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・・・今日の一言。

と言っても、不定期ですが、、、(^^;)。ちなみに、この空間に於ける、更新のお知らせは致しませんので、あしからず。
そして、これら「一言」は、グローバルに向けて、発している部分もありますが、大体は自戒の意味も込めています。
よく忘れるので、ここに書いておいて、身に付ける為もあったりするのです。
そして、これらの言葉は 
「詩」ではありません。


***

人は感情に流されやすい。

***

「解る人には解る、解らない人には解らない」
これは特に気をつけなければならない事だ。

***

優れた作品は現実を模倣し、そういう作品は現実が模倣する。

***

人間の集中力に関して、「ゾーン」と呼ばれているものがあるそうだ。
一般にスポーツ選手などに例えられているが、それには芸術的思考も絡んでいるような気がする。
例えば、ゴルフなどでは、一流の選手でさえ、なかなかホールインワンは無い。
だが、ホールインワンをした選手に言わせると、その為のボールの軌道が見える時があり、
体もそれについていくように、動かす事ができる瞬間があるそうである。
野球でいうと、ホームランなどがそうだろう。
バッターはきっと、投手が投げた瞬間、ボールの軌道と、どう振ったらホームランになるか、分かってしまう場合がある筈だ。
体もそれに沿ってバットを振り、ホームランとなる訳である。
そういう、集中力が極端に高まり、結果に結びつく瞬間、或いは時間を「ゾーン」と言うそうである。
詩作品を書いている時などは、そういう状態なのかもしれない。

***

大岡昇平は文化勲章を辞退した。
共に戦った戦友が皆死んでいったなか、自分だけがもらうことはできない、と言っていた。
小林秀雄は、受賞して恥ずかしそうだった。特に感想はないと言っていた。

大江健三郎は、文化勲章を辞退したが、ノーベル賞は受賞した。
家族総出で受賞を告げる使者を今か今かと待っていた。
やたらとはしゃぎ、しきりと、大岡昇平の名を口にする。

実にみっともなかった。。


***

僕は有名にはなりたくない。
賞も欲しくはない。
名を捨て実をとる、でいい。
だが、有名になってしまったらどうするか?
作品は世に出ていいが、自分自身はあまり世にさらけ出す事はすまい。

***

誰も好き好んで、自ら嫌われようとは思ってない。
自分のストレス発散の為に嫌われている人は論外だが、
嫌われてもいいと考えての言動は、なにかしら相手にとっての見返りがあるときだ。
それによって相手が成長、或いは新たな方向性が見出せるであろうと推測しての発言だ。
人が成長するのを見ているだけでも、自分の事のように思えるからだ。
それはつまり、自分にも見返りがあったという事にもなるのかな。

***

自殺とは、卑怯だと考えるが、実際に自殺した人にとっては、そんな概念とは無縁の人もいる。
人は死ぬ事が怖い筈である。ゆえに、自殺できる人の気持ちが解らなかった。
特に肉体的痛みを伴う「死」について、恐怖感がなぜ無いのだろうと。
だが、自殺とは、確かに感情から始まるが、「状態」なのだという事を思い知らされた。
つまり、追い詰められたりした時、肉体の感覚は無くなり、「痛み」の恐怖さえ無くなる。
云わば、脳の命令を、肉体が利かなくなり、制御できなくなってしまう「状態」になった時、起こりうるものだという事を。

***

シュルレアリスムとは、現実を超えると書く。
実際、それは元々の定義から外れてはいるのだが、私の解釈はそれも有りだと考えている。
私の詩は、およそ現実離れしているが、決して幻想に浸っている訳でもなく、現実と向き合っていない訳でもない。
死と向き合っているのだ。
そこから、私の詩と私の実存は出発しているのである。
ゆえに、自殺とは、生から逃れ、死からも逃れているゆえ、卑怯だと感じる。
死と向き合えば、おのずと生とは何かという事が悟れる。

「生が終って死が始まるのではない。生が終れば、死もまた終ってしまうのである」
〜寺山修司〜

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向田邦子氏は、その作品の連載中にも関わらず、直木賞にノミネートされた。
その編集者の言うところの理由によると、
「まず、起承転結がしっかりしている事。比喩が効いている事。上品なユーモアがある事」
私は読む事には興味があるが、小説を書くことには興味が無かったので、なるほどと感じた。
これから、小説を書きたい人には参考になるかと思います。

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世の事象は移ろいやすいので、矛盾している場合があるのは仕方ないが、
せめて、筋は通しておきたいものだ。

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子供の頃に、よく親が話す戦争体験は、やたらと話す分、うんざりしていた部分があった。
子供心に、「戦争の話じゃなくて、もっと面白い体験を話してくれればいいのに・・・、」と思っていた。
しかし、今となってはこちらから訊く事が多い。
家の親はそろって昭和ヒト桁。戦争をする事自体はもちろん否定だが、大東亜戦争に関しては、否定的でもあり肯定的でもある。
それは良くも悪くも、体験してしまったせいもあるが、
当時の歴史背景を認識していれば当然とも言える。白か黒か、どちらか一方では語れないものなのだ。
それはともかく、大体、昭和16年から20年の終戦、
そしてGHQが日本から出て行くまでの昭和30年まで、仮に13歳から24歳の年齢だったとしたら・・・。
それは、好むと好まざるとに関わらず、彼ら彼女らの青春時代なのである。

