中原中也  「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ」

 「青山二郎が語る中原」
青山二郎という、人がいた。皆にじいちゃんと呼ばれていた。
肩書きのない人だが、陶芸、絵画、文学、それぞれに精通していた人である。小林秀雄をして、「僕達は秀才だが、あいつだけは天才だ」と言わしめた人である。
大岡昇平、河上徹太郎、永井龍男などが、彼のもとに集まり、後に「青山学院」と称するようになる。
その青山二郎に、中原が詩を見せに行った時のエピソードである。
中原の詩を読み終えた青山は一言「あんたの話しは面白いが、詩はそうでもないね」
中原はカンカンに怒って、帰ったそうである。

そして、小林秀雄とも、似たようなエピソードを持っている。
新しく出来上がった詩を、小林に見せに行った時の事である。
暫く読んだ後、小林が「上手くなったね」などと言うものだから、「上手くなったとは何事だ!」と、これまた帰る道中、カンカンになって怒っていたそうである。中原にしてみれば、「お前と会う前から、すでに上手いんだ!」という感情だったのだろう。
思うに、二人とも中原をからかったに過ぎないのだと感じる。青山はともかく、小林の中原に対する話を聞くにつけ、「詩では、こいつにはかなわない」と、思っていた節があるからだ。ただ、青山にしても、中原の詩集『在りし日の歌』の装幀をして、当時どこも出版をしてくれなかった中原の詩集の出版社を、探し回ってくれたぐらいだったから。
青山の中原に対する追悼文は、小林もそうだが、感情的でやさしさに満ちていた。
その追悼文中、ここで青山は、当時、中原に話せなかった(すでに死んでしまっていたから)出版事情を述べた後、中原が今も生きていたら、という回想のもと、会話形式で、こんなふうに書き記している。
・・・
「ざっと、まァこういふ訳だったが、此度創元社から君の全集が出ることになった」
「さうだろう」
「これも何年越しの話だ」
「いゝ本を作ってお呉れ」
「さうもいかないらしいが、七千刷るさうだ」 これには中原も驚いた様子だった。
「何冊になって出るんだね」
「詩集一冊、評論日記一冊、書簡断章一冊」
「書簡集が出るかね、凄ェなア!」
中原は例の、蜂にさゝれた様な顔をして、まばたきもしないで笑った。
・・・
実際に付き合いのあった人間が、思い起こした想像会話だけに、中原は、こんな話し方をするのか、という事も窺い知れる。

小林秀雄は、その活動期に於いて、「小林太陽系」と言われたぐらい、その影響力と、文壇に於ける地位は、確固としたものだった。そういう立場からも、中原に対しては、社会的地位も上になっていた自分というものを、意識せざるを得なかったというべきだろう。その太陽ともいうべき小林にとっての、黒点のような存在が中原だったように思う。
後に、中原の生前、会えば取っ組み合いの喧嘩ばかりしていた大岡昇平が、戦後、対文壇に於いて、中原を擁護する戦いを繰り広げ、いつのまにか自分が太陽、或いは文壇のトップになってゆくのだが。

