〜序文〜    2003/11/2 http://watashiwatsubame.sakura.ne.jp/

中岡慎太郎と坂本龍馬の暗殺事件については、以前から書いて置きたかった。何故なら常に坂本龍馬よりも、中岡慎太郎の扱いがぞんざいだったからだ。龍馬暗殺については、ある程度の説を私は持っている。最初に言ってしまうが、この事件は、「龍馬暗殺」というよりも、「中岡暗殺」の方が色濃いのである。ゆえに、中岡の無念さも、特に取り上げたいという心情になる。
ただ、その証拠ともいえる証言や、各、物書きさんの説を検証してゆく過程で、文章としてのまとまりが困難になる恐れがある。
故に、こういう連載方式なら、その日その日に、掻い摘んで書き込んだとしても、日々、全体的に直してゆくという事が、気軽に出来ると考えた。であるから、これを読んで戴いている方々は、時に、全体を読み直さなくてはならなくなる場合もある事と思う。前半に書いていたものが、中盤に現れたり、書き直されたりしているかもしれないからだ。
追々、新しい証拠が出てきて、説自体を訂正していく事もあるだろう。
以下、私の書き込む説は、あくまでも素人の考えた説(単なるお話である)に過ぎないが、巷で同じように龍馬暗殺を唱えている物書きさんの説を踏まえつつも、更に核心へと迫っていくものであるという自負はある。



中岡慎太郎と龍馬暗殺

まず、中岡慎太郎とはどういう人物だったのか。簡潔に述べさせてもらうと・・・。
天保九年(一八三八)四月十三日、高知県安芸郡北川郷の大庄屋、中岡家の長男として生まれた。身分は大庄屋であるが、幕末に於いて倒幕派の志士として活躍する。ちなみに龍馬は、土佐藩郷士。この郷士というのは、武士社会では下級の位の武士である。商売も許されていたので、ある程度は龍馬も裕福であった。が、商売もできるので、上級武士(上士)からは、蔑まされていた。後に二人とも、土佐藩を脱藩する。
犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の仲を取り持ち、龍馬とともに、当時、誰もが無理だと思っていた薩長同盟を結ばせた男である。そのきっかけは中岡の方が先に作ったともいえる。後、龍馬が亀山社中を経て海援隊を組織し、中岡も陸援隊を組織統率する。
ただ、中岡は龍馬と違い、武力によって倒幕せしめる強硬派であったが、龍馬に説得され、柔軟な姿勢を示す時もあった。その矢先、慶応三年(一八六七)十一月十五日、龍馬と共に、京都の近江屋にて暗殺される。
墓は同じく、龍馬と共に京都、東山にある。
その全体像ともいえる話の流れは、漫画『お〜い!竜馬』がお薦めである。こちらは、一貫して「竜馬」という字を使っている。ある意味、「薩長同盟」が、クライマックスだったとも言えるが、後半に進む程、史実に忠実なのが見てとれる。特に暗殺の場面は、「絵の力」を、思い知らされた。

 「無駄という時間のない人」 (学研)歴史群像より
中岡の家で、行儀見習奉公した祖母から、慎太郎の話しを聞かされて成長した古老は、次のように語っている。
「中岡先生は、ひと時も無駄という時間のない人であった。例えば、秋の刈り入れの時、夕方に所用から烏ヶ森を越えて中岡先生が帰って来ると、百姓達が稲の取り入れに追われている。先生はそれを見ながら家に帰り着くと、稲ざす(天秤棒)を持って、すっと手伝いに行くといった人であった」

 「『時勢論』に於ける中岡の先見」 (学研)歴史群像より
文久三年、九月五日、慎太郎は、土佐を脱藩し、三条実美と面会する。倒幕の為の行動を起こす為である。
薩長和解を龍馬に語り、西郷や長州藩の同志を説き、桂小五郎にも面会するなど、精力的に東奔西走していた慶応元年十一月二十六日夜、『時勢論』を書き上げる。
何の為の攘夷か、何の為の倒幕か、例を古今に求め、薩長の天下を予言した一篇となっている。
「今から後、国を盛んにするのは、必ず薩摩と長州である。自分が思うに、天下が近日のうちに、この二藩の命に従うようになるのは、ちょうど鏡にかけて見るようなものである」
と、早くも王政復古後の薩長藩閥政権を、断言している。
そして、慶応二年十月二十六日夜に、『ひそかに示す知己の論』を書く。
この中では、三十八年後の日露戦争や、七十五年後の日米開戦までをも予測しているかのような、驚くべき内容をしたためている。
「今時、恐るべきはロシアである。虎狼のような心を包み隠し、数年この方、大兵を養い、国費を蓄え、石炭を用意し、諸国との交易を心にもかけず、もし彼の政策を以って立たしめるならば、必ずや突如として侵略し、その恐れがあるのは、我が国を以って甚だしいとす」
「只、ロシアだけでなく、中国がこれに次ぐ。英国やフランスも危ない。ロシアだけでなく、アメリカも同様に恐るべき所がある」

当時、慎太郎が、ここまで世界事情を予見していた事は、驚愕に値する。
国内的には、慎太郎曰く、過去のあらゆる歴史を紐解いても、無血革命など、有り得ない。戦わずして、革命が成功した例など皆無なのだ! となる。奇しくも、龍馬が存命していた時は、大政奉還で無血革命が成功し、龍馬死後、勝海舟にして、江戸城無血開城を取り計らったかに見えたが、鳥羽・伏見の戦いしかり、戊辰戦争しかり、結局、慎太郎の言うように、血が流された。

これから、暗殺事件の謎を追うにあたり、予め断っておかなければならない事に、私のように「中岡暗殺」といっても、資料が結局「龍馬暗殺」の関係本ばかりである事を、了承願いたい。話しは「龍馬暗殺」で進まざるを得ない。
それと、第一級資料として、『坂本龍馬関係資料』というものがあり、私は手に入れてないのが、弱みでもある。
以下、事件を描いた推理本で、ネックになるものを、一つずつ拾い出し、検証してみる。そして重要な所には、後になって確認する時、分かり易いように、青字にしておく。
ただし、その証拠や証言といったものが、後々の研究により、間違いであったりする事もある。それにしても、私の説は、それらを結ぶ一本の太い糸に成り得るものではある。

 「今井伸郎とその孫」 (新人物往来社)『龍馬暗殺の謎を解く』より
今井伸郎(のぶお)という人物がいた。会津藩の京都見廻組与力頭であった。どの本にも必ず出てくる人物である。当初はこの今井が、龍馬を斬ったとされていたが、最近では、同じ見廻組の小太刀の名人、桂隼之助という説が濃厚とされている。その隼之助が龍馬を斬ったとされる刀も、真偽はともかく見つかっている。
では、暗殺を指図した黒幕は誰か? という事になる。皆が謎としているものである。
この本の冒頭を飾る「今井伸郎説」には、その孫の今井幸彦氏という人物が書いている。どうもこの人、よほど自分の祖父を「龍馬を斬った男」にしたいらしく、文章は一番読みやすいのであるが、証拠を顧みずに、他の説を取り上げない所が弱い。
今では、裁判の供述通り、今井は事件のあった近江屋の二階へ行かずに、一階で土佐藩の仲間が来たら知らせるよう、見張りをしていただけと言われている。大体、今井が持っていた長刀では、天井の低すぎる近江屋の母屋に於いて、振り回せない事が分かっている。
それでは、この本の筆者達が言うところの、それぞれ重要であろうと考えられるものを、照合していこう。
この章の今井家の家伝によると、 佐々木只三郎、他つごう七人が、事件の当日(慶応三年十一月十五日)、近江屋を訪れた。案内を乞うと、龍馬の下僕、元相撲取りの藤吉が二階から降りてきた。藤吉に「松代藩某(なにがし)」という偽の名札を渡し、「才谷先生はご在宅か?」と尋ねた(才谷とは、当時、龍馬が使っていた変名である。実家が「才谷屋」というところからきている。名前は、勝海舟の子供と同じ名の、梅太郎と名乗っていた)。そして、藤吉が「少々お待ちを」と言って、二階へとって返したが(この時、犯人は龍馬達が二階にいることを確信したとするのだが、それも、実は事前に分かっていた節もある)、そう言うからには在宅間違いなしと見た今井は、その後をつけて階段を上り、上り切った所で藤吉を後ろケサがけの一刀で倒した、とある。そして刀を収め、なに喰わぬ顔で奥の八畳の襖を開くと、火鉢を囲んで、二人の男が話し込んでいた。どちらが目指す龍馬か分からず、とっさの機転で「坂本先生お久しぶりです」と、座ったまま丁寧に挨拶をした。すると右手の男が顎をなでながら「ハテ、どなたでしたかなァ・・・」と顔を向けたので、これぞ龍馬に間違いなしと、その前額を抜き打ちざま真横に払った。驚いた左手の男(中岡慎太郎)が、脇差しをつかんで立ち上がろうとしたので、その抜く暇を与えず拝み打ちに連打した。その間、龍馬は床の間に置いた刀を取ろうとして、後ろケサがけの一刀を浴び、続いて真っ向から打ち下ろされた三の太刀を鞘ごと受け止めたが、龍馬の刀身が削れるほどの強打で、そのまま脳まで達っしてしまった。その後、何故、止めの一刀を刺さなかったのかという疑問は残るのだが、ほんの二、三分の出来事だったという。(以上、今井家の家伝より抜粋)

上記は、あくまでも家伝であるが、龍馬に止めを刺さなかったという所からも、中岡暗殺が第一の目的だったからだと考える事が出来る。中岡は連打を打たれた後、三太刀ほど、止めをさされている。龍馬は格闘中、中岡に「石川! 刀があるか!? 刀はないか!?」と、慎太郎の身を案じて声を掛けていた。しかも、その時でも、慎太郎に気を使い、偽名である石川誠之助という名を使って呼んでいた。結局、龍馬は止めを刺されず三太刀で、慎太郎には十数太刀も浴びせられ、止めまで刺されていた。おそらく、龍馬に三太刀浴びせた後、桂が慎太郎に襲い掛かり、二人がかりで滅多打ちにしたと思われる。慎太郎を襲ったのは高橋安次郎とも、後に語る事になる渡辺篤とは異なる、渡辺吉太郎とも言われているが、定かではない。慎太郎は、龍馬との刺客もあわせて実行者は二人、と証言している。ただ、これはあくまで、慎太郎と龍馬に直接襲い掛かった者(慎太郎が見た限り)が二人という事だろう。しかも、最初から自分の方に襲い掛かってきたとも言っているのだ。ゆえに、「坂本先生、お久しぶりです」と言った、今井証言は真実味に欠ける。それに「坂本先生お久しぶりです」という挨拶から、人を斬るというくだりは、清川八郎を斬った時の佐々木只三郎(唯三郎)の手口を模倣していて、いくら現場に佐々木只三郎がいたからとはいえ、清川八郎の時とは現場状況が違いすぎるから、いささか作為的で鵜呑みに出来ないものでもある。
慎太郎はすでに倒れて気を失っていたが、臀部に止めを刺された時、その痛みで我に返る。その時、様子を確認する為、後から入ってきたであろう暗殺のリーダー格、佐々木只三郎か? またはより黒幕に近しい人物か? その者の「もう、よい。もう、よい」という声を慎太郎は聞いている。暗殺を完全に遂行する為、止めを刺している実行者に対して、いささか奇妙な言い回しである。臀部に止めというからには、慎太郎はうつ伏せになって倒れていたと考えられる。ゆえに、新たに様子を確認しに来たリーダー格の男に気が付かなかったのだろう(後から入ってきたリーダー格の男とは、あくまで推測であるが、実行者が「もう、よい。もう、よい」とは言わないと考えられる)。この余裕は、どこから来ているのであろうか。
刺客が去った後、慎太郎が龍馬の方を見て、叫ぶように声を掛けると、龍馬は胡座をかいたまま刀身をじっと見つめていて「残念だった」と一言。慎太郎に向かっては「手は利くか?」と尋ね、慎太郎は「利く」と答えた。龍馬は「俺は脳をやられとるから、もう駄目だ」と慎太郎に言い残し、医者を呼ぼうとして行燈を持ちながら階段の方まで行こうとしたが、再び倒れた。龍馬はそれで亡くなったらしいが、慎太郎も助けを呼ぼうと隣の家の屋根まで移動し、再び気絶。後、二日ばかり奇跡的に生き延びた。それゆえの、中岡証言と言うべきものが、谷干城(たにたてき:谷守部)を通して残されたのだった。これこそが、現場に即した非常に重要な証言である事は、言うまでもないだろう。ただ、その谷干城の言う、中岡証言には、少々、谷の記憶違いや、脚色? も、あったりするらしいが、大筋は認めてやらねばなるまい。 注:この襲撃場面の内容は諸説あり、谷干城が証言した内容とは違う箇所も多いのだが、諸説調べられたであろう今に伝えられている場面内容を、私なりに整理した形で書き記したものである。アスタリスク()内の今井家の家伝内容とは別物である。