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メールとは、云わばそのままの意味でも手紙であり、ネットコミュニケーションに於いても、
その交換は古くからの「文通」と変わらない性質をもっていると考える。
だから、「パソコンのメールなんて」と言い、年寄りが訝しむ事はないわけで、便箋が液晶画面になっただけである。

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と、下記の項で言ったものの、まるっきり言わないというのも、これはつまり見殺しみたいなものだと思う。
聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、ということわざ通りに相手がなってしまうだろう。
実際、自分自身も、その時は腹が立ったが、やはりあの時言ってくれて良かった、と思う重大な事があった。
あえて言う時は、トゲがない言葉と、相手の受け止めを鑑み、考慮して、自然と悟らせるように言うのが、
人としてなすべき事なのだろう。
まあ、そこまでしてくれる人は、なかなか居ないものだが。

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ネットの掲示板は、現実よりも実に生々しい。
元々、ネットであろうが、そこには「人間」がいるという実感はあった。
だが、私の場合、言葉で人を傷つけるという実感は、現実の方でも薄かった事に気づかされた。
現実での言葉の応対よりも、ネットの文字からなる文章、或いは言葉というものが、
普段の言葉よりも電気的に増幅されているような感じである。
ゆえに、その暴力性も増す訳だ。本当にいい経験をさせてもらった。
「猛獣使い」ならぬ「言葉使い」を目指していた私の視界を広げてくれた。
そして、今までは言うべき事は言った方がいいという考えを強く持っていたが、
言わないほうが、相手の為でもあり、自分の為でもあるという「場合」がある事を、強く感じる事ができた。
或いは、相手が感情的にならないように、上手く言い回しをするという術の大切さも。
それこそ、「言葉使い」の出番であるともいえる。
それを、身に着けるまでは、まだ時間がかかりそうだが、とりあえず「言わない自分はカッコいい」
と思う事にしている。

***

小林秀雄が訳したランボォの『地獄の季節』という題は、原詩の意味的には『地獄の一季節』が正しい。
だが、日本語というものは深く、「季節」という言葉に、必ずしも「四季」のみ指しているわけではない。
言葉の中に、一つの季節を意味して発する事もあり、感覚的にもそれで通じてしまう。
むしろ「その季節には・・・」など、明らかに一つの季節を指している場合が多い。
だからこそ「四季」という言葉で、区別しているともいえる。
韻的にもやはり『地獄の季節』のほうがいいと感じる。

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よく、地方出身の方が、東京を目の敵にする場合があるが、
昔も今も、東京で地位を築いてきた人々は、そのほとんどが地方出身者である。
私は生まれも育ちも東京(少し横浜)だが、今も、出会う人達の中で、
東京生まれの人は、なかなか居ない。
東京の人間が、=東京砂漠を作ってきた事は、ある意味幻想だが、
それによる地方出身者の「抵抗」や「意気込み」が、東京で花開くのは、「力」ある事だ。
文化や芸術も然り。

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屋外労働者である私は、休日になると、あまり外に出たがらない。
普段、外に出ているからだろう。
昔、一年ほど机仕事をしていた時は、休日になると外によく出掛けていた。
人間は、そういうふうになっているようだ。

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個人の求心と、大衆の求心力とは、その力の発現力が違うのだろう。
あと、「求める」「望む」「願う」は、それぞれに違いがありそうだ。結果として。
「求める」は欲望的だが、「願う」は謙譲的であり、「望む」は希望も含み、前向きでありながら、
挑むという要素もあったりするのではなかろうか。

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理解力が広く深いと、時に「悪」でさえも、その攻撃性を顧みず、深く理解してしまう危険性がある。

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真実に対する認識は、当たり前の事が多い。
だが、その当たり前の事を、どれだけ噛み締める事が出来るか、実感出来るかが重要だ。
例えば、世はプラスな事もあれば、マイナスな事もある。当たり前である。
他人に何か与えられたら、自分も他人に与え返さないと、不平等だ。
自分だけ得していると、いつか必ず損するように出来ている。
世界と時間軸は、平均を保とうと、常に動いて来る。
そういった意味でも、自然とは実に平等に出来ているものだ。

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自分の作品は、自分が一番よく知っているとも言えるし、知らないとも言える。
知っている部分は、その作品の価値である。
知らない部分は、自分以外の他者が、その作品をどう感じるか、である。
それが、一番重要なので、作家は多くの感想を聞きたがるのである。

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本音を言ってくれる人は、大切である。

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演技が、日本の俳優より、欧米の俳優の方が上手いのは、
その風土性からか、欧米人の方が、嘘が上手いからだ。
いい意味でも、悪い意味でも。

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強く求めるな。ほんの少しだけ求めていれば、おのずと向こうからやって来る。
強く求めてしまったならば、それは、忘れた頃にやって来る。