ここで、太宰とのからみを話したいのだが、その前に中原の性格については、書いておかなくてはならない事情がある。とにかく、酷いのだ。
たぶん、知らないと太宰があまりにも苛められているので、何も中原の性格を知らない太宰のファンが読んだら、ショックを受けてしまうだろう。
青山二郎の追悼文中にも、その性格が顕著に描写されている。
京橋近くに、青山の奥さんの弟夫婦が経営していた「ウィンゾアー」という酒場があったのだが、丸一年ぐらいしか続かなかったそうである。宵の口に来て、中原が毎晩頑張っているので、誰も寄り付かなくなったからである。中原がここでよく喧嘩をしていたからだが、喧嘩を仕掛けて殴られるのは、いつも中原の方だったという。
青山は、「一人の詩人の為に一軒の酒場が潰されたのは(そんな呑気な時勢にも寄るが)酒場の主人夫婦といふのが音楽家だったからで、詩人を理解しようとしなければこういふ事は起こる筈もない。友達との喧嘩口論も言ってみればそんな風なものだった。だから、中原は理解されなかったとか、生きている中は一つも評価されなかったとか言ふのは、対世間との問題で、当時の中原を知らない言ひ方である。彼は誰よりも、威張りくさっていたし、自由自在に振舞っていた。認められなかったのは中原ではなくて、寧ろ中原を殴っていた友達の方である。友達は酒場の主人夫婦の様に中原を理解しようと努めたし、理解しているのに、中原はそんなものを認めることが出来なかった」と綴っている。
更に青山は中原を知っている友達は、中原が一年や二年、毎日やって来たと話す。
「これは当時、中原に限ったことでもないが、それにしても彼ほど人を訪ねるのが好きだった男も珍しい。人を訪ねるだけでは足りないので、酒場に行ってみんなに会ひたがる。五日にいっぺんは銀座に出たがる。 当時私は赤坂にいて、中原の知っている仲間が、日に十人位づつ来ない日はなかった。ウィンゾアーが潰れて、その余波が私の所に来た様なものだった。中原は私の家に来て、それらの仲間と片っぱしから喧嘩口論するので、だいぶ人が来ないようになった。その頃から酒場は『エスパニョール』に行くやうになって―――赤坂から『エスパニョール』という風に、人が行ったり来たりしていた。中原は『エスパニョール』でも喧嘩した。浅草に行くと浅草の待合でも喧嘩した。相手がいないと妓をなぐった。そんなら酒場にも待合にも行かなければいい訳だが、中原の行きたさうな顔を見ると、とても断り切れたものではない。中原と一緒に行くと誰か迷惑するので、それだけが私の頭痛の種だった。 こういふと何だか中原一人があばれ者の様に聞こえるが、決して中原一人があばれていた訳ではない。しかし、外の連中は若気の至りといふ共犯の中に、自然に許し合った約束があって、その点で一晩飲み明かしても喧嘩にならず、飲み終われば銘々の家に帰り、銘々の生活に帰ったのである。ところが此の辺が、中原のは総てあべこべだった。それは中原が、何時でも自分で背負って帰らなければならない、苦しい負担だったに違いない。誰が悪い訳でもないのである。河上は口をつぐむことで、大岡はゲンコツで答へることに決めていた。中原自身のさういふ苦しいものが詩の中にある。この点を誤解されずに中原を描写することは、こんな狭い場所では出来兼ねる芸当である。 だが、人は中原に関係なく、中原には親切だった。そんな事は中原が知らなくてもいいのである。彼の葬式に五十人近い友人が集まって、彼の母親と女房と一人の女友達を驚かした」
ここで青山が言う、「中原が何時でも背負って帰らなければならない苦しい負担」とは、社会的かつ簡単にいうと、働く為の生活が中原には無いという事と、普通の人より働く事への苦痛が中原にあり、それが中原自身にも、どうにもならない精神的負担であった、というように考える。
収入は、実家から、当時のサラリーマンよりも多い仕送りのみであった。後年、中原の母は、中也の一生に於ける仕送りで、中原家が食い潰されたと漏らしている。
中原はたぶん、働くと詩が書けないという気持ちは無かったと思う。「働きたくない」それだけだったのだろう。これは詩人の本能というか、持って生まれた「やるせなさ」に起因しているものではないか。
多分に本物の詩人を目の前にしなければ、語り切れない事なのだが、中村稔が、大岡昇平との対談で、面白い問い詰めをしている。
「大岡さんは富永太郎と中原中也しか、詩人として認めていないのでは?」
この問いに対して大岡は、
「いや、僕だって中原と富永を知る前に、萩原朔太郎にイカれたこともありますし、島崎藤村から高橋新吉に至る有名な詩人は、一応読んだんですけれども、中原を知ったのは十九歳の時で、詩人という人間と付き合ってしまったということですね。それが私の、詩と詩人の見方を、偏ったものにしたという事は認めます」と、話している。
その大岡と中原が青山の所で鉢合った時の事である。大岡は、酒場の女を連れていて、中原は奥さんと一緒だったのだが、その時は一対一で、女性陣は青山の所にいた。青山は咄嗟に大岡の女に耳打ちして、三階に居た中原の奥さんを呼んで来させた。
中原は、自分の普段の一面を、奥さんに見せた事がなかったので、この不意打ちに酷く面喰らったそうである。その怒りで大岡の女の背中をどやしつけながら、女房を呼ぶとは何事だ、と叫んだ。大岡は大岡で、よくも俺の女をどやしつけたなと、手に負えない状況だったという。
ここで、青山が語った事に、これは重要な事だな、と思った事がある。
「ここで中原ではなく、奥さんの事を書いたのは、中原の女性に対する愛情が、彼を更正させていたからである。下駄屋も詩人も区別することなく、亭主だから亭主にして、女房だから女房になった、こういう女性に結ばれた時期を中原は愛している様子だった」と。
ちなみに、中原の奥さんは、中原の母親が親戚から世話したものだった。当時、中原家は豪家で、母親が息子の嫁に行ってくれと言ったならば、それは命令のようなものであり、従うしかなかったという。
なるほど、中原はかつて芸術を実践していた女優、長谷川泰子との関係に於いて失敗している。今度は、詩や芸術なんぞとは、まるで関係ない女性との生活である。それはある意味、苦悩というものから、かけ離してくれたものだったのかもしれない。
その他の被害者として、中村光夫は中原に会った早々、ビール瓶で頭を軽く殴られた。その後、会った時は首を絞められたが、喧嘩にはならなかった。中村光夫にとっては何でもないことだからだという。