 「今井信郎裁判」
今井信朗は明治三年、龍馬殺害の有力容疑者として刑事裁判をかけられた。その供述内容は、暗殺経緯で、特に今伝えられているものと差異が無いので省くが、佐々木只三郎からは「御指図である」と言われたという。当時、旧幕府では、閣老や重職者からの命令を「御指図」と呼んでいたらしく、旧幕臣からのものか、京都守護職会津藩からのものかは、自分は知らないと言っている。
その今井信朗は禁固刑になった。ここで、孫の今井幸彦氏は、この裁判の謎の一つとして、近藤勇などが死刑になっているのに対して、今井信朗の刑は軽すぎると主張している(これは、土佐藩の谷干城が龍馬暗殺を吐かせる為に、近藤勇を尋問するか否かで、尋問(いわば拷問)に反対した薩摩と揉めて、結局、尋問はせずに斬首となった、と言い伝わっている所からからきている。ただし、近藤勇の罪状は、新撰組の活動も含めて、あくまでも官軍に対して反攻したからであり、龍馬や慎太郎の暗殺とは関係がないとも言われている)。当時、龍馬暗殺に関連した今井が言うところの実行犯達は、すでに死んでいる。そういう場合、直接手を下したのは自分ではない、という言い逃れは(今井は台所辺りで見張りをしていただけだと自供)、昔も今も多く、検察側の常道からすれば、お前もやったのだろうと、迫るのが当然なのに、「ああそうか」と鵜呑みにしているフシがあるのも謎だという。
そして、当時の法務大臣は土佐藩の佐々木高行であったのに、同藩で龍馬の暗殺者を血眼になって探していた谷干城には、一切知らせなかったのもおかしいし、自供書にも判決文中にも、中岡慎太郎の名前が一つも出てこない所もおかしいと主張している(この指摘自体は、実にいい所をついている)。今井信朗は、中岡を知らないにしても、尋問はその点まで及んだだろうし、少なくとも判決文中には一行ぐらいは触れてしかるべきだと書いている。この、自らの疑問に対して、今井幸彦氏は、中岡を斬った人物は、今井信朗ではなく別人物だったからではなかろうかと、結論づけている。だが、果たしてそれだけだろうか。それだけでは、龍馬暗殺に直接手を下さなかったと言う、今井の証言を鵜呑みにした理由や、土佐藩の佐々木高行が谷干城に何も知らせなかった理由も説明がつかない。

 「西郷隆盛と今井信郎」
禁固刑から放免された今井は、明治十年、西南戦争が始まると、西郷討伐の為に編成された新撰旅団第七大隊の副長となり、西下する。ところが、今井家の家伝によると、西郷は龍馬殺害容疑の裁判中、個人的に信郎の命乞いに奔走してくれたという。ゆえに、討伐は西下の名目であり、熊本に着いたら寝返るつもりだったというが、西下途中で、戦局の大勢は決して召還された。
本当に寝返る事など出来たのであろうか。西郷と今井は、もちろん面識もなく、なぜ西郷が今井の為に奔走したのか、その真意は不明だが、家伝ゆえ、事実かどうかは疑わしいものである。近江屋の家伝でさえ、かなり誤差があるからである。
もし、本当に西郷が今井をかばったのならば、それは西郷がすでに龍馬暗殺の黒幕を知っていたからであろう。だいたい、見廻組が暗殺を実行していたのは、当時の幕府では公然の秘密であったし、その黒幕にしても一部の人間(つまり教えなくともよい人物)を除いて、皆知っていた節があるからだ。明治新政府で主導権を握っていた薩摩藩ならば、それ当然の事でもある。黒幕が黒幕だけに、西郷としても、むしろ今井が死んで、完全に相手の思う壺になったら、藩としても捨ておけないからなのだと推察する。それはつまり、薩摩藩も暗殺の黒幕として疑われていたし、真の黒幕は、薩摩藩にとっても、あまりいい関係ではなかったからである。今井はただ、「御指図」に従っただけであり、暗殺の現場にいた生き証人だからという事もあったのではなかろうか。

「近畿評論」
今井伸郎が、龍馬暗殺内容を、「今井伸郎氏実歴談」として、明治三十三年に記者を通して発表されてしまったものだ。
発表されたというのは、今井の本意ではなかったという事だが、禁固刑を受け、自分は見張りをしていただけ、と供述した者が、記者に話すなど、かなり無用心というか、それだけ、裁判の追及が甘かったのか、何かしら取調べ中に、作為的なものがあったのではないかと、勘ぐってしまう。龍馬裁判ならびに判決については、外部には一切公開せず、極秘扱いだったにも関わらず。
この実歴談には一箇所、注目すべき今井の話が載っている。ほとんどの研究書には「暗殺実行に関わった者は鳥羽伏見の戦いで戦死している」としているのに対して、今井は「桑名藩の渡辺吉太郎と京都与力の桂隼ノ助と、いま一人の四人で出掛けた。このいま一人は、今も生きているので絶対に口外できぬ」という。『龍馬暗殺の謎を解く』に参加している研究家の中でも、この話については一切触れておらず、誰もその事に関する説すら唱えていない。当の今井幸彦氏でさえも。
実行犯の一人とされている高橋安次郎も、戦死している。例えば、そのいま一人が渡辺篤だったのでは? とか、別に知られざる人物が同伴していたのか? など、突き詰めていかないのは不思議ですらある。(今井幸彦氏は、渡辺篤こそ虚言を言っているとしている節があるので、致し方ないにしても)
それにしても今井以外の実行犯は、皆、戦死している、という史実めいたものに統一されているのは、歴史家ならともかく、研究者が追及しないのは、それだけこの今井伸郎実歴談の信憑性がないからかもしれないが、こういう部分は、あきらかに信憑性のあるものとして取り上げるべきではないのか。
ともかく、この記事を目にした片岡健吉が、谷干城に知らせたのだが、谷が反論したのは、それから六年も経ってからだった。今井が裁判にかけられたのは、明治三年。「近畿評論」に記事が載ったのは、明治三十三年である。それから六年後の明治三十九年に、谷が「今井売名奴」として、大演説があるのだが、ここでも、孫の今井幸彦氏は、「なぜ六年も経って谷が反論をし出したのか? なぜ谷は、今井が龍馬殺しの裁判を受けていたのに、何一つ知らされなかったのか?」と疑問を呈している。
実は明治三年に谷干城は、藩命で土佐に戻されている。そしてなにも知らなかったのか、その時まで未だ新撰組の仕業と思い込んでいて、見廻組の今井売名奴と主張したのか・・・、私はたぶんその頃には暗殺の黒幕まで、谷にも知らされていたからではないかと考える。