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言葉にならない時は、言葉以外のもので示すしかない。
現実的には、人との対コミュニケーションに於いて、行動で示せという事になるだろう。
表現でならば、動画映像、写真、絵画、彫刻、その他色々あるが、最後は音楽になるのだろう。
そういった意味で映画は、全て揃っているともいえるが、
音楽も、映画も、三位一体を成し遂げる事が、一番難しいとも言える。

***

人類発生から、天文学的な数の人間が生まれて、また死んでいった。
その想像も出来ない程の数の人間の中で、唯一、真実を死ぬまで持続させた男が、
仏陀である。

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真実とは、元々、人間には持続させる事が出来ないものだったのだ。
天才を見れば、それが明らかだった。
唯一の例外が、仏陀であった。

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天才とは、芸術的人生を送るかわりに、
人間的人生を、犠牲にしてしまう男の事である。
故に、天才をやめる男もいた事だろう。

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人にキツイ事を言われたら、その時こそ、自分を変えるチャンスだ!
と、思うといい。
多分に、現状を言い当てているからだ。
逃げずに、その言葉から、自分の置かれている現状を、
シュミレートして、分析し、これからの自分の方向性を見出す事だ。
ただし、自分でキツイ事を言っておいて、言い返したら、怒り出すような人の意見は、聞かなくてよい。

***

自分のやり方を信じきっている人間は厄介だ。
人の意見を聞かないからだ。
そのやり方が全てであり、必ずしもベストでない場合もあるのに、馬鹿にしさえする。
時に、もう一度、自分のやり方に疑問を持ち、分析して、更にもとのやり方に戻るのであれば、
まだいいが、そうでないならば、発展性がないから、成長もしない。

***

経験というものは、素質開花を加速させてくれるものだけに過ぎない。
だから、素質も無しに、その経験自体を語ることには、芸術性がないのだ。

***

芥川賞の受賞作を見るにつけ、毎度思うのだが、もう、いいかげん、実体験こそ全て、
みたいな私小説はうんざりする。将来にかけて、芸術を意識した作家はもう出現しないのかな。
純文学を書ける作家はいるが、芸術作品を書けなければ、
これから先、芥川賞は取れても、芥川龍之介と同等か、芥川を越える事は出来ないな。


***

小説は、書けば書くほど上達するだろう。あとは本を沢山読めばいい。
だが、詩は沢山書いたとしても、上達はしない。
詩が書けるようになるには、一度、自分を乗り越えなくてはならない。
経験によって、自分を乗り越えたと感じる人もいるかもしれないが、
結果的にそうなっただけで、色んな経験をしても、乗り越えられない時もあるし、
経験を積まなくとも、乗り越えられる場合もある。
今の文壇のように、経験こそ全てという訳でもないのだ。
センスや感覚を養わなくてはならない。
それではどうすればいいのかというと、本物を見る目を鍛える事が重要だ。
これは、普段から本物だけを見ていればいい。そうすると、偽物との違いが解るようになってくるから。
そして、人生に於いて、自分を偽らない事。
自分を偽らない事によって、たとえ、ズタズタになったとしても、諦めちゃいけない。

***

世間一般では、詩を書いている人間の理解は薄いものだ。特に男に対しては。
自分自身、詩作にこだわるつもりは無くなったが、
やはり、何故そんな事をしているのか? という世間の俗物的な問いには、
「生きている意味を確認している作業」
と答えるしかない自分がいる。

***

忘れがちな事。
或る対象に於いて、自分が理解出来たからといって、必ずしも、
他人が同じように理解してくれるとは限らない。
特に感覚はそうである。
どんなに美しいものでも。
理解を求めず、「自分はこうである」と言うに留まった方がいい。
押し付けになってしまう事を注意したい。

***

私はよく、普段は人を笑わせる事ばかり言う。
だからだが、まともに馬鹿にされたり、軽薄に思われたりする時がある。
日常でも、ネットコミュニケーションでもそうだ。
解ってくれている人はいるが、これが解ってくれない人はタチが悪い。
元々、自分にも責任はあるが、それにしても、私自身は、すぐに人を馬鹿にはしないので、
ある意味、そういう人の感覚が理解できないからこそ、お構い無しに笑いをとってしまうのだろう。
私も悪いのだが、それは馬鹿にされても、あまり気にしないからである。
何故ならば、ランボォ等を理解し、その真実性を知っていると、それだけで他人より優越感を、
持ってしまうからだ。とすると、これは私も人を馬鹿にしているという事になる。
馬鹿にされなければ、私も人を馬鹿にしないので、まず、馬鹿にされないようにとか、
なめられないように、努力をするべきなのかな。
だがしかし、理解をしてもらおうと、なにかしら言い返したとしても、
私が日常に於いて指摘する事は、よほど経験を積まないと、理解できない事が多い。
こう言ってはなんだが、普通五年かかる経験則を、一年ぐらいで身に付けてしまったとしたら、
人に理解を求めるのは、難しい。いつも、そうということはないが、所々そういうとこが私にはあったりする。
(自慢? いえいえ、欠点でもあります。それに、こんな私とて、
経験しても身に付かない事は、山ほどあるわけです。特殊な事が身に付きやすいということかな)
ゆえに、若い連中などには、なかなか理解してもらえない。結局、私もそうだが、
物事は、やってみなければ解らない。だからこそ、飛び込んでみる事が必要になってくるのだが、
自分の行動や、他人の反応を分析できる能力が鍛えられていなければ、無理なのだろう。
相手に対して、すぐに結論を出さずに、長いスパンで、見通してもらいたいものだ。
ここで重要になってくるのは、口よりも行動で示せ、という事なのだが、
やはり、バランスが重要だ。
行動力はあるが、まるっきり無口というのも、面白味がないし、何考えているか解らないというのもちょっとね。