 「わたしの中也さん」 曽根冨美子編
曽根冨美子。漫画『含羞』(はぢらい)の作者である。中原の伝記漫画なのだが、彼女の描く中原像には驚かされた。これぞ中原! というものだからである。けっして、中原像をカッコよく脚色せず、ありのままの中原を描いている。
例えば小林が盲腸になった時も「盲腸炎じゃあ死なないな」と言って、見舞いに行かなかったりする冷たさ。
そして、中原が富永太郎の臨終の時に訪れた描写だったりする。富永は結核を患っていたが、訪れた中原は血の色を見たくないからとサングラス、そしてうつるのが嫌だからとマスクをしている。この剥き出しの恐怖心こそ、詩人の、否、人間の普段は根底に隠している、卑怯さと弱さというものを、中原という詩人を通して表現していると感じる。
作者の描く中原は、第一話でいきなり「幸福ってやつを知っているかい?」と、小林秀雄に語りかける。
「お前が文章書くのも、俺が詩をうたうのも、心の底で幸福を探しているからなんだよ。あくせく働くのも、旅に出るのも、悩んだり笑ったり、人生について考えたり、悲しみにうちひしがれるのも、心の底で幸福を求めているからなんだ。人は生まれたての赤子の時から、幸福になりたいと願っているんだ。人はただ、それだけを求めて生きているんだ。その事に気づいているやつがどれだけいるか・・・」
私は詩を書く事に、果たして幸福を求めているのかは、未だに中原の言葉を以ってしても、自分自身よく解らない。それは、中原の詩が「悲しみ」に満ちているという、中原の詩に出会ったばかりの、いきなり襲い掛かってきた印象から脱却していないからかもしれない。たとえ、私が脱却したとして、中原の持っていた「悲しみ」は消えはしまい。今の私は逆に詩を書く事がつらい。だが、小林に出会った頃の中原は、そう考えていたとしても不思議とは思えないし、突き詰めていくと確かに詩人でも、人間でもそうなのかもしれない。
しかし、その話とは裏腹に、中原はその後、恋人、長谷川泰子を小林に奪われてしまうのだ。後年、小林は、珍しいともいえるその感情的な追悼文に於いて「この忌まわしい出来事が、私と中原の仲を目茶目茶にした」と書いている。
長谷川泰子が中原のもとを去る時、中原は荷造りを手伝い、一緒に小林の家まで運んだ。
「いかに泰子いまこそは! 静かに一緒に降りませう・・・。そこはかとない気配です」 
作品中で使われている「わたしの中也さんは、・・・」という台詞の主こそ、中原の三つ年上の同棲相手、女優でもあった長谷川泰子のものである。その台詞の後のひとつには「いつも私を泣かせる為に詩を書いているのね」と言って、中原の詩を読んで泣いている長谷川泰子の描写がある。ちなみに、中原は自分で自分の詩を読んで泣く事もあったという。