「薩摩藩黒幕説」
多くの研究者が取り上げ、主流ともなっている説である。
それは、蜷川新(にながわ あらた)博士による『維新正観』にて「・・・この日坂本龍馬暗殺の報を聞き、土州人中島信行は現場に駆け付け、旅館の女中に向かい、その折の様子を尋ねてみた。その女中は密かに『暗殺人は逃げ行く際に、二つ三つ私語したが、それは確かに鹿児島弁の音調があった』と答えたと言われる・・・」といった事由を発表した所から来ている。中島信行は海援隊士で、後々にも身近な者に対して、同じように語っていたという。
これは重要な証言だとも言えるが、私は薩摩藩暗殺説を否定する。当時の暗殺に於ける常套手段としては、現場の遺留品などに、他者へ濡れ衣を被せるような事が、当たり前のように行われていたので、もし、この証言が本当ならば、私には暗殺者達が、わざと鹿児島弁を言ったように思えて仕方が無い。もしくは、暗がりの中である為、事前に合図か合言葉として、薩摩弁を選んだのかもしれない。薩摩弁は太平洋戦争で、暗号の代わりに使われたほどだ。
例えば、姉小路公知暗殺事件は、現場に薩摩の田中新兵衛の刀が放置されていた。逮捕された新兵衛は犯行を否認していたが、現場に落ちていたその刀を見せられると、驚いた顔を見せ、遂に切腹をしてしまった。薩摩藩に利害が及ぶ事を避けての行動であったとされているが、新兵衛が真犯人であったなら、自分が落とした筈の刀を示されて、驚く筈はない。一説には、朝廷が島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業といわれている。
いずれにしても、鹿児島弁を使ったという事は、わざと薩摩藩の仕業にしたかったという推測が頭をよぎる。実際、こういう話もある。慶応二年一月二十三日、寺田屋に宿泊していた龍馬を、百数十人の伏見奉行の捕り方が捕縛せんと、寺田屋の門を叩いた。寺田屋(襲撃)事件である。女主人のお登勢が、すぐに門を開けずに、どなたか? と尋ねると「薩摩藩の者である」と答えたので、門を開けたら伏見奉行の捕り方が雪崩れ込んできたという。この時点でも、それ以前でも、幕府側は龍馬が薩摩藩と懇意で、龍馬自身も薩摩藩士を装っている事まで知っていて、わざわざ薩摩藩士を名乗った訳である。
近江屋での暗殺事件後、谷干城が薩摩藩邸に詰め寄り、事件に関わったかどうか問いただしている所からも、女中の証言とは別に、龍馬と薩摩藩の関係が微妙である事は、以前から認識されていたようで、それを犯人が利用したと考える事が出来る。
近江屋の暗殺現場にも、新撰組の原田左之助のものらしい鞘が落ちていたり、新撰組のよく使っている先斗町の料亭「瓢箪(ひょうたん)」の下駄が落ちていた。このわざとらしい遺留品は、当然、新撰組のせいにする為なのだが、公務で実行した見廻組が、なぜに新撰組(浪人集団)のせいにしようとしたのか? これは大政奉還後という事もあり、龍馬が幕府要人と親しかった(見廻組は正式な幕府配下)という事も有り得るが(公務ではなく私怨であったという説あり。寺田屋襲撃事件に於いて、龍馬は二人の捕り方を銃で撃って死なせている)、黒幕の意向でもあり、更に撹乱させる為、鹿児島弁を使ったのではないかと勘ぐりたくなるものだ。つまり、犯人は、新撰組や鹿児島弁を使う薩摩藩以外と考えるべきなのである。
ただし、この女中の証言も、確かなものかは定かではなく、事件直後に駆けつけた関係者の中には、「近江屋の家人は皆逃げ出していて、誰も屋内にはいなかった」という証言もあり、そうなると「暗殺人が踏み込んできた際に・・・」であれば納得がいくが、「暗殺人が逃げ出す際に・・・」という証言は、信憑性がなくなる。それに、今井信郎の証言では「家人が騒ぎ立てないように一階へ見張り役を置いた」とあるが、近江屋の家人の証言では、その見張役と直接対峙したような証言はない。近江屋の主人は二階で暴れている音がしたので、龍馬達に一大事が起ったと思い、土佐藩邸に知らせようとした時、表門には刺客と思わしき侍が抜刀して立っていたので、裏門から知らせに行ったという。そのぐらいのものであるし、近江屋の家人が、刺客達はどういう人物であったか、見張り役が直接刀を抜いて脅した等の、具体的な家伝は出てこないのである。(最近知った家伝では、佐々木只三郎が、自ら捕縛を通告し、龍馬が殺すなり好きなようにしろ、といった文書が出て来たらしいが、それならばやすやすと殺られはしまい)。
いずれにしても、どの証言を信用するか否かで、事件の真相が変ってくるのだが、本筋として黒幕が特定された時、捨て置いてもいいような証言であるという気がする。近江屋家人からの証言は、とかく矛盾する事が多すぎ、取捨選択に苦労するともいえる。
確かに薩摩には、龍馬を消したい理由が、大政奉還前後からかなりあった。しかし、中岡を消す理由は全く無かったのである。むしろ、中岡の死は痛手ですらあった。大久保利通も岩倉具視も、書簡にてその死を悼み、速やかに犯人を捕らえるように促していた。それに、近江屋に来る前は、酢屋に潜伏していた龍馬だが、そこに幕士がかなりうろついていた為、危ないから土佐藩邸(薩摩藩邸ともいわれている)へ移るようにと、忠告していたのが薩摩藩側であった。それを聞かず、密かに近江屋へ移ったのは龍馬自身だったので、いわずもがなである。
当時、薩摩で主に暗殺を請け負っていたのが、人斬り半次郎こと、中村半次郎(桐野利秋)であり、当然、薩摩が龍馬暗殺を実行するとなれば中村半次郎が実行した事だろう。中村は龍馬とも親しく、顔も知っているので適任である。
だが、こういう話がある。中村半次郎は以前、土佐の後藤象二郎を、薩摩の為にならずとして、西郷に黙って暗殺しようとした。いざ斬りかかろうとしたら、薩摩の提灯を後藤が持っていたので、暗闇の中、西郷が一緒だと勘違いをし、慌てて取りやめた。西郷は後藤を大人物として、暗殺しようとした中村半次郎を叱りつけたという。確かに、西郷の為と思い、勝手に暗殺を実行しようとする傾向が、中村半次郎にはあった。しかも、西郷は龍馬暗殺時、京都には居ない。だが、現場に中岡が居合わせていたら、当然驚いて引き返してしまうと思うのだ。もしくは、その場をなんとか取り繕う筈だと思うのだが、暗殺は実行された。たとえ、中村半次郎ではなく、他の薩摩藩士が暗殺を謀ろうとしても、中岡がいたら決して実行はしなかったであろう。中岡も龍馬も、薩摩藩とは当然関係深く、頻繁に出入りをしていたので、大抵の薩摩藩士は、二人の事をよく知っているからだ。
繰り返すが、薩摩藩にとって、中岡を消す理由は一つも無いし、むしろ薩摩にとっては龍馬よりも重要な人物である。しかも事件後に、中岡は「最初に自分の方へ襲い掛かってきた」と言っているのだ。
それ以外でも、前述した「今井信郎裁判」の章で、近藤勇の尋問を薩摩藩が反対したという事実などは、実行犯が新撰組で、薩摩藩と新撰組が何かしら関係を持っていたとしたら、確かに怪しいと見られるが、実行犯が見廻組ならば別段関連がない。何より、新撰組が暗殺を実行したとすれば、隠したり否定したりはせずに、その性質からも大宣伝をして自慢するであろうが、そんな話は一つも出てこない。
西郷が今井を庇った件でも、薩摩藩が黒幕で、今井が暗殺に関わったからだとしたら、今井を庇おうとはしないと思うのだが・・・。むしろ、証拠隠滅に走るか今井を無視するかの、どちらかだと考える。或いは、最後まで今井が黒幕を知らないとして、黙秘してくれたから、西郷が庇ったというなら、むしろ、ノコノコとその黒幕が顔を出してくる訳がないのである。西郷は巷で知られているよりも陰謀家であったが、薩摩藩が権力を誇示していた維新後でも、新政府としては旧幕府の有能な人間を取り立てた。榎本武揚などがいい例である。そういった事例を見ても、西郷が今井を庇ったという家伝がもし本当であるならば、別に何かしらの理由があったと考えた方が妥当であり、根拠にならないと思われる。それに、今井伸郎が裁判にかかったのは明治三年である。その裁判証言では「見張りをしていただけ」と供述している。後に、今井自身が龍馬を斬ったと記事になった時は、明治三十三年であるから、時系列を考えれば、西郷が今井を暗殺実行者として認識していない事が分かる筈である。
龍馬暗殺ばかりに目が行き、中岡の存在をおざなりにしているから、薩摩藩黒幕説などが出てしまうと考える。

「見廻組肝煎・渡辺篤」
今井信郎と共に、暗殺に加わったと、死後、身内が新聞に発表し、龍馬暗殺事件に於いて有名になった人物である。私は今井の証言が腑に落ちないと共に、黒幕絡みの理由から今井の証言は当てにならないと思っていたので、この人物を取り扱った新人物往来社『龍馬暗殺の謎を解く』の渡辺篤の章に於いて、非常に興味を抱いた。
渡辺は臨終の際、遺言として暗殺内容の発表を願い、実際、新聞記事になったのは死後の大正四年である。今井の実歴談「近畿評論」が発表されたのは、明治三十三年であるから、いささか遅いし、今井実歴談を参考にしたのではないかと疑われているものでもある。
新聞記事の内容は、渡辺自身が明治四十四年に書き記した「渡辺家由緒暦代系図履暦書」を、要約したものであるが、その原本は『履暦書原本』として、明治十三年に書かれたとされている。つまり今井の『今井信郎実歴談』よりは前に書かれてはいる。証拠は無いようだが。
暗殺現場の内容は簡潔である為、今井との比較は難しいが、相違点として、実行者の一人に世良敏郎という人物を挙げている。その点に於いても、世良が見廻組に在籍していた事を確認出来ず、渡辺の虚言と言われてきたが、近年になり世良敏郎が在籍していた事は確認された。そして、現場に鞘を忘れたのが世良敏郎であるとしている。もし、この渡辺の言い分を信じるならば、黒幕側がわざと新撰組のせいにする為、原田左之助が使っていたとされる鞘を置いて来たという説も崩れそうだが・・・。今井は渡辺吉太郎(渡辺篤とは別人物)が鞘を置いてきたとしているが、いずれにしても見廻組が犯行に及んだのであれば、集団の誰かが鞘を忘れたという事になる。そして、渡辺の書き記した内容からは「坂本先生、お久しぶりです」と、今井が龍馬を斬る前に言ったとされる言動に、一言も触れていない。藤吉に名札を渡し、一緒に二階に上がり、すぐに龍馬に襲い掛かったとしている。この点は、最初に中岡を斬りつけたとする谷干城の言い分と食い違う。であれば、龍馬暗殺が主目的となり得るが、リーダー格は佐々木只三郎であり、それ以外には目的を伏せていても不思議ではないと考えられるので、まだ中岡暗殺が主目的である事は有り得る。それに、斬りつけた中の一人が中岡慎太郎であったことは、後日聞いたという。渡辺自身、中岡と龍馬の区別がついてなかったとも思われるし、「龍馬達」に襲い掛かった、ともいえるのではないか。
そして、黒幕がわざと新撰組のせいにしたとする推測は、結果的には崩れていない。これは後々語る事となるが・・・。
その他の相違点は、近江屋に増次郎という密偵を放ち、龍馬の挙動を探索していたという。その増次郎は乞食の格好をさせて、近江屋の軒下などに潜り込ませていたという。それならば、龍馬がその日、土蔵から母屋に移っていた事や、在宅の有無も、その他の人の出入りも確認できたであろう。
そして渡辺は暗殺後の十一月十九日頃に、龍馬を討った褒美として、15人扶持(ふち)を月々貰う事になったと書いている。1人扶持は、日に米5合。15人扶持では、一日7升5合となる。この辺は具体的な話である。
実は当初、私がこの暗殺事件関係の本を読み始めた時、実行犯は、ほぼ見廻組という事で、定説にもなっていた。では、黒幕とでもいうべき指図した人間は当然、会津藩主の松平容保(かたもり)か所司代(容保の実弟である桑名藩主、松平定敬:さだあき)であろうと思ったが、幕府の大目付などが命令を下すとも言われている。いずれにしても、黒幕は幕府側という事で決着をつけていいのではないかと思った。実際、大目付の永井尚志(玄蕃)が龍馬と会って親しくなる前に、暗殺を指示したという説もある。龍馬がどういう人物か知った後、捕殺等をしないよう取り計らったが、末端まで行き届かずに暗殺を実行されてしまったという。出自は不明だが、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の最終巻あとがきに、徳川慶喜が龍馬の事を聞き及んで、永井に「土州(土佐)の坂本竜馬には手をつけぬよう、見廻組、新撰組の管掌者(管轄者と同意語)によく注意をしておくように」と伝え、永井が出仕(どこを訪れたかは書いてない)した所、机上に龍馬を暗殺した旨の紙片が、すでに置かれていたそうである。
では、何故に皆が幕府と決め付けないで、諸説入り乱れるのか? 黒幕が幕府の他にいるとするのか?
それはまず、会津藩から直接暗殺指示があったとは考えにくいという事と、事件当日、龍馬が土蔵(確かに土蔵の方が逃げ道を作っており安全だった)から母屋に移った事は、見廻組だけでは知り得なかったとしている所らしい。黒幕の指示により、誰かが龍馬の居場所を知らせた筈としているようだが、前記しているように、増次郎という密偵を放ち、身近な所で動向を探っていたのだから、居場所は筒抜けであった訳だ。それに、わざわざ会津藩系列から直接の指示が考えられないとはいっても、寺田屋(襲撃)事件に於いて、すでに伏見奉行の捕り方が龍馬を捕縛ないし、捕殺しようとしていた訳である。そしてその結果を、京都所司代に報告もしているし、龍馬を逃した後、すぐに薩摩藩に匿われている事を察知し、再三に渡り、薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求している。それだけ幕府側に於いての諜報活動は盛んであり、当時の様々な事件を調べても、幕府側の情報網は凄まじかったといえる。
事件は、大政奉還後であるが故、見廻組には暗殺する理由が無かったと見えるが、慶応三年十一月十五日の時点で、幕府は現状維持のままであり、京都守護職ならびに京都所司代廃止は同年十二月九日であるから、ある意味絶妙なタイミングといえる。それに、龍馬は同心殺しであるから、見廻組としても多分に私怨があった故としたら納得出来るではないか(見廻組は、寺田屋事件の際、伏見奉行所から応援要請を受けて参加している)。つまりは、幕府黒幕でも、もしくは黒幕のいない見廻組私怨でも、いいように思われるのである。
最近の諸説を見渡しても、渡辺篤の話の評価は上がっている。とかく、この暗殺事件に関する史料や証言、新たなる検証に於いて、今まで定説とされてきたものが、間違っていたという事が多すぎる。最近購入した菊池明氏の『龍馬暗殺 最後の謎』を読むと、ほとんどの定説や証言には、まったく信憑性がないものばかりとされている。これでは、何を語ろうとしても、元となる資料や情報が間違っているのならば、事実に近づきようがない。
では、幕府黒幕か見廻組の私怨で、この話は終るのかというと、ある一点の人物、ないしはある藩を黒幕とすると、いかなる偽情報でも、別の黒幕と成り得る存在がいるのである。どうしても、黒幕が必要ならば、というべきか、もしも幕府側に黒幕がいないのであれば、もしも渡辺篤が虚言を言っていたならば、否、渡辺篤が真実を述べていたとしても、ほぼ、全てが結びつくといってもいい程の人物がいるのである。これは当時の政治状況や人間関係を主眼とすれば、あぶりだされるものである。次章では、いよいよその人物を思い付いた経緯について語る。