***

世の大体に於ける怪奇現象や、怪奇目撃談は、脳による幻覚で説明できる。
実際、当の本人は「絶対に幻覚でも見間違いでもない!」と感じていても、
人間の脳が、現実味を帯びて、そう見させているのだ。
体調や、環境による影響も大きい。
幻覚とは、正気の状態でも見るものなのだ。
はっきりとした意識の中でも、リアルに感じさせるものなのである。
だから、幻覚と理解できない。現実と区別できないからこそ、幻覚なのだ。
ある意味、脳のエラー現象とも言える。
時に、同じ幻覚を、人と共有することもある。
イルカなどもそうだが、何かしら目に見えない、まだ知られていない、
生物間の意志の疎通はあったりするのではないか。
コウモリなどが、超音波を出したりするのは知られているが。
同じ人間同士ならば、同じ状況下に於いて、同じ感覚を持つのは当たり前だとも言える。
それが、ユング的にいうと共同幻想なのかもしれない。

***

ゲーテ曰く「知っていても、それを実行しないのは、知らないのと同じだ」
とは言うが、知らないで実行する時もあるし、
実行しなくとも、まったく知らないよりは、まだましである。

***

人との関係に於いて、印象というものや、相性というものは、忘れがちなので、
よく思い出して記憶しておきたいものだ。
例えば、相性が悪く、或いは自分が嫌われている相手に対しては、
どんなに良い事を言っても、悪く捉えられる。
逆に、好かれていると、余程相手に不快感を及ぼさなければ、
良いように捉えてくれるものなのだ。


***

「幸福」とは、それを感じる周りの状況や、自分の心持ちが重要である。
心持ち豊かであるならば、ささいな事にも「幸福」を感じる事だろう。
「幸福」を感じられないならば、感じられるように精進することだ。
考えるよりも、行動することが、近道であることは明白だが、
ただ、やみくもに旅をしたり行動しても、だめだろう。
状況を分析しながら行動し、行動しながら経過や結果を分析することだ。
しかしながら、「幸福」になったらなったで、
これはまた「不幸」を求めたりするものだ。
求道とは、これの繰り返しなのだな。
それが「人間」というものなのかもしれない。
やれやれ。

***

私は心理学者があまり好きではない。
特に生まれた環境や、幼年時の体験などに、
人間の本質を説明しようとする学者は、
本当の意味で、本質というものを解ってはいない。
確かに「性格」などは、環境に左右されるだろう。
だが、「性質」や「素質」は持って生まれたもので、絶対的に揺ぎはしない。
ただし、犯罪などには、心理学が有効だとは思っている。
犯罪者は、一線を越える性質を、持っているからだ。
私は、著作『天才』を書いた、宮城音弥氏の分析は、
概ね優れていると思うし、心理学者といえども尊敬に値するが、氏の唯一の欠点は、
「犯罪者は一線を越えるが、天才は限界点ぎりぎりで一線を越えない」
という事を分析できていない所だ。

***

今日、桜を見ながら、ふと思う。
自分は「春に歌う人でありたい」と。
それは、寺山修司が「僕は、海に書く詩人である」と言った事を、
思い出したからかもしれない。
振り返れば、自分の詩集に収められている作品群には、
きちんと四季が散りばめられている。
そうだ、自分は四季に歌う人であり続けたいのかもしれない。
だが、今は桜の花びらが舞うだけで充分。
2004/春

***


十代―――僕は少年だった。
二十代―――僕は青年になり、大人だった。
三十代―――僕は子供になった。


***

私は、嘘をつかれるより、
傷ついてもいい、本当の事を言って欲しい。


***

あゝ、雨のそぼ降る街に繰り出したとして、一体僕に何が起こるというのか!?
いや、何も起こらなくていい。期待はしていない。
ただ、闇に駆けるのみ。

***

真実は、すでに見つけている事の方が多い。
ただ、それに気がつかないだけだったりする。

***

結局、解り合っていたとしても、言葉が無くては確証を得られないとは・・・。
人間とは不便な生き物だな。
いや、不便な時もあるという事か・・・。

***

真実であるが、真実でない。
そういう矛盾も全てひっくるめて真実なのだ。


***

きつい事を言う時も、やさしい言葉をかける時も、
どちらも私の本音です。
時にそれが、相反していたとしても。

***

思想は、行為として実践してしまうと、思想ではなくなる。
〜三島由紀夫について、ふと感じた事〜


***

私にとって、詩作とは、幸せならば、する必要のないもの。

***

私の詩世界は、現在、幅を利かせている、現代叙事詩というものには縁遠いいし、
非常に古典的な手法を以って詩作しているものであるから、詩壇も私の詩には興味が湧かないだろうし、
私も現代の詩壇には、まるで興味がない。