 「曽根冨美子の小林秀雄観?」
作品の中で、曽根冨美子描く中原が、小林秀雄に対してけしかける。
「お前は批評家になれよ。お前ほど人を愛する人間はいないからな。だけど、お前は人を救えないぞ。お前は人を信じちゃいないからな。だからお前の文章じゃ人を救えないんだ」
中原は続ける、
「おまえは何も信じちゃいない。おまえ自身が今の日本の文化そのものなんだよ。おまえの文章から滲み出てくるものは、今の日本の文化の衰退だ!! あー、こーんなことも、あーんなこともわかっちゃいないんだと、日本人にわからせる文章なんだよ、おまえのは。それだけ、今の日本の文化なんてものはないものと同じだ! それを今の日本人にわからせてやれよ! 一生涯かけて、おまえ自身の姿で、日本の文化の衰退を、みんなに思い知らせてやれ! 容赦するなよ!」
この頃の中原は、といってもかなり後々まで、いずれ長谷川泰子は自分のもとに帰ってくると信じていた。そして、頻繁に小林宅へ通い、長谷川泰子と会っていた。だからという訳でもないが、暫くして、小林は長谷川泰子を残し、京都へ逃げてしまう。結婚を迫られたからだ。今度は中原の女よりも自分を選んだ。
京都では、だいぶ性格を温厚に脚色された大岡昇平と酒を飲み、酔っ払って愚痴をこぼしている小林の場面が描かれる。事実上、長谷川泰子を捨て、中原の悪口を叫びながら落ち込んでいる小林に、大岡昇平が言う。
「いいやないのォ、人を好きになったんやから・・・」

すでに、絶版となってしまったこの作品。今読み返しても、自分なりに、知らず知らず影響を受けていたようであるが、中原中也に影響を受けたのか、曽根冨美子氏に影響を受けたのか、解らない程である。「魂の中原」を見せてくれた、稀なる伝記芸術作品であった。

 「壇一雄が語る中原と太宰」
壇一雄、『火宅の人』の作者、壇ふみの父親でもある。
その壇一雄の家で、中原と太宰が会っていたようである。中原は曽根冨美子氏の漫画中でも言われていたように、「お前の性格の悪さを、世間が忘れた頃に、お前の詩は売れるだろうよ」と描写された程、性格が悪い。だから、太宰もひどく中原を嫌悪していた。だがしかし、それでも近づいてしまう祈願のようなものがあったという。そして、会うのを嫌がる時には、本当なのかどうかはいざ知らず、「中原と付き合うのは、井伏さんに止められているんでね」と、言っていたそうである。
中原中也の生まれが1907年、太宰治が1909年、井伏鱒二が1898年である。壇一雄の文を読むまで、中原と、この二人が関わっていたとは知らなかった。
それはともかく、壇一雄が分析した、太宰の方から中原に会う理由とは、よく解る話である。
私も経験はあるし、誰でもあるのかもしれないが、何故か会うと不愉快になるのに、また会いたくなる人物とは、稀だがいるものである。だが、それは自分に原因があると私は考える。それも、冒頭の壇一雄の分析によって気づかされたものなのだが、どうも自分に持っていない世界を持っている人、或いは知っている人に、憧れに近い感情を持ってしまうからなのだと。そして、特に腹が立つような事が無かった時でも、不思議な事に、会った直後はもう二度と会いたくないと思うくらい、何故か精神的に打ちひしがれてしまう。
ようは自分の持っている世界観というか、自我というものが、その相手とは決定的に相受け入れないからである。
太宰は中原のようにはなれない。中原は表面的には強いが、内面は太宰のように繊細である。ある意味、中原は太宰になれる。太宰はどちらも弱々しい。いい意味でも悪い意味でもそうである。別に中原のようにならなくてもいい訳であるが、当時の太宰は無意識に、中原の持つ攻撃的な面に憧れを見出していたのではないか。自分とは違う中原に。
だが、この場合、自分の方向性をしっかりと見出してさえいれば、もう中原に会う必要性は無くなる筈なのである。