「西尾秋風氏の薩摩藩黒幕説」
新人物往来社の『龍馬暗殺の謎を解く』に於いて、「刺客? 中村半次郎」の章を書いた西尾秋風氏は、いわずと知れた薩摩藩黒幕説の人である。海援隊士・佐々木多門の書簡から、薩摩藩説を確信したという。私見だが、この書簡に於いて、薩摩が関わっていたという裏付けは取れないと思われる。今現在の情報を用いて読んでみると、確かに薩摩藩が怪しいと思うが、時系列からいって、当時の海援隊士らが犯人としていたのは新撰組である。書簡には、龍馬の殺害人の姓名が分かり、これに付いての薩摩の処置等が愉快であるという内容なのだが、その姓名とは先に書いた原田左之助という事になるのではないか。それについての薩摩の処置が愉快というのは、当時、薩摩藩が元新撰組、伊東甲子太郎の高台寺党を匿っていたからとも言われている。これは、話が逸れるので、他のネットで諸説語られているものを参考にしてもらいたい。
後に語る事となるが、西尾氏は先に薩摩藩説を唱えた為、御自身が提示する新史料を生かす事が出来なかったように思う。この方も、恐らく黒幕を別に考えていたように感じる。それは、西尾氏が『幕末維新暗殺秘史(新人物往来社)』の新史料提示に於いて、御自身が迷われているように読み取れたからだ。それはともかく、後に語らせてもらう。
主題は、この章の中で、福岡孝弟(藤次)の子孫が、TV番組にて龍馬暗殺を語ったという内容である。私が、中岡と龍馬暗殺の黒幕を、最初に閃いたきっかけが、この内容なのである。
要約させてもらうと、「曽祖父は福岡孝弟と申しまして、(龍馬の)死の真相を、ある筋から知っていたんだそうですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃいかん事になっとるんだ、と言いました。佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ、と」
つまり、福岡孝弟は事件後、どのくらいのタイミングか、定かではないが、真相を知っていたのである。
予め言っておこうと思うが、まず、「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」という話は、見廻組説の否定であるが、暗殺に関わる証言や史料を、当てにはならないとしても、有力なのはやはり見廻組である。これは、後になり考えたのだが、佐々木は指揮をしただけで、直接斬ってないからなのでは、と考えた。それは兎も角として、私が最も引っかかったのは、「言っちゃいかん事になっとるんだ」という言葉である。
言っちゃいかん事になっている・・・・・・、言ってはいけない事になっている・・・・・・、福岡孝弟は、一体誰に対して気を使い、言ってはならない事としているのだろうか?

「自説:中岡慎太郎と龍馬暗殺の黒幕」
これは、ある意味、人間の上下関係と藩体制にも関わってくる。幕末以前でもそうであったし、維新後もまたそうであった。
藩というものは、維新前に於いて、いや薩長同盟以前を見れば分かるように、藩同士は実に仲が悪かった。各々独立していたといってもいい。今現在のように、日本として一つにまとまったものではなく、関所があるくらいで、簡単に行き来は出来なかった。徳川の下とはいえ、藩主に対しては絶対で、脱藩でもしようものなら、マフィアの組織を抜けるぐらいに危険であり、重罪であった。武士が携えている刀も、藩のものであり、管理も厳しく行われていた。実際、龍馬は脱藩の際、帯刀して行った訳だが、残された家族は藩に対し、紛失したとしてシラを切っていた。しかし、紛失だとしても重罪であるから、いよいよ言い訳が出来なくなると、その責任を姉のお栄が背負い、武士の娘として自害したぐらいなのである。龍馬はそういった事も背負って維新を奔走していたのである。
土佐藩にしても、薩摩と長州に対しては、仲が悪かった。薩摩と長州にしても、薩長同盟が結ばれたとはいえ、実際、藩の人間同士は、仲が良くなったとはいえず、維新後の薩摩主導政府を見れば分かるように、長州にしても、土佐にしても、薩摩に虐げられた。特に土佐藩は、薩長よりも下に扱われた。土佐藩は、徳川家に対して、薩長よりも非常に親しい間柄であったからともいえるし、薩長より、土佐は血と汗を流さなかったという理由からでもある。
そういう土佐藩の側役(藩主や藩公の側近で、土佐藩家老よりも上。後藤象二郎は、家老よりも下の参政。ただし、時系列によっては、大監察という記述も有り)である福岡孝弟が、誰に対して気を使わねばならないのか?
西郷だろうか? 確かに薩摩と仲が悪いとはいえ、新政府の要人。軽く言える訳は無い。大久保利通にしても然り、岩倉具視にしても然り、長州の木戸孝允にしても然りだが、福岡孝弟の言葉のニュアンスとして、土佐藩内での取り決めという雰囲気があり、薩長の人間より、もっと近しい人物に思えたのだ。

一体誰かというと、咄嗟に私は、土佐藩のご隠居、藩公とはいえ実質的な支配者であり元藩主の山内容堂/豊信(やまのうち ようどう/とよしげ)を思い浮かべた。

欄外:次回からは、その理由と裏付けを語る事となるのですが、すでに出揃っている研究書などを、山内容堂が黒幕、そして、土佐藩の上士などが、容堂の命令により手引きしたとして再読すると、あちこちに納得しうる証言や史料が読み取れると思います。例えば、研究者が「よくも、土佐藩邸のこんなすぐ近くで暗殺が行えたものだ」などというコメントも、私には「近くだからこそ行う事が出来たのだ」と、つぶやけるのです。私の説は出ました。以降はあくまでも、この説に則った裏付けを書き込む事となりますが、その前に、青字にした部分の疑問や事象等を読んでみて下さい。納得できる事が多々あると思われます。
実際、突然登場する人物や歴史的な流れ等、それぞれ詳しく説明をしてこなかった事は、ご了承下さい。それをすると膨大な労力となり、すでに一趣旨を超えてしまいますので・・・。その代わりと言ってはなんですが、人物名には別名や読み仮名を、なるべく記載して置きました。書物によっては、別名のみ記している場合があったり、読み方も二通りあったりと、同一人物なのかどうか分かりづらくなっている事があるので。
それぞれの人物や歴史的流れは、ネットや書籍で調べて戴ければ、より理解が深まる事と思われます。また、それにより私の説とは違う説(薩摩藩黒幕説とは別に)を発見、または唱えて戴ければ、発展性があると思われます。例えば「いろは丸事件」の関係者説等は、興味深いです。

「土佐の名物お殿様:山内容堂」
明治維新後、完全に隠居した容堂は、連日両国などで豪遊し、界隈では名物お殿様として有名だったという。
幕末に於いて、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された土佐藩の元藩主は、先祖の一豊が徳川方についた為、その恩恵も有り、代々徳川家には従順であった。そして、自らが藩主になった経緯も、徳川家の力があった。であるから、岩倉具視に対して「慶喜を討つとは何事か!」と、怒鳴り散らして会議に乱入した事もあり、かといえば朝廷にも顔が利いていた為、西郷をして「単純な佐幕派の方が、遥かに始末がいい」と言わしめた。
容堂は、非常に冷酷な人間であるという印象が強い。殿様だから仕方ないのかもしれないが、それにしても切腹をさせる事が多かった。そして当時の土佐藩は、上士が郷士(下士)などに対して、平然と「斬り捨て御免」がまかり通っていた。薩摩や長州でさえも、そんな事はなく、むしろそういう土佐の郷士に同情すらしていた。龍馬が勝海舟に初めて会った時も、土佐出身と聞き、同情的な言葉をかけられ、龍馬の心が動いたといわれている。
勤皇党弾圧の時も、下級上士の(白札という身分で、郷士よりは上)武市半平太(たけち はんぺいた:瑞山・ずいざん)に対して、切腹を命じた。維新後、土佐藩が薩長に虐げられた状況を嘆いて、武市を切腹させた事に、後悔をしていたと言われるが、私には当然、中岡や龍馬を失った事への後悔に聞こえてしまう。無論、容堂黒幕には証拠は無いが・・・。だが、これこそ、容堂の性格を表していて、中岡や龍馬といった身分の低い脱藩者には目もくれず、武市という、まだ上士身分の者であれば、記憶しているといった趣を感じてしまう。
中岡と容堂の関係だが、中岡が「五十人組」を結成した時に、容堂と面会している。普通、上士などでしか、お殿様には会えないのだが、この時は容堂を警護するという名目で江戸入りをし、容堂の命令で信州松代の佐久間象山を招聘する為に奔走した。中岡の西洋に於ける類稀な知識に、容堂が目を付けたからだと言われている。その時に中岡を、徒目付(かちめつけ:旅中雇)という位に昇格させたのだが、土佐に帰ると勤皇党の弾圧を強化し、その中岡にも捕縛命令が下る。その時に中岡は脱藩をして長州に身を寄せ、石川清之助に変名し、「禁門の変」では長州兵と共に戦った。
それにしても、自ら目を付けて置いて、一転、捕縛命令を下すとは、ここでも容堂の性格を垣間見る事が出来る。
龍馬と容堂に関しては、江戸にて御前試合とでも言うべき剣術大会で、容堂と会っていたとされるが、これは事実ではないらしい。ただ、龍馬が脱藩の身ながら、大政奉還前に、海援隊業務として土佐藩へライフル銃を運んだ折、土佐は大騒ぎとなり、容堂もそれを耳にして「騒がしき奴」と言ったらしいが、これも事実かどうかははっきりとしていない。
いずれにしても、中岡や龍馬の二人の事は、はっきりと記憶してはいないであろう。何故ならば身分が低く、しかも脱藩をした者であるからだ。お殿様である容堂が、そんな二人を、まともに覚えている訳はない。覚えていたとしても、脱藩者という扱いでしかないだろう。
後藤や福岡の配慮で、脱藩の罪を免除された二人であったが、その後に於いても、藩と関わりを持たず、実際、福岡達が名目的に行った感があり、土佐藩内でも未だ脱藩者という意識が強かったようである。
ただ、仮にも脱藩を許された事により、二人に隙が出来たのかもしれない。一応の土佐藩士に対して、まさか幕府の新撰組でも、見廻組に於いても、自分達を暗殺しに来るとは考えなかったのかもしれない。暗殺が大政奉還後という事もあるが、幕府大目付の永井と親しくなったという事もあったのだろう。よく、龍馬ほどの剣豪が、たやすく討ち取られる事など有り得るだろうか、と唱えている人もいるが、それならばもっと当時の政治情勢や状況を、時系列に沿って調べるべきである。