***

以前、商業ベース、いわゆるメジャーで活躍していた、或るミュージシャンが、こう言っていた。
「自分はメジャーになるつもりはなかったが、自分のまわりに人が集まりすぎて、
そいつらを食わせていく為にも、メジャーになるしかなかった。
それに、一度なっておく事で、メジャーというものを知り、批判も言えるようになるので」
確かに同感である。私もそう思う。
だが、ミュージシャンは死ぬまで音楽をやり続けても、カッコいいが、文筆家はやはりカッコ悪い。
「食っていく為に書き続ける事は、素人にはできまい」と言われたとしよう。
肉体労働者の私から言わせてもらうと、「そこまで文章に執着するよりも、他に働く手段があるだろうに、体張れ!」
となってしまう。
それに、文章は結局、書く間はずっと屋内に籠もってしまうだろう。
社会性の欠如を促進してしまう。不健康だ。
一度社会に出て、職種は違えど、プロの仕事というものを達成してみるがいい。
レベルの差こそあれ、ほとんどの肉体労働者が感じる「体で覚える」ことの凄さと至高性は、物書き屋には実感できまい。
だからこそ、私は肉体労働者でありつづける訳だが、だからこそ物書き屋はドキュメンタリーに手を出すのだろう。
一夜漬けの実体験だ。
芸術をやる人間には当て嵌まらないが、いったい、いつになったら、文章に於ける技巧、哲学、思想、評論、
それらの技術論を追いかけるのは、言葉のイタチゴッコにしかならないという事に気づくのか!
たとえ、一時期、ポッとでたとしよう。だが、私のように死ぬまで文章にこだわるつもりのない人間にとって、
やめた後は、「消えた」と言われるのが関の山である。それが嫌だというのではない。
そもそも誤解を生むから嫌なのだ。それは例えば、TVに出て、有名になったから出続けるという事。
元々有名だったから、TVに出されるのであれば、まだ許される。
だが、自ら進んでTVに出るなどということは、私には破廉恥としか思えないのだ。
不本意に名が知れ渡るのは致し方ない気もするが、
己が身をさらし、自ら世間に名乗り出るのは破廉恥だという事。羞恥心がない。
他の人は、そう考えない方も当然いるだろうが、私はそういう人間だ。
人との付き合いや、仕事の関係上どうしてもというならば、致し方ないかもしれないが、
それこそ、義理人情の世界である。芸術にはやはり邪魔になるものだ。
ちなみに、小林秀雄は晩年、何も言わなくなった。妻と梅を見に行くのが楽しみ、だったそうである。
そういえば、芸術家は、死後に脚光を浴びたりするが、ミュージシャンは死後、有名になったという例は数少ない。
やはり、音楽界とは違うので、或るミュージャンの言った事は、音楽界では正解なのだろう。
誰か、死後に有名になって、メジャーデビューしたというミュージシャンはいないものだろうか。

***

自分の基本的な所は、なんら変わってない。
もともと、私はかなり理性的な人間である。滅多に怒りもしない。
ただ、誰でも怒りそうな事は、たいして気にならず、
一般的に人が気にしないような事は怒ったりはする。
変わり者なのかもしれない。
といっても、本当に滅多には怒らない男である。我慢したり、いい方に解釈する場合が多い。
が、疑問などにぶつかったり、権威を振りかざす人間を見ると、それに対して行動は起こす。
やってみなければ納得しない性分なので、突っ走ってしまう。
それを傍で見ると、随分と幼稚で、莫迦な事をする人だ、と感じるかもしれない。
納得がいくまで、理不尽な事とは、戦ってしまう。
だが、ぶつかってみて、理解すれば、もう冷静に行動しだす。
そして、大局を観る事が出来るようになる。
それも、行動の成果だと思う。

***

下段のように言ったものの、私は特にアメリカが嫌いである。
ただ、国民レベルだと、必ずしも、そうは言えない部分もあるが。
個人個人を見てみれば、アメリカ人にも、素晴らしい人間がいる事は確かだ。
だがしかし、国家レベルに達すると、そうも言ってられない。
広島に原爆を落とし、東京大空襲に於いても、全て民間人虐殺である。
それも、放射能の実験も兼ねているところが、とことん嫌になる。
ベトナムを枯葉剤でダイオキシンだらけにし、イラクでは、またしても劣化ウラン弾の使用により、
後世まで、人体が放射能による悪影響を残す、悪質さである。それを市街地でも使っているのだ。
今、自衛隊が派遣されたとして、この放射能だらけの所に行き、その隊員の体を放射能から守れる保障など、何もないのだ。
かつて、アメリカは、放射能のデータを取りたいが為に、自国民の子供を誘拐してまで、人体実験をしていた。
子供は、大人よりも、細胞分裂が早い為、それだけ科学者には絶好の被験者になるからだ。
こんな国を好きになれというほうが、無理な話である。
よく、アメリカ人は「大人の文化」という印象があるが、私はそうは思わない。
大人の持つヒューマニズムと、若者の持つキレやすい性格の両方を、極端に持っている民族だと思う。
犯罪発生率を見ても分かるし、離婚率を見ても分かる。
大人のしている事だとは、到底思えない。
湾岸戦争での支持率90%前後、今回のイラク戦争の支持率90%前後という数字からして、
いくら平和ボケしている日本人から見ても、異常な数値だ。
「大人」という事ならば、戦前の日本人のほうが、よほど「大人」だ。