それでも太宰は中原に会う。実際、太宰は井伏鱒二から忠告を受けていたとしても、守ったためしがなかったという。太宰は付き合い上の悪友は拒まなかったらしいが、中原の酒席での壮絶な絡み酒には、耐えられなかったに違いない、と壇一雄は言う。
壇一雄曰く、太宰は中原を尊敬しなければいけないように、自分で思い込みながら、中原を嫌う。それは、太宰の自惚れと虚栄心が脅かされるからだと。
ある寒い日の事、中原と草野心平が、壇一雄の家にやって来て、ちょうど居合わせた太宰と「おかめ」という店に飲みに行く。
初めのうちは、仲睦まじげにしていたのが、酔いが廻るにつれ、中原が絡みだし、「はい」「そうは思わない」などと、しきりに中原の鋭鋒を避けていた。しかし、太宰は中原を尊敬していただけに、いつのまにかその声は、甘くたるんだようになり、「あい。そうかしら?」そんなふうに聞こえてくる。
中原が「なんだおめぇは。青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって。全体、おめぇは何の花が好きだい?」
太宰は泣き出しそうな顔になる。
「ええ? なんだいおめぇの好きな花は?」
太宰は断崖から飛び降りるような思いつめた表情で、甘ったるく今にも泣き出しそうな声で、
「モ・モ・ノ・ハ・ナ」
言い終わり、愛情、不信、含羞、拒絶と、なんともいえないような、くしゃくしゃな悲しい薄笑いを浮かべながら、暫くじっと中原の顔を見つめる。
「ちぇっ、だからおめぇは」と、中原の声が肝に響く。
その後はいつものごとく、ひどい乱闘があり、壇一雄も頭に血が上って、大きな丸太を一本持ち、中原と心平氏が来たら、一撃の下に脳天を割る腹づもりだったらしい。太宰はいつのまにか、姿を消していたという。幸いにして、両者は別な道で帰ったらしく、事なきを経たが、壇一雄も何故そんなにまで興奮していたか、思い出せないという。
二回目に、太宰と中原とで、酒を飲んだ時も、太宰は中原から同じように絡まれ、途中から逃げ帰る。この時は、草野心平が居なかったせいか、ひどく激昂して、檀一雄が「よせ、よせ」と言うのに、どうしても太宰の所に行くと言ってきかなく、二人連れ立って太宰の家に行く。

雪の夜だったという。

中原は、
 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくらく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
と、宮沢賢治の詩を口遊んで歩いていた。
太宰は当時、東京日日新聞記者・飛島定城の所に住んでおり、二人は飛島家の門を叩いた。
が、太宰は出てこない。
すると、同棲していた小山初代が降りてきて、
「津島は、今眠ってますので・・・」
と、言うやいなや、
「何だ、眠っている? 起こせばいいじゃねえか」と、勝手に小山初代の後を追い、二階に上がり込むといった有様。
「関白がいけねえ。関白が」と大声で喚いて太宰の枕元を脅かしたが、太宰はウンともスンとも言わない。
あまりにも狂態が激しくなってきた為、壇が中原の腕を掴むと「何だ、おめえもか」とその手を振り解こうとするのだが、中原は子供のような大きさである、すぐに外に引きずり出された。「この野郎」と中原は壇に喰ってかかったが、雪道の上に放り投げられた。
「わかったよ。おめえは強え」中原は雪を払いながら、恨めしそうに言ったそうである。
それから娼家に泊まって、朝になると、雪は雨になっていて、道すがら中原は、
 汚れつちまった悲しみに
 今日も小雪の振りかかる
と、低吟して歩き、やがて車を拾って、河上徹太郎の家に行ったそうである。




引用文献:河出書房新社『中原中也』 講談社『含羞』


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