「土佐藩黒幕説起点」
福岡孝弟の「言ってはいけない事になっている」について、前記では少々遠慮気味に書いたが、実は、土佐藩の福岡が、別段、薩摩藩や他藩に遠慮などするとは思っていなく(徳川幕府は別として)、私は確信的に容堂だと思い浮かんだのだが、それには当然、理由がある。

それは、大政奉還を取り巻く状況と容堂、その時の中岡の立ち位置というものに、やはり関係してくる。
まず、新撰組が、陸援隊に密偵を忍ばせていたという事実がある。陸援隊は、土佐藩としての中岡が隊長であり、倒幕軍として軍事訓練を、大政奉還前も後も続けていた。これは、藩論として大政奉還を建白していた土佐藩としては、非常にまずいのではないか。実際、土佐藩白川邸の敷地を、福岡か後藤などが、勝手に陸援隊に貸していたという話もあり、陸援隊の隊員が、酒に酔って町中で暴れたりしているという苦情が、土佐藩邸に多く寄せられたとも言われている。ようは、後藤や福岡の周辺以外(土佐藩の上士など)は、陸援隊に対して、良い印象など持っていなかったであろう。土佐藩にすれば、当然である。訳の分からない、藩としては認めていない徒党の苦情を受けているのだから。

そして、密偵により得た陸援隊の内部情報を、近藤勇が文書にして会津候に上表したという証拠が残されている。それを徳川側が、会津藩から知っての、「天皇から、徳川討つべしの密勅が降りる日の前日の大政奉還」であった訳である。幕府には、すでに密勅が降りる日も筒抜けだった。
その会津候松平容保は、病弱ではあったが、松平家家訓の「徳川には最後まで尽くせ」を守り、「他の外様が戦わなくとも、我が会津藩だけは最後まで戦う」といった強行姿勢であったと聞く。当然、公武合体の大政奉還にも反対していた。

ここからは、あくまで推理ではあるが、決して有り得ない話ではない。
もし、その大政奉還案を土佐藩の藩論として承認した容堂に、松平容保が「大政奉還を推し進めた御自分の足元、自藩では、徳川を討とうと、陸援隊という倒幕軍を、隠しているではないか」と、苦情を言ったとしたら・・・、容堂はきっとカンカンに怒った事であろう。しかも慶喜に、大政奉還案を話した際には「さすがは、容堂!」などと褒められたりもしていた。
陸援隊は、後藤と福岡が、藩の主要には知らせず勝手に作ったものであるから、容堂が知らなかった可能性は高い。プライドの高い容堂候の事、面目丸潰れと成ったであろう。そして、すぐにでも、家臣に確認した可能性が高い。それも、大政奉還前の可能性もある。もしかしたら、後藤や福岡に直接、事の真意を迫ったかもしれない。が、後藤や福岡は、当然惚けた筈である。あれは倒幕の為ではないと誤魔化したかもしれない。
となると、容堂が、他の土佐藩上士に対して、陸援隊や、藩の倒幕勢力の存在を押さえ込もうとした可能性が高くなるのである。お殿様の命令であるし、藩論でもある。
そうなった場合、命令を受けた土佐藩上士は、後藤や福岡を差し置いて、陸援隊を解散させる事は難しいと考えたのではなかろうか。いや、陸援隊は、中岡の死後も、谷干城と副隊長の田中光顕によって継続した。戊辰戦争でも活躍はした。容堂も、慶応四年(1868年)一月三日、 旧幕府側の発砲で戊辰戦争が勃発すると、自分が土佐藩兵約百名を上京させたにもかかわらず、土佐藩兵はこれに加わるなと厳命した。しかし、土佐軍指揮官・板垣退助はこれを無視し、自発的に新政府軍に従軍した。諦めた容堂は、江戸攻めへ出発する板垣率いる土佐藩兵に、寒いので自愛するようにと言葉を掛けた。だが、その時はすでに時流が変っていたのである。暗殺時のタイミングは、王政復古の前である。

命令を受けた土佐藩上士は、隊の頭を抑えればとなり、標的は中岡慎太郎となった。だが、土佐の人間の誰が出来るのか? 谷干城の言うように、当時の土佐の人間で、手練れなどいないとなると、他に頼らざるを得ない。
穿った見方を更にすれば、会津から苦情を受けた時、流れからして、容堂が「陸援隊など知らん、会津藩の好きにしてよろしい。所詮、脱藩浪人なんぞ」と冷たくあしらった事も考えられる。会津藩としては「では、そうさせてもらう」となり、容堂の命令で、土佐藩上士の誰かに「会津に協力するように」となったとしたら・・・。
ではなぜ、陸援隊の事を上表した新撰組が暗殺を実行しなかったのか? 新撰組にしても、実のところ要人暗殺は少ない。新撰組は、暗殺部隊というイメージが強いが、それは新撰組内部の粛清が多い。あくまでも、捕縛を目的としている隊である。それに、新撰組では、極秘の暗殺は無理であろう。見廻組と違い、浪人集団であるから、手柄を宣伝してこその組織であるからだ。
中岡と龍馬の暗殺後、近藤が佐々木に「昨夜はお手柄であった」と、冷静に言っている所から察すると、当初から、暗殺部隊として、新撰組ではなく、見廻組が選ばれたのだろう。その見廻組にしても、京都守護(或いは要人警護)が本来の役割であり、研究家が「暗殺実行部隊のメンバーは、正式な見廻組ではなく、傭兵部隊の様相が濃い」とするなら、しごくもっともである。

では、中岡が標的であるのに、何故龍馬も暗殺されたのか? 見廻組が実行するなら、当然龍馬を標的にしたい筈である。これは取引きではなかろうか。陸援隊の標的の中岡を引き受ける代わりに、見廻組としては坂本を、という事である。もしくは、新撰組に居た、阿部十郎の談話に於いて語られているように、龍馬も陸援隊の隊長であるという間違った認識があったからかもしれない。事件を調査した尾張藩の『尾張藩雑記 慶応三年ノ四』に於いても、白川の陸援隊は、龍馬の徒党の者としている。どうやら、外部から見た場合、龍馬も陸援隊の隊長であるという認識があったようだ。実は、土佐藩にしても、そういう嫌いがあったかもしれない。前述したように、土佐藩の白川邸は、後藤や福岡などが藩には知らせず、勝手に陸援隊に貸していたとするなら、陸援隊自体が土佐藩上士にとって、不明な点が多かったのではないかと推測出来る。であれば、中岡は当然だが、坂本も隊長らしいから、二人とも殺ってしまえ、となったのではないか。隊長のいない隊なら、コントロールしやすいという事である。
そして、幕府側密偵の増次郎には龍馬を、中岡の動向は土佐藩士の誰かが請負い、近江屋に出入りしている誰かに、中岡が来たら知らせろと言えば簡単であるし、母屋の詳細な間取りも知る事が出来る。近江屋は土佐藩邸のすぐ隣でもある。

更に、何故二人揃った時なのか? それは、龍馬と中岡で別々に実行となっても、二班を作り同時刻に襲わなければならないからである。何故なら、どちらかでも、先に殺ったとしたら、残ったほうは更に警戒を強めて、討ち取りづらくなるからだと考える。別々に暗殺するより、むしろ手間が省ける訳である。それに、中岡は陸援隊の白川邸にいて、隊士が多数いるので、手を出しづらい。
もしくは、土佐藩側が、中岡の居場所を見失っていた可能性もある。
符合する事は、暗殺年の十月、伊東甲子太郎が中岡に、新撰組に気をつけるよう忠告した時、最初は「身を惜しむ事はない」と告げたが、後日、忠告を受け入れ、中岡は寓居を変えている。土佐藩としても、急に居所が掴めなくなり、焦ったのではなかろうか。さすれば、龍馬のいる近江屋を見張っていれば、中岡は来るだろうし、そのタイミングを計って、見廻組に知らせる事が出来る。
そして、何故に捕縛ではなく、暗殺となったのか? それは、当時の身分差別もきっとあった事だろう。
昔も今も、警察機構は、複数犯に対して「一網打尽」を狙う。それで失敗する事も多いのであるが、この暗殺事件は成功してしまった。

以上はあくまで推理であるが、現実的に中岡は、後藤や福岡からさえも、煙たがられていた証拠がある。
大政奉還前、容堂の説得に失敗し、土佐の兵を上京させられなかった後藤に対して、中岡は龍馬に「後藤を斬る」とまで言い放っていた。龍馬はなんとか中岡をなだめたが、福岡に対しては福岡邸に乗り込み、暗殺未遂すら起こしていたのである。
であるからか、事件当日、龍馬は、風邪を引いているにもかかわらず、午後三時と五時に渡り、わざわざ二回も福岡邸を訪れている。本の多くは、目的を書いてないが、後の福岡談話には、その理由が述べられていて、「あとで家人に聞くと、今まで中岡がどうしても聞かない。中岡は武力倒幕論であったから。ところが、どうやら中岡もそろそろ折れてきた。だから私に安心するようにと言いたかったらしい」という事であった。
つまり、それ程までに、土佐藩と中岡慎太郎の仲は、切羽詰っていたという事である。

事件後、早い時期から段々と、この暗殺事件に対する土佐関係者の消極的な態度を見て取れる。
「我が土佐藩が関わっている」と、それとなく聞き及んだなら、至極当然のような気がする。谷干城にしても、「紀州人が新選組を扇動して、新選組の者が斬りに来た。鞘は全く原田左之助の鞘である、こういうことになっている」という、土佐藩の決まり事にでもなっているかのような言い回し。土佐藩重役、寺村左膳の「脱藩者の事であるから、藩としては、この事件に表向き不関係の事」とした態度。維新後に於ける後藤の沈黙。菊屋峯吉や近江屋主人の、不確かな証言。これは、菊屋にしても、近江屋にしても、土佐藩御用達である。口止めや何かしらの圧力があったのかもしれない。お得意様の意向に、逆らう事はしないであろう。
薩摩にしても、長州にしても、岩倉卿にしても、この暗殺事件に対して、必死の犯人捜しなどしたような痕跡もない。これも、暗殺された人間の自藩である土佐が関係しているとなれば、興ざめもしよう。