***

戦争については、ちょっとキツイ言い方かもしれないが、私は「人間=戦争」だと思っている。
そして、戦争を否定すれば、人間も否定しているようなものだと・・・。
過去の歴史をみれば明らかで、歴史とは=戦争の歴史ある。だからといって、決して戦争を肯定している訳ではない。
人の普段の生活でも、戦いはある。受験や仕事、商売絡みの外国社会に於いて、やはり争っている。
そして、今回の戦争にしても、例えば、店などに、生きる上に於いて必要なものを運ぶのも、
車なりなんなり、石油を原料とした燃料を使っている。
プラスチック製品でもそうだし、その他たくさんあるが、それら自分達が生きる上で必要な物の中には、
輸入した石油から出来ているものが多いし、身の回りのものでも、アメリカや外国から輸入している。
そして、そういった生活必需品や石油を買うことにより、それを売った国は税利益を得て、そのなかから武器を買う。
そういう意味での、全人類共犯と言っている。
自分は戦争には反対だし関係してない、と思っていても、巡りめぐっては、知らず知らず、間接的に加担しているようなものだ。
人は皆、固有の時間を持って生きている。家族も一つの国家だ。一個人、一団体の限界を超えたところに、世界は横たわっている。
人間が人間である限り、争いは絶えない。
そもそも、人や生物にしても、他の生物を殺して、捕食し、生きている。哺乳類、鳥類、魚類、貝類、・・・、
ベジタリアンといえども、最近では植物にさえ、感情があるのでは、とも言われているのだ。 これを、仏教観で「業」という。
人類皆同罪。
「戦争反対!」と叫んでも、自分自身、何故か説得力がないように感じる原因はそういう事があるからだろう。
人間は、原始時代にくらべて、大きい火(核やその他のミサイルなど)を、持ち得てしまった。
そして、現状を見る限り、もう後戻りできない。
滅びるかどうなるかまでは解らないが、既に知恵を以ってしても、争いを抑えることが不可能なのは目に見えている。
だから、なにか根本的な人間のしくみが進化しなければ、無理なのだと思う。
もしくは、退化とか。「エデンの園」にいたころの人間は、知恵の実を食べていないから、ようするに、知能が低かったわけである。
聖書においては、知能不足の人間のいる世界が、楽園ってことなのではと。でも、それは過去の事。
科学的に言えば、猿人のころの人類を指しているのかもしれないから、やはり後戻りはできない。
私は、「ヨハネの黙示録」みたいな、新しい人類観は、納得できないけれど、
もっと、違う「欲望」を持ち得ない形での、人の革新があれば、とは思う。
人間の生理的な部分や、肉体的行動原理が進化すればと思っている。
まだそこの所は、感覚的な部分で感じているだけなので、
言葉では難しいけれど、ようは、もっと根本的に進化しなければ、いつまでたってもだめだなと。

***

真実に直面したとして、それを受け入れる事は、実に勇気のいることだが、
受け入れないと、前には進まない。
受け入れなくてはならないのだ。
何故ならば、真実だから。

***


詩人には、経験した事がない出来事でも、解ってしまう所が多々ある。
それは、生半可なものではない。
経験してないから、お前には解らないだろう、と言われても、解ってしまうからタチが悪い。
ただ、千里眼にも、その限界はあるが。

***


花の名を、詩に取り入れる時、その花の名を出す事によって、イメージが限定されてしまう。
花の名を出すのならば、作品中の役割を、かなり気を付けなければならないと感じる。

***


天才・・・、この無限の魂を救うには、無限の時間が必要かもしれない。

(映画『グレン・グールド』を観て)


***

元々、私は自分が読みたいと思う、詩がないのならば、自分で作ってやろうとは思っていた。
ただ、私にとっての詩作は、出来てしまったという結果だった。
そして、詩集に収められている詩は、そのほとんどが、インスピレーションに満たされて、
出来上がったものだから、自分が書いたという意識がないのである。
そのなかでも、もちろん理性が働いてはいるが、その比率が問題である。
昔は、感性10割だった。
その時は、言葉が詩になりえなかった。表題作「アフリカ」を除いて。
ある、きっかけから、感性5、理性5ぐらいになって、書けるようになったが、
それにしても、書いている時にどんな意識で書いたかは、覚えていない。
インスピレーションで思い浮かんだ言葉は、すぐに書いておかないと忘れてしまうのに似ている。
ゆえに、自分の詩でも、他人が書いた詩のように、冷静に見る事ができ、
他人が書いた詩のように、読んでいて楽しめたりする。
けっして自画自賛や、ナルシストという事ではない。
自分が書いたという意識が、あまりないからである。
それは、ちょうど男親のように、自分が子供を生んだという実感がないような事かもしれない。
それでも、自分の子供は、かわいいからである。
そして、私が詩集を出したのは、別に後世に名を残したいとか、そういった卑しい気持ちではない。
ただ単に、自分の子供のような詩達の感想を、他人から聞きたかっただけである。 


