、初めてTV「夜のヒットスタジオ」に生出演するという。当日は絶対に期待どおりの事をしてくれると思った。つまり、歌と声の凄さ、叫ぶ尾崎を見せつけてくれるという事だ。ここで、大抵のアーティストなら期待を裏切るのだが、尾崎は期待以上の歌い方を最後に見せてくれた。あの時も、僕を含めて、ファンは絶対に尾崎はやってくれると確信めいたものがあった。
 1988年9月12日、僕は東京ドームにいた。ここまで来ると、もう尾崎の復活を願うだけだった。チケットを買えなかった僕の友人は、入れなくとも東京ドームまで来て、その外で、かすかに聞こえるコンサートの音を聴いていたという。この友人は、僕が尾崎を教えて、ファンになり、青山学院大学に入り、前述した尾崎の高校でのエピソードを教えてくれた友人である。
 後に発売される、この「LIVE CORE」のビデオを観ると、尾崎はまったく声が出ていなく、ビデオを観た時はショックだった。何故なら、VTRでは、あまりにも声量が無いのだが、それでも実際のLIVE会場では、そんな事は感じなかったからである。だが、VTRでの声の出方を受け止めれば、すでに尾崎は完全に失速し始めていたといえる。聞く所によれば、リハーサルで頑張りすぎたからというが、それでも、以前の尾崎ならば驚異的な声を出していた筈である。きっと、彼自身も驚いていたと思う。若い時は、衰えというものが解る筈はないのだが、事件の事もあり、ブランクもあったとはいえ、すでに肉体はボロボロで、回復力が追い付かず、年齢的な衰えも始まっていたように感じる。僕は、「夜のヒットスタジオ」での尾崎が、最後の「真の尾崎豊」であったと思っている。冷静に過去の尾崎を見れば絶対にそうである。だが、そうはいっても、アルバム『BIRTH』での尾崎の曲も好きだし、シングル「LOVE WAY」が出た時は、完全に復活したと喜んだ。『放熱の証』が出た時は、こういう詩でいい、尾崎はこれからも曲を作れると、安心したものだった。
 それでは、実際の「LIVE CORE」だが、演奏が始まり、いきなり尾崎が登場。なんのMCも前触れもなく始まったLIVEに、さすがは尾崎と感じた。後のBIRTHツアーのような、ファンに気を遣いすぎるような事は全くしなかった。思い返しても、ビデオ音声のようなかすれ声には聞こえず、僕が冷静ではなかったのかもしれないが、音響も凄まじく大きかったからか、尾崎の歌声にまったく違和感はなかった。「核」を歌った時は、尾崎の声が大きすぎて、マイクがハウリングを起こしたぐらいだったと思ったのに、ビデオで確認すると関係無い所で小さくハウリングしている。今もって不思議で、VTRの方こそ納得がいかないが、これはLIVEに行けた者の特権だったとしたら、でかすぎる特権だったという事にしておきたい。惜しむらくは、VTRでもしっかり声の出ている大阪球場や代々木オリンピックプールでは、どれほどの素晴らしいLIVEであったか、計り知れないものがあるという事だけだ。
 会場はやはり、9月1日にリリースされたアルバム『街路樹』に収められた曲よりも、十代の曲を演奏した時の方が、ファンの反応が凄かった。ドーム全体の空気が、歌声と歓声とで、うねるように押し寄せてきて、「十七歳の地図」の時は、特に凄まじかった。
 「太陽の破片」では、光の柱のように下から無数のライトが当たり、本当に美しかった。「シェリー」を歌う前に「この曲は、この水道橋近くに流れている川を見ながら思いついた曲です」といったMCがあり、僕も何度となくその川を見ていて、実際その川に、尾崎を感じていたので、場所的に意外とは思いつつも、嬉しかった。「僕が僕であるために」を歌った後の、会場に何かを投げる仕草は、二、三度行っていて、二階席から見ていた僕には、一瞬、アクシデント? と思ったが、ファンと綱引きをしているような感じでもあり、おどけていたようにも見え、会場が和らいだものだった。
 アンコールも終わり、ステージ裏の外から、関係者と共に引き上げる際、尾崎は首にタオルを巻き、歩きながらファンに向かって何度も両手で手を振っていた。
 僕は、LIVE全体の流れを記憶するのが、なかなか出来ないらしく、あまり詳しく書けなかったかもしれないが、とにかく実際のドームでは、素晴らしいコンサートだった。
 その後の尾崎は、逮捕後の報道から様々な批判にさらされ、そして、そういう事に敏感であった為、特にファンに対して、以前よりもサービス過剰になってしまった感がある。彼自身、逮捕前の頃は非常に男らしく、大人らしさもあったのに、逮捕後は逆に、「太陽の破片」のビデオクリップのように、少年時に退行していくような弱々しい素振りを、隠さずに表してしまった。これは、挫折の時に僕も経験した事で、子供の頃の良き思い出の中へ戻りたくなってしまうのである。それと同時に、見かけも少年時代と同じような髪型をして、いわば自己防衛手段へと移行してしまう。アルバム『BIRTH』の頃には、だいぶ立ち直ったが、痛々しくも、こうなってしまったかと感じる『街路樹』前後の尾崎を、今もなかなか見る気になれない。その『街路樹』に収められた「核」は録り直されたもので、12インチシングルの「核」とは比べようもないくらい劣ってしまっているし、BIRTHツアーのVTRも、以前ほど声が出ない尾崎が痛々しく感じる。でも、以前のように声が出ない、どうにもならない自分を、尾崎自身は、解っていたのだと思う。死の前後、自動販売機を、血だらけになるまで殴り続けたり、暴れたりしたのも、そんな気持の表れだったのではないかと感じる。
 尾崎は「愛」というイメージが強いように言われるが、当時は「真実」というイメージの方が強かった。確かに、尾崎の曲にはラブソングも多いし、僕が究極のラブソングと思っている曲は「米軍キャンプ」なので、きっとそうなんだろうとは思う。しかし、こういう歌詞を曲にして歌いきる尾崎だからこそ、彼が真実なのであり、彼の話をする時は真剣になってしまうし、笑って話す事が出来ないのだ。逮捕前という限定をしてしまうが、尾崎の言動、行動、存在そのものが全て真実だった。歌を唄っていなくても、風に吹かれ、たたずむ尾崎そのものが、僕らにとっては真実だったのだ。
 最後に、これだけは言っておきたい。自殺のイメージが強い尾崎だが、彼ほど、「人生」を真剣に生きた人はいなかった。彼ほど、「生」というものを、全力で生き抜いた人はいなかった。