「土佐藩黒幕説について」
土佐藩説が書かれる場合は、後藤象二郎を黒幕として挙げて置いて、作者本人が「それはないであろう」と、結論づけて終るパターンが大勢を占めている。大政奉還案を独り占めにしたいから、という事がそもそもの発端の説である。当然、龍馬関係の本を読み進めれば、龍馬と後藤の仲や、大政奉還案が龍馬から発せられた事を知る人間は、すでに周りにおり、龍馬を殺したとて、独り占めは出来ないのが分かる。
中岡慎太郎犯人説にしても、後藤象二郎説にしても、浅学から来るものであるが、それを推し進めて、何故に容堂まで行かないのかが、いつも不思議であった。

後藤にしても福岡にしても、前述したように、中岡は「後藤を斬る」とまで言い放ち、福岡に対しては暗殺未遂まで起こしている。
大政奉還前後というよりも、元々この二人は公武合体論であり、武力倒幕派の中岡とは相容れない訳である。
ただ、後藤と福岡の黒幕説となると、所々、矛盾点が多くはなる。
何故、龍馬まで暗殺されたのか? 中岡を狙っていたのに、何故、龍馬の居る近江屋で、わざわざ事件は起こったのか? 中岡を暗殺したら、流石に龍馬との仲が険悪になる筈である。そして、中岡を消したとして、身の安全が保障されるかといっても、中岡以外の、例えば陸援隊や倒幕の志士達からの危険は避けられず、武力倒幕を阻止出来るかというと、すでに、薩摩も長州も動いているから、得策とはならない筈である。

もしも、中岡暗殺を見廻組に依頼したとして、見廻組が私怨等から、独断で龍馬を巻き込んだとしたら・・・、という考えも出来るが、確かにそれならば、当初は中岡が主目的であったとして、後藤も福岡も後味が悪くなる。新撰組のせいにし、龍馬暗殺であったと、そして、中岡暗殺が主目的であるから、その存在を消し去ろうとするのも解る話である。
更に深読みすると、暗殺の当日、福岡も寺村左膳も、家を空けていたという事が、少々臭くなってくる。

今井信郎の「兵部省・刑部省口書」に、ある符号点が記録されている。
「同日昼八ツ時(午後二時)頃、一同は龍馬の旅宿に向かったが、桂隼之助が佐々木唯三郎から申しつけられ、一足先に偽言をもって在否を探ったところ留守中とのことで、一同は東山周辺で時間を潰し、同夜五ツ時(午後八時)頃再び訪れた」
桂隼之助が、先に近江屋周辺を探った訳である。これには裏付けもある。
前述した通り、午後三時頃と五時頃、龍馬が福岡邸を訪ねたのだが、その時、福岡の家人が龍馬に「先ほど、見知らぬ侍が、坂本さん(或いは才谷先生)は居るかと訪ねてきた」(←この証言が載っている本により、言い方はまちまちである)と、龍馬に報告しているのである。
当初は、今井の証言通りだなと流していたのだが、これは考えると妙な話である。
いかに、会津藩(所司代または幕府大目付)配下の見廻組といえど、土佐藩の重役の家に、これから暗殺しようとする土佐の人間の在否を訪ねるものなのだろうかと。福岡の寓居だったからか? 脱藩浪人だから関係ないと思ったのだろうか。
もしかしたら、福岡はやはり関係していて、それを知っている佐々木が桂に探らせた、否、情報を聞きに行かせた? とも深読み出来る。
だが、桂も事情を知らされておらず、「虚言をもって在否を探った」(あくまでも今井の証言ではある)としているから、黒幕に虚言をしてまで会いに行く筈はないだろう。たまたま近くの福岡邸を訪ねただけに過ぎないかもしれない。その後、密偵の増次郎と接触し、在否を確認したのか、命令を受けた土佐人から手引きを受けたのか、今の時点では、推理が思いつかない。
この事象を深く掘り下げ、何かしら自説に絡めた研究家が現れれば、それに越した事はないが。

福岡も寺村も、当日家に居なかったのは、確かに臭い。これは、事前に知っていた可能性を示唆する事も出来る。つまり、福岡らは、自分が指示したとしても、お殿様の命令であったとしても、当日は知らぬ存ぜぬを貫こうとして、家を空けたとも受け取れるのである。暗殺決行当日に、自分は関わりたくないといった心情が汲み取れるものだ。
ただ、前述したように、中岡を消しても、身の安全が保障されはしない。むしろ、陸援隊の隊士にでも知られたら、それこそ身の危険が増大するだろう。だからこその「暗殺」という選択だったのかもしれない。

いずれにしても、容堂を筆頭とした、土佐藩上士の誰か? とした方が、矛盾点は少なくなる。そう、あくまでも少なくなるだけではあるが。
当初、その容堂と会津藩の関係性も、よく分からなかったので、私としては「黒幕は判ったのだが、実行犯が判らない」と、逆の趣になってしまった。だが、その後は、様々な書物や情報を知るに付け、会津藩主の松平容保と容堂の接点などは、参預会議の成立などから、色々接点はあった事が分かり、後は発端を探すだけという事になった。
それに、直接、容堂と会津藩主の松平容保が会話をしなくとも、会津から、討幕軍である陸援隊の存在を聞き及んだ幕府側が、容堂を責め立てても、有り得る話となる。

幕末に於いての黒幕と実行犯は、意外と明かされているものが多く、中岡と龍馬暗殺のように、黒幕が不明なのは珍しいという研究家もいる。例えば先に書いた清川八郎の暗殺を指示したのは、諸説あれど老中の板倉 勝静(いたくら かつきよ)と言われている。
見廻組に命令を下すのは、京都所司代か、その上の京都守護職会津藩となる訳だが、その守護職に命令を下すのは、幕府の大目付か目付になるとも云われている。であるから、勝海舟(麟太郎)の日記に於いて、海舟が幕末当時の大目付である松平勘太郎から、今井裁判の事を聞いたが、松平勘太郎は「自分は知らない」と、不思議がったというエピソードも、勝の日記に付け加えられたのだろう。
見廻組が大目付の直接の指揮下に置かれていたとすれば、前述したように、幕府の老中か大目付が、容堂に苦言を呈したとして、容堂が配下の上士へ、大目付等に協力するよう命じればいい訳だ。協力ルートが変わるだけの話である。

大目付の松平勘太郎が、京都守護職、間接的にでも見廻組の動きを知らなかったとは(幕府内の噂も含めて)、実に不可解であるが、それだけこの事件は裏が根深いのだろうか。それとも、単に京都所司代の私怨(私怨といっても公務であるといえるが、事件内容は暗殺そのものである)に基づくものなのか? その所司代とも関係がある手代木直右衛門(勝任(かつとう):てしろぎ すぐえもん:なおえもん)の口伝がある。

「会津藩公用人:手代木直右衛門」
手代木直右衛門は、佐々木只三郎の実兄である。その手代木が、死の床で語った言葉がある。手代木家私家版『手代木直右衛門伝』によると。
「手代木翁死に先たつこと数日、人に語りて曰く『坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したり』と。蓋(けだ)し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り(はばかり)、終生此事を口にせざりしならん」(仕切ったのは確かに佐々木であるし、私は現場にも居たと考えている。故に、佐々木が殺した、としてもいいであろう)
ここで、紛らわしいのは「蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり」という文言で、これは、手代木家私家版『手代木直右衛門伝』を、書いた著者の言葉であり、手代木が言った言葉ではない。果たして、某諸侯とは本当に桑名候を指すのだろうか? 大体、手代木が会津藩に仕えていたのも、見廻組が守護職会津藩管轄(所司代管轄や幕府大目付直属など諸説あるが)であるのも、周知の筈である。明治維新後なら尚更だし、特に家族へ語っているのであれば、隠そうとしても白々しいものであろう。それなのに、わざわざ「某諸侯」などと言うだろうか。
ただし、これを以って、土佐の容堂候を指すとは言わないでおく。匂うという程度にしておこう。所司代の桑名候松平定敬(さだたか)は、会津候松平容保の実弟であったから、実兄の松平容保にも、害が及ぶのを恐れたという事なのだが、そうであるとしても、他にはっきりと言えない諸事情があったのかもしれない。
手代木は、維新後、新政府から罪を許され、要職に就いている(しかも、土佐・高知県の権参事という、現代でいえば副知事役も歴任している)。その際、桑名候ではなく、会津候であった松平容保に祝いの書状を受け取っている。かなり、近しい関係であったようである。

それよりも、私が重要と感じたのは、「当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり」という部分である。
維新後の談話であるとしても、当時の状況を語ったもので、龍馬に対して、「薩長の連合を謀り、土佐の藩論を覆して倒幕に一致せしめたる」という認識が、幕府側、或いは幕府配下の者達に、歴然とあったという事である。そして「土佐の藩論を覆して討幕に」「土佐の藩論を覆し」「土佐の藩論」、・・・何が言いたいかはお分かりであろう。
会津藩の人間が、大政奉還は土佐の藩論であるからという旨を、そこまで気にする事自体に、少々違和感を覚える。土佐の藩論を守らない坂本が悪い、といった感覚で物を言っている。土佐藩内の事情まで、気にする事はあるまいに。
つまり、「容堂候が掲げた藩論を覆して倒幕を行う坂本龍馬」に、というこだわりを覚える。実際、倒幕派は龍馬でなく、中岡慎太郎なのだが、まさか一脱藩浪人である坂本龍馬が、大政奉還の発起人だったとは、その時点で知らなくても仕方はあるまい。龍馬も中岡と同じく、倒幕の輩と誤解されても、幕府末端からすれば、これも分かる話である。ここでもやはり中岡の方が危険視される立場であった事が分かる。
言い換えれば「土佐の容堂候が掲げた藩論を覆し、倒幕を行う坂本龍馬は、深く容堂候の嫌忌を買ひたり」と、私には読めてしまう。これは私の勝手な解釈であるし、繰り返し証拠は無いと言っておく。
容堂は、大政奉還が、龍馬の発案である事を知らないし、龍馬や中岡といった脱藩浪人の事など、詳しく知る由もない。佐幕派の容堂は、「倒幕」という言葉だけでも、殊更に目くじらを立てるような人物であった事は確かであるが。

さて、ここで、『手代木直右衛門伝』を、書いた著者が言う、「之が累を及ぼすを憚り(はばかり)、終生此事を口にせざりしならん」として、例えば、松平容保や、実弟の桑名候松平定敬(さだたか)などが、いつ頃まで存命だったのかが、気になる。とはいえ、亡くなったから話しても良いという訳でもあるまいが、没年を見てみる。

松平容保      明治26年(12月5日)没
手代木直右衛門     明治36〜37?年没
松平定敬      明治41年(7月21日)没

なるほど、手代木が死の床にあった時、松平定敬は存命中である。が、実際に仕えていた松平容保は既に亡くなっている。とすると、『手代木直右衛門伝』を、書いた著者の言い訳は、少々食い違ってくる。
「桑名候は会津候の実弟なりしを以て・・・」という所は、松平定敬はもとより、手代木が仕えていた松平容保へ迷惑が掛かるからという事である。にもかかわらず既に松平容保は亡くなっている。
某諸侯が桑名候松平定敬を指すという指摘はやはり、『手代木直右衛門伝』を書いた著者の憶測でしかなかったのか、それとも存命の松平定敬に害が及ぶという事のみで「某諸侯」としたのか。
いずれにしても、松平家自体に迷惑が掛かるのを恐れたともいえるのだが・・・。