***

誰もが、辛いのは同じ。でも、決して口に出したりはしない。
例えば、私の友人なんかも、私に泣き言など、もらした事は、一度もない。
皆、辛くとも、だまって頑張っているんだ。

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窮地に追い込まれたら、更にとことん自分を窮地に追い詰めろ。
窮地なんて、意外と安全なものだ。偶然の方が、恐ろしい。
時には、逃げる事も大切だが、逃げたらまた窮地に戻る事だ。
そうしないと、いつまでたっても、自分を超えられない。
開き直りは、自ら成長を止めているようなもの。

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自分を超えてみるといい。
それは、辛く、苦痛を伴うが、
今まで、見えなかった世界が拓ける。

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相手を認めてしまえばいい。
楽になるし、発展もする。

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自分が知っている事は、いくらでも言える。
知っているからだ。
私は、自分自身すら知らない事を、言ってみたい。
無理だとしても、なんとか、表現したい。
それが、詩だと感じるのである。

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偶然の一致をあなどってはいけない。
それはすでに、人間の知性や分析力を超えている。
だが、神の意志とか、御心によるものだとは、思わない。
歴史である。

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人の人生における価値観は、だいたい二つに分かれる。
大金を稼ぐ企業家か、芸術家である。
前者は一応、人生の成功者と言われるが、後者は言われない。
特に後者、芸術家は、生きているうちに、作品によって、金が入れば、そうでもないが、
金が入らなければ、たいてい、金にもならない事をやってなんになる、と非難されたりする。
ごもっともである。が、そうであっても、芸術家に憧れる人も多い。
本当に芸術が好きならばいいが、中にはうわべだけで、ブランドのように、芸術作品や芸術家をもてはやす人もいる。
前者、企業家や社長に於いては、やはり、なりたい人は、沢山いる。
人を動かし、金を動かし、あるいは世界を動かしてみたいとも、思う筈だ。
つまり、極端に言うと、社会的成功者になりたいのか、天才がいいのかとなると、
人それぞれの価値観によって異なるという事だ。
なんでも、天才というと、誰もが憧れたり、芸術こそすべてだ、とする傾向があったりするが、
なんのことはない、冷静に世の中から見れば、その価値は簡単に揺らぐものなのである。
私がどんなにいい詩を書いても、私の好きな人が、詩は嫌いで、企業家のほうに、
その人間の価値を見出すならば、詩が上手くとも、その人にはなんの価値も無いのである。
私は芸術家でもないし、天才でもないが、詩作などをやっていると、やはり普通の人とは、
感覚が違うという事を思い知らされる。たまに、詩を書けて羨ましいとも言われたりするが、
私に言わせれば、普通の感覚を持っている方のほうが羨ましかったりする。
社会的な適応力は、明らかに私よりズバ抜けているし、なによりも、この世の中で、生きやすいと思うのである。
苦悩や悲しみにさいなまれるよりも、華麗なる人生を送れるような気がする。これは、才能である。
けれど、企業家になりたいとは思わない私なので、隣の庭は良く見えるという事なのかな・・・。

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自分の作品を解説する事に関して。
かつて、黒澤明が、「アンドレイ・タルコフスキーが、自分の作品解説をしない所が好きだ」
などと言っていた。
しかし、黒澤の作品は解りやすいが、タルコフスキーのは、後期になる程、解りづらい。
私も、タルコフスキーの表現したい事は解るが、やはりある程度のとっかかりぐらいは、
説明してくれてもいいのではと感じる。
佐野元春氏は、人に「佐野さんは、自分の作品を解説しすぎる」と、よく言われるそうである。
確かに、まるっきり荒唐無稽、手掛かりすらもない、というのでは、人に作品を見せる必要など無くなる。
それこそ、自分にしか解らないからだ。
私は、少しでも「作品を解ってほしい」という、ただそれだけである。

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これは、作家同士での話しだが、
人の作品にフックした時、そのいいものに対して、ひたすら尊敬していければ、それでいい。
人の作品の批判というものは、作家の上前をはねる評論家などに、
任せておけばいい事で、例えば、ライバルがいれば、確かに創作意欲は湧いてくるだろうが、
それによってしか、いい作品が出来ないのであれば、その作家はそれまでのこと。
無意識に作品を作れ、更に意識的にも、いい作品が作れれば、ライバルなど必要なくなる。
結局、芸術とは自分との闘いなのだから。

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こうしてみると、シュルレアリスムというものは、何か?
となると、結局、「ランボォかロートレアモンだ」という所に行き着くのでは。
例えば、サイバーパンクとは何か?
 となると『ブレードランナー』的なものが、サイバーパンクであるとしか、言えないのだという。

そうであったとしても、ある程度の「定義」というものは、
やはり存在するわけで、ちくま文庫の『シュルレアリスムとは何か』を、
読んでいると、あながち、僕のシュルレアリスムに関する解釈も、間違っていないようだ。

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争いに目を細めるよりも
海と緑に目を細めたい
一輪の花があれば なお いい

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若いから分からないのだ。
老いと経験もまた、若人には到底、敵わない財産である。

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わたくし、以前から、歳を自覚せず、「自分はまだ若い」などと言っている人を、
みっともないと感じていたが、それはそれとして、
年齢に逆らわずに、ヨボヨボで老齢期を過ごすよりも、
溌剌として過ごしたいと考えるようになった。
若き日に、体を鍛えるのはいい。
ならば、歳をとってから体を鍛えるのも、またいいのでは。
年老いても、元気に過ごしたいものだ。
それにはやはり、日々体を鍛えねば!