            ジュディアンドマリーについて           


 ジュディマリを知ったのは、もう自作の詩全部が出来上がってからだった。初めて聴いたのは「イロトリドリノセカイ」で、曲もよかったが、なによりギターのTAKUYA作詞作曲の歌詞が凄かった。シュールレアリスムである。
 今まで、古典文学的な詩を、フォークみたいなメロディラインならともかく、ロック、あるいはポップスに載せ、更に効果的に歌えるのは、到底無理だという、既成概念を打ち破ったともいえる。佐野元春氏のコード進行までも、進化させたのではないかとも感じた。曲も歌い方も特殊で難しいのである。
 そして、過去の作品を追いかけた。すると、特にヴォーカルのYUKIが作詞した内容には、驚くしかなかった。何故なら、私の詩と感覚がほとんど同じではないかと思われるフレーズが多かったからだ。
 はっきりと確認は出来ないが、YUKIにしても、TAKUYAにしても、フランス文学をかなり読んでいるのではと思う。特にボードレールやアンドレブルトン、ロートレアモンなどである。
 私もそうなのだから、詩の内容が似てくるのは、当たり前だという事か。向こうも私の詩を知らないだろうが、私も真似したわけではないし、知らなかった。
 まあ、もっともあちらはメジャーであるから、いささか恐縮ではあるが、ただ、もう一つ言える事は、どちらも同じ90年代に作品を作ったという事だ。ただ、彼らはシュールレアリスムとして作品を作ったという意識は持っていないと思う。そんな事は、どうでもいい事なのだから。
 まじめな話し、本当に私は真似していない。知らなかったし。
 もしも、詩作を決意する前に、ジュディマリの歌と出会っていたら、私は詩を書かなかったかもしれない。自分が読みたかった、或いは書きたかった詩が、歌と共に存在したのだから。
 彼らに任せていればそれでよかったからである。
 



           ネオ ダダについて       


 もう、随分昔の話になってしまったが、若い美術家の間でネオダダイズム運動が、起こっていると聞いた事がある。それを聞いて、「なぜ、今、ダダなのか?」 と思ってしまった。同時に「なぜ、シュールレアリスムではないのか?」とも思った。
 美術界と文学界は、もちろん違うのだが、とうの昔に徹底的に批判され、誰も文学界では取り上げなくなっていたダダである。
「きっとネオダダは、自らをも壊してしまうだろう」当時はそう感じていた。
 しかし、考古学や古代史に興味を持っている私は、文明や文化が一度滅びては、また興る、という歴史過程において、美術でも有効なのかもしれない、と最近は思い始めた。
 今、ネオダダの成果はどうなっているのだろうか。



           バーン・ジョーンズについて


 バーン・ジョーンズの絵をみたのは、学生時代だった。その人物像は、詩のインスピレーションを得るのに十分だった。バーン・ジョーンズやラファエル前派の絵は、人によって好き嫌いがはっきりしている様だが、私は手放しに好きだ。
 ただ、ルオーなどにもはまっていた当時としては、まったく絵柄は別分野の画家で、こういう絵が嫌いだという人の気持ちもよく分かる気がする。
 私の、特に幻想的な詩の登場人物は、このバーン・ジョーンズの絵の人物像をイメージしてもらいたい。「フィオレンティーナ」や「聖域」などか゛そうである。



           横浜


 もう、察しがついてしまった事かと思われるが、私の詩の舞台は、ほとんどが横浜である。
 あえて、作品中に「横浜」と表記しなかったのは、読み手のイメージを、限定したくはなかったからである。
 「港街」あるいは「開港記念日」、どれを読まれても、その舞台は、神戸でもいいし、長崎でもいいのである。それは、読者が決めてくれれば、それでいいのだから。作品は、作者の手から離れてしまえば読者のもの。これからもきっとそうである事だろう。
 私は、約八年間。一人、横浜に住んでいた。横浜に住みたかったからだ。生まれは東京であるにもかかわらず。仕事も順調になりつつあったから、それが出来た。青春だった。そして、ほとんどの詩を、横浜で書いた。横浜で書いたといっても、中には、東京での一場面や、鎌倉、横須賀など、複数の舞台を重ね合わせ、作品を創り上げた事もある。そのほうが、作品に深みを持たせる事が出来ると考えたからだ。
 そうして、三十歳にもなる頃、東京に帰って来た。いや、事情があり、帰らざるを得なかった。それと共に、詩作に対する情熱も失くしつつあるようだ。
 
 青春は、終わりがあるからこそ、美しい。
 
 十代の頃は、あきらかに青春だった。二十代も、若かりし青春。
 そして今、青春も、終わりを告げているかのようである。
 
 大人の季節があってもいい。―― さらば横浜、我が青春。



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