「汗血千里駒と再び福岡孝弟」
明治維新に入ったとはいえ、龍馬はさほど有名ではなかった。有名になったのは、明治十六年に土陽(どよう)新聞が、坂崎紫瀾(さかざき しらん)作『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を掲載してからだと言われている。つまり、福岡孝弟に訊いてきた人達は、明治十六年以降なのではなかろかと考える。そして、その影響は、勝海舟が明治三十年に「龍馬の事は、すでに誰もが知っているので・・・」と語っている所から、この頃までには広く知れ渡っていたといえる。

私は後々になって、普通に考えれば、福岡に尋ねた内容とは、「実行者は誰か?」という質問だったのではないかと考えたりした。つまり、訊いてきた側は、黒幕を訊いたのではなく、単に「誰が暗殺を実行したのか?」を訊いてきたと考えたのだ。『汗血千里駒』は、新撰組の近藤勇が実行者であるとしている。これは当然、読み物としてのものであるが、事実ではないとしても、実行者は新撰組という事で、福岡の話は終ってもよい筈である。
明治三年の今井信郎の裁判(取り調べたのは土佐側である。当時の警察機構は土佐が仕切っていた)は口外してはならず極秘扱いにされている。それ自体が不可解なのだが(当然、土佐藩黒幕であれば不可解ではない)、福岡はこの裁判が極秘であるから、「言っちゃいかん事になっとるんだ」としたのかとも考えた(にもかかわらず、その裁判の事は、勝海舟の耳にも入っている)。
だが、話の流れからすると、「新撰組ですか?」と訊かれて「見廻組の佐々木只三郎ではない」とは、答えないだろう。当時からしても、実行者が見廻組ではないかと、知られていた状況があったという事なのか? 「見廻組の佐々木只三郎が実行者ですか?」と訊かれて、「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」と答えたのだろうか? これは、佐々木ではなく今井が斬ったからという認識があったのか? 否、裁判で今井は見張りをしていただけと供述している。近畿評論は明治33年だが・・・。
これは違和感が無い。今現在の実行者候補として有力なのは、佐々木ではなく、桂隼之助であり、次に渡辺篤、次に今井伸郎である。当時としても、福岡が事実を知っていたのであれば、「佐々木只三郎・・・・・・、そうじゃないんだ」となるだろう。だが、土佐藩の重役が、誰それが斬った、誰それが見張りをしていたと、見廻組の実行犯一人一人まで、気に掛けるだろうか。
恐らくではあるが、話の流れで福岡が「佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」と言う事は、福岡に訊いてきた人々は当初から、実行者としてすでに有名である見廻組の佐々木只三郎の事は訊かずに、「誰が計画したのか?」を、訊いているようである。その答えが「言っちゃいかん事になっとるんだ。佐々木只三郎・・・・・・そうじゃないんだ」としたら、次は当然、所司代か、或いは幕府ですか? と訊かれた筈である。それが、「言っちゃいかん事になっとるんだ」という答えに連なっているのだとしたら、その方が自然だと思えるのだが・・・。

「死の真相を、ある筋から知っていた」という事から、福岡孝弟はこの事件に関与していないようだが、土佐藩が関与していたのなら、実行した見廻組の者達は、庇わないといけなくなる。だが、メンバーの名前を伏せておき、福岡が聞いた計画者が、仮に見廻組だったとしたら「計画したのも佐々木只三郎だ」と言っても、時系列からして福岡の晩年なら構わないように思われる。しかし、福岡は最期まで言わなかった。そして、真相というからには、実行者ではなく、黒幕を訊かれたのだと考えていいようである。

ここで、主な人物と、関係ある事象の時系列を記してみる。

明治3年2月22日 今井信郎「兵部省口書」 同年9月20日禁錮刑の判決。

明治5年6月21日没  山内容堂

明治16年  土陽新聞が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。龍馬が有名になる。

明治24年没  永井尚志 (幕府 大目付) 注釈:この人が黒幕という説もある。

明治26年12月5日没  松平容保 (京都守護職 会津藩主)

明治26年没  榎本対馬 (幕府 目付)

明治30年に勝海舟が書いた「追賛一話」(日記)では「龍馬のことは すでに誰もが知っているので・・・」と、海舟が語っている。

明治33年  「今井信郎実歴談」(近畿評論)

明治36〜37年?没  手代木直右衛門

明治37年2月6日、日露戦争開戦直前、皇后・美子の夢枕に龍馬が立ち、「私が海軍の軍人を守護致します」と言った。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣田中光顕(元陸援隊)が、龍馬の写真を見せた所、皇后は間違いなくこの人物だと語ったという。事の真偽は定かではないが、この話が全国紙に掲載された為、坂本龍馬の評判がまた全国に広まる事となった。

明治39年11月 谷干城の「近畿評論を駁(ばく)す」と題する演説

明治41年7月21日没 松平定敬(京都所司代 桑名藩主)

明治42年 取材を受けた今井信郎の、「和田天華への回答」

大正4年没 渡辺篤

大正8年没 今井信郎

大正8年没 福岡孝弟

こうして見ると、容堂候は早くに亡くなっているので、別段、福岡が容堂を庇わなくてもいいように思えるが、それでも土佐藩自体が関係していたら、自ら喋る事も出来まい。それになんといっても、自藩のお殿様である。
福岡が、人々に尋ねられたタイミングは、定かではないが、特に庇うべきは存命中であったかもしれない会津藩主と桑名藩主である。だとすると、あの事件を思い起こさなければならない。
寺田屋(襲撃)事件である。京都所司代指揮下の伏見奉行の捕り方百数十人(見廻組も一部参加している)が、龍馬を捕縛ないし捕殺しようとした事件だ。この事件は誰が指示したとか、指示した黒幕が誰だ等と語られはしない。龍馬は手配人だからという事で片付けられてしまうものだが(長州の三吉慎蔵を捕縛しに来たという説もあり)、果たして近江屋の事件と命令系統に差異があるのだろうか?
私はそれほど差異が無かったように思える。

土佐藩上士の多くは佐幕派とみていい。もしも、福岡が知っている黒幕が、容堂ではなく、幕府側の人間であれば、薩摩や長州よりも、幕府側の人間を庇う事は理解できる。だが、暗殺当時の幕府公務に関して、明治になってからはお咎めなしである。最も庇うべき相手、または、秘密にしておかなければならない相手は、すでに無い幕府の人間よりも、自藩である土佐の人間であるとした方が、自然であろう。

慶応三年十月十八日付の龍馬の書簡を読むと、慶応三年十月上旬に龍馬が長崎から京都へ入京する以前の九月半ば、すでに龍馬が入京した(京都に龍馬が徒党300人を上京させ倒幕に加わる)との間違った情報により、幕府の役人が土佐藩邸を訪れた、という話を薩摩の吉井幸輔より聞いたとある。
この時、土佐藩はどのような対応をしたのだろうか。この後に近江屋の事件が起こっている所を見ると、龍馬を正式な土佐藩士という認識のもと、幕府役人に説明していなかったと考えられる。やはり、あくまでも脱藩者という扱いをしたのではなかろうか。そして、ここからは私の妄想だが、この時の幕府役人の訪問により、未だ幕府側が龍馬を狙っていると土佐藩側は再認識して、これは利用できると思ったのかもしれないとの妄想が起こる。これはあくまでも妄想である。だが、土佐藩京都藩邸へ幕府役人の直接的な接触があった事は事実である。
話は逸れるが、この書簡に於いて、薩摩の吉井幸輔から、二本松薩摩藩邸へ入るよう勧められたとある。書簡に書かれてある通り、幕府役人が土佐藩邸へ尋問しに来た為、街中にいては用心が悪いからと言っている。これに対して龍馬は国表で不都合(脱藩の罪)があり、土佐屋敷には入れない。かといって薩摩屋敷に入れば土佐への嫌味となってしまうと答えた事が、この書簡に書かれている。これを、西郷は知っていたのか、近江屋事件を知った時、怒髪天を衝く形相で後藤に対し「ヲイ! 後藤! 貴様が苦情を云はずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こんな事にはならないのだ。全体、土佐の奴等は薄情でいかん」と、怒鳴りつけられて、後藤は苦い顔をし、イヤ苦情を云った訳ではない、実はそこにその色々・・・、「何が色々だ、面白くも無い、如何にだ貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねても、外にあの位の人物は無いわ、・・・惜しい事をした」と、後藤を怒鳴りつけたという逸話もある。


(つづく)


***欄外:メモ書き***

 後々本編で話すかもしれないが、話さないかもしれないので。または、すでに本編で話した事のまとめやメモ書き。
 このメモ書きは、追々更新されますが、その更新日はお知らせしない時もありますのであしからず。

*暗殺前、菊屋の峯吉が、中岡の使いで薩摩藩邸に行ったとする話は、土佐藩の旅館「薩摩屋」であるかもしれず、研究本によってまちまちであり、確定出来ないが、薩摩藩邸ではない可能性があった事。追記:恐らく大阪に有ったかもしれない「薩摩屋」の事かもしれず、そうなるとお使いどころではないので、やはり、薩摩藩邸か。
今井や渡辺の証言にある、書生または踏み入った際に居た「子供」が、峯吉ではないかという説もある。

*事件中、中岡が聞いた「こなくそ!」は、中岡側の数少ない資料本によると、中岡自身が「刺客が言ったのか、果たして龍馬が言ったのかは、分からない」としている事。
これは、盲点だった。伊予地方(愛媛)の方言と、よく研究書にも書かれているが、いわば四国弁でもあるのだ。実際、現場に駆けつけた関係者からの証言では、中岡が「こなくそ!」について、「まさか、土佐の者ではあるまいな」と言っていた話もあり、中岡自身、はっきりと断定出来ないものだったのだが、このことからも「こなくそ!」は、四国または当然、土佐の方言でもあるらしいし、龍馬が使った可能性もある訳だ。

*後藤が龍馬を土佐藩邸に入れなかったとか、薩摩藩邸に入るのを拒否した旨の話は、本編ですでに書いたが、補足として話せば、龍馬自身の手紙を読めば明らかであり、事実史料として龍馬の手紙を読んだ方が、変な研究書に惑わされなくなるという事。
龍馬がどちらにも気を使って、龍馬自身が藩邸に入る事をしなかった。
暗殺後、後藤が龍馬を、土佐藩邸に入れなかったから悪いと、後藤が西郷に責められた逸話があるが、ニュアンスとしては、龍馬の言う事がもっともだと思い、龍馬を強引には土佐藩邸に入れなかっただけだと考えられる。