「いまこそヘラクレスの時代である!」
by寺山修司

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難しい言葉で、詩や文章を書くのは、むしろ簡単である。
さも、それらしく見えるから。でも、それでは伝わらない。
ま、たまには一つぐらい、そんな詩を書いてもいいかなとは、思うけれど。
いつも、そればかりでは不毛です。

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「過ぎ去る一切は比喩にすぎない」のならば、
今この瞬間の刹那においても、そして、未来においても、
すでに「物語」は、始まっているのだ。

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女性は鋭くも優秀な心理学者である。
男はかないませぬ。

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人間のする行為。

たとえそれが、遠くはなれていても、同じ人間ゆえ、同じ世界に生きているゆえ、
突き詰めてみれば、否が応でも繋がっているのだ。
自分はそんな事には反対だと言っても、辿り戻ってみれば、
あらゆる他人の行為に於いても、小さな事からすでに、自分個人が加担している。
2003/3/20

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佐野元春の「ロックンロールナイト」を聞いていた頃は、十代最後の年だった。
ティーンエイジ特有の不安と絶望感に陥っていた僕は、夜の代々木公園近くを、あてもなく歩いていた。
歩道橋近く、アマチュアバンドが「ロックンロールナイト」を、路上で演奏していた。
暗闇の中、聞こえてきたロックンロールナイトは、その時の僕にとって、ひどく象徴的だった。
SOMEDAYの復刻版が出る事を知り、あの頃の事を思い出す。


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88年に、シングルカットされた横浜スタジアムミーティングでのLIVE版「ガラスのジェネレーション」と「ダウンタウンボーイ」。
本格的に佐野さんの曲を聞くようになって、まだ日が浅かった私は、このシングルCDをなにげなく買った。
「ガラスのジェネレーション」は、美しいスローバラードになっていて、自分の作品をアレンジしてしまうのか、と驚いた。
そして、次に流れてきた「ダウンタウンボーイ」。
繰り返すが佐野さんの曲を聞き始めて日の浅い私。
最初、何を言っているのか判らなかった。およそ、人間のしゃべる言語ではないと感じた。
そして、今、何かとてつもない事が、起こっているのだと興奮してきたのだった。
物凄い疾走感!
聞き終わった後、なるほど、これがロックンロールか! いや、これこそがロックンロールなのだと実感した。
この演奏を、誰が超えられようかと思ったが、すぐに答えが出た。
佐野元春を超えられるのは、佐野元春でしかないと。
まさに、身をもって、ロックンロールというものを、教えられた曲だった。


***

80年代は佐野元春だった。90年代はジュディ&マリー。
さてさて、2000年代は誰か?
もう、現れているのか?

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小林秀雄と同等、もしくは小林を超えたら、評論家として認めてもいい。
まあ、無理だな・・・。
今のところ、吉本隆明でも役不足。

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「文学界は音楽界より、十年は遅れている」
と、どこかの評論家が言っていた。
評論家って、作品評論以外だと、いい事言う

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人の革新。 例えば、ネアンデルタールからクロマニヨンに、進化した時。
ネアンデルタール絶滅時期より少し前に、クロマニヨンは出現している。
ネアンデルタール人は、クロマニヨン人を目撃しているのだ。
今のホモサピエンスにとってかわる、進化した人類が現れたとするならば、
私は、その「人の革新」の瞬間を目撃したい。

***

人は元々バランスが悪く生まれてくる。肉体と精神のバランスを整えるのに、
どれほどのエネルギーを費やした事だろう。
進化。 もし、新たな人の革新がもたらされるならば、
今度は、バランス良く出現してほしいものだ。

***

人類の進化に於いて、何故、人は強靭な肉体よりも、
知能の進化が促されたのか・・・。
それは、その頃の人類の共同意識下で、
より高い知能を求めたからではないだろうか。
食料や環境の変化も一因だろうが、
人は強く望めば、変わる。流れもそれに沿って動かされる。
それが世代を重ねて、最後は進化につながれば、
それこそが、新たな人類の出現となるのかもしれない。

***

野生を制御できるのは、理性しかない。
理性を超える事ができるのは、野生しかない。

***

知っている事は、知っている。知らない事は、知らない。
が、
一を知って百を知る時もある。
が、
知らないものは知らない。

***

詩とは、何だ? と聞かれたら、
「表現だ!」と答えるかな。
詩とはあなたにとって、何だ? と聞かれたら、
「人生の意味だ!」と答える。

まあ、「人生の意味だ!」と、キッパリと言える資格は、まだまだありませんが。


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