*近江屋母屋の天井傷は、私が読んだ書物では刀傷となっているが、傷の大きさから鞘の先が触れたものだという事。そうすると、龍馬は鞘ごと受けたとあるので、愛刀である陸奥守吉行(むつのかみよしゆき)のものか、田中顕助から貰った中岡の朱鞘信国(しゅざやのぶくに)のものか、どちらかであろう。
ただし、実際に上段で振り上げたような刀傷もあるらしい事。これは刺客達のものか。
竜馬達の居た奥八畳部屋は、中六畳から奥八畳部屋に向けて、段々低くなる構造で、奥八畳部屋の天井はかなり低いので、こういったものが残ったという事である。

近江屋の母屋二階の暗さについては、確かに勢いよく踏み込めるものではない。中六畳は奥八畳部屋より高くなっており、奥八畳に行くには、段差(敷居)に躓く可能性が高い。
実際、刺客は躓いたかもしれない。どの書物も大抵は、藤吉との格闘を、龍馬が峯吉と戯れていると解釈し、「ほたえな!(騒ぐな)」と叫んだ(中岡が叫んだかもしれない)ように書いてある。誰も指摘していないが、私は刺客が躓いて音が出た可能性もあると考えている。

暗殺時、私は別段、勢いよく踏み込まなければならないとは思っていない。かといって、今井が言うように、正座して「暫くぶり」と言い、そこから斬り込まなくては、龍馬の額を横から斬った傷跡の説明がつかないとも思ってはいない。桂隼之助にしても小太刀の名人であり、実際に当初から小太刀を使う気だったのであれば、家屋の天井が低い事や、部屋内での格闘を想定していた訳だ。
敷居に躓いたとしても、そうでなくとも、暗がりの中、腰を低くして奥八畳までゆっくりと進んで行ったのではあるまいか。そして、居合い抜きの剣術を見れば明らかであるが、座している龍馬に対して、片ひざを付いて横から斬り付けたともいえる。母屋間取りとして、龍馬に近づけば近づく程、天井が低くなっていくからである。
ただし、襖が開いていたか、閉めていたかの問題は残されている。

*今井信郎の「坂本さん暫く、云々」の話を、信じられないのは、中岡証言から龍馬と中岡へ、ほぼ同時か、中岡の方へ先に襲い掛かったとしているからであり、渡辺篤の話からも、「踏み込んだ(急踏入候処)」としているからである。
大体、取り次いだ藤吉を、いきなり背後から斬り付けておいて、その後「奥の八畳の襖を開くと、二人の男が話し込んでいた。どちらが目指す龍馬か分からず、とっさの機転で『坂本先生お久しぶりです』と、座ったまま丁寧に挨拶をした。すると右手の男が顎をなでながら『ハテ、どなたでしたかなァ・・・』と顔を向けたので、これぞ龍馬に間違いなしと、その前額を抜き打ちざま真横に払った」というのは、やはりおかしい。
結果としてだが、二階にいる者を全員斬っておいて、二人に対峙した時「どちらが坂本か?」など、とっさの機転もあったものではないだろうに。

今井裁判については、土佐藩の佐々木高行が仕切り、今井に対する判決が軽い所からも、なにかしら取引きがあったと考える事も出来る。であるから、当然、その中味も疑わしいのであるが、そうであれば、今井は見張りをしていただけでなく、実際に斬り込んだ可能性も出てくる。もっともそれは、あくまでも実歴談に於いて語ったものであるが、果たして裁判証言と違う事を、友人にとはいえ話してしまうとは、禁固刑を受けた人間であるにもかかわらず、甚だ疑わしくなるのである。
ただ、私は今井が実際に斬り込んだ可能性もあるとは思っているし、否定材料が乏しいので(今井の帯刀している刀は長刀なので、屋内の立ち廻りは難しいという、決定的なものではあるが)、今井が斬ったのであっても、別段構わない。今井の言っている話が、虚言ばかりなのではないかと考えているだけだ。今井は、虚言を言わなくてはならない立場であったという事も理解しているつもりだ。

*事件前、龍馬が徒党300人を引き連れて上京させ、倒幕に加わる、とした誤報が伝わった。元々、京都には五、六人の海援隊隊士しかいなかった。誤報であるが、幕府の諜報力は恐ろしいものがある。実際に龍馬は、慶応三年十月上旬に長崎から京都へ入京したからである。

*事件当日、容堂は京都にはいない。ちなみに、西郷もいない。別段、黒幕がいなくとも、事は足りる。配下の者に命令をしておけばよいのであるから。まさか、容堂自身が、斬り込みに行きはしまい。
西郷にしても、京にはいない訳だが(大久保利通はギリギリ入京)、はっきり言えば、薩摩にしても長州にしても、倒幕の事で手一杯な為、龍馬を構っている暇など無いのである。暇なのは、当日、先斗町へ遊びに行ったり、芝居を見ていた土佐藩重役ぐらいのものである。

*土佐藩黒幕説は昔からあった。それが後藤黒幕説だけを言っているのならば、話は違ってくるが、いずれにしても、私のように土佐藩自体が関わっているとした説は、かなり昔からあった筈である。別段珍しくも無い。
それにしても、容堂を黒幕とすると、かなりの点が線で結べる。
万能論と言えるが、万能論は細かい証拠には、対応出来ない場合があり、落とし穴もきっとある事だろう。

*暗殺者が渡した名札について:今井伸郎が「松代藩」の名札を差し出したという話だが、これは近畿評論などで、「当時、坂本が親しくしている藩の一つが松代だったから・・・」と今井だけが言っているものである。私は「十津川」の名札(手紙という話もあり)だと思っている。一般的に、龍馬と親しい人間が十津川に多かった、としているが、そんな資料は見た事がない。せいぜい数人だろう(私が確認しただけでは一人)。数でいうならば、陸援隊の隊士の方が、十津川郷士は多かった。こうなると、事件当日、「坂本先生はご在宅か?」と言うよりも、「中岡先生(或いは、変名の石川か横山勘蔵か)は居られるか?」と、中岡を訪ねてきた可能性もある。であれば、藤吉などが、中岡の訪問客だと思い、二階に通したともいえる。
暗殺人が十津川郷士を名乗り、「白川(陸援隊)を訪ねたが居らぬゆえ、こちらに居られるかもしれないと聞いたもので・・・」と言えば、怪しまれない。
土佐藩の徒目付(かちめつけ)・樋口真吉の日記には、「度津川人(十津川)の手紙を、2人が灯火に照らし読んでいた時、突然、賊二人が切りつけてきた」と記している。

*近江屋の取次ぎについて:見廻組が近江屋を訪れた時、桂隼之助が女の声色を使って、家人を呼んだという話がある。そして、取り次いだのは、近江屋主人の女房で、龍馬はいないと言ったが、つい二階の方を見てしまい、佐々木が、龍馬は二階に居ると悟った、としている。
それはともかく、その後、藤吉に取り次いだとしても、取り次がないとしても、門を開けたのは近江屋の女房であった可能性が出てくる。それで藤吉は仕方なく、対応せざるを得なかったという事も言えてくる。そうすると、母屋二階から、藤吉は降りてきた筈なので、居場所は自ずと分かってしまう。

*中岡慎太郎と龍馬の暗殺に興味を覚えた頃、どの本を読んでも、暗殺場面がマチマチであり、どれが本当にあった暗殺場面なのか、はっきりとした時系列か、その場面場面の詳細を知りたかった。
これを書くにあたって、色々と書かれている暗殺場面を、まとめてみようと思っていたのだが、今となってはどうでもよいように思えてくる。せいぜい、これから龍馬暗殺を書く人の参考にはなる程度である。それに、書いたとしても読みづらい形になりそうだ。例えば「・・・刺客は帰り際鼻歌を歌っていた(注釈:これは鼻歌ではないかもしれない。何故なら、中岡の話を伝え聞いた証言者達の話を読むにつけ、鼻歌まじり等とは書いていないからである。刺客が、中岡に止めを刺した後に言い放った「コレニテヨシ」や「サアヨカラン」といった言葉が、和歌のように解釈されたかもしれない。ただ、私が読んだ資料本の中に、歌を吟じながら立ち去った、という文も目にしたように思うが、記憶は定かではない)」・・・と、このように、一つを取っても、やたらと注釈が長くなってしまうからだ。それに、時系列が前後する事が多そうであるし、でも、まとめるかもしれないが、いずれにしても、正確なものではない。それを参考に、どの暗殺場面の筋を取り上げるかという事のみ、役には立つであろうが。

*それにしても、明治維新に入ったとはいえ、龍馬はさほど有名ではなかった。有名になったのは、明治十六年に土陽(どよう)新聞が、坂崎紫瀾(さかざき しらん)作『汗血千里駒』を掲載してからだと言われている。そして、その影響は、勝海舟が明治三十年に「龍馬の事は、すでに誰もが知っているので・・・」と語っている所から、この頃までには広く知れ渡っていたといえる。
であれば、松平容保や松平定敬は存命期間であった。新撰組が犯人だったと、巷では云われていたとしても、なぜ、この二人のどちらかにでも、龍馬暗殺の事を訊かなかったのだろうか?
今井信郎の、「和田天華への回答」は、明治四十二年だから無理だとしても、近畿評論に今井信郎実歴談が掲載されたのは、明治三十三年である。元桑名候松平定敬は存命中である。

*取次ぎの際に渡された「十津川」の名札か手紙が、あったとか無いとかいう話を、やたらと気にしている読み物もあるが、何かしら十津川郷士を詐称した事は確かなのではなかろうか。
現場に名札が無かったとして、谷干城の作り話などと言っている人は多いが、谷の反論を読めば、
「普段から非常に警戒していたので、松代藩などと言って来ても会わないのであるが、十津川の者は終始出入りしていた(これは、陸援隊の十津川の者であろう。大政奉還前後、武力倒幕を推し進めない龍馬に、やたらと嫌味を言いに、とっかえひっかえ来たという話がある)。勤王論者が十津川に多かった。それで、賊が十津川と言って訪ねてきたから、取り次ぎも安心して通したのである。十津川ということを詐称されたというので、十津川人が大変怒って、すなわち三浦久太郎を斬りに行った場合にも、十津川人が参加していた。十津川人の中井承五郎という者は、大分人を斬った様子だったが、新選組によってとうとう斬られてしまった」
所謂、天満屋事件であるが、そこに名まで明らかな十津川郷士が、参加した理由としても語られているのである。こうなると、 十津川の名札か手紙が、あったとか無かったという話よりも、十津川と名乗ったから通したという事になる。
谷がやたらと、十津川に拘っているのが、何かしら「十津川郷士に、この事件の本質がある」と、私には勝手な解釈として聞こえてしまうのだが。
十津川郷士は陸援隊に多かったからである。念の為繰り返すが、あくまでも、私の勝手な解釈である。証拠はない。
「どうぞ私が申し上げたことを御記憶の上で、御研究を願いたいと思う」
谷の演説の締め括り間近の言葉である。

*薩摩藩が新撰組、或いは見廻組とも繋がりがあり、龍馬の居場所を実行犯に密告して暗殺が行われた、とする話を最近見かけるようになった。新撰組はともかく(薩摩藩は元新撰組の御陵衛士を匿っていた)、見廻組は、あくまでも薩摩藩の敵である会津藩の管轄なので、どうしても「見廻組に密告した」と、当然会津藩に根回しや命令を下せる立場では無いように、密告でしか成立しない事を踏まえての話なのだが、果たして「密告しか出来ない者」が「黒幕」と言えるのだろうか。密告者はあくまでも密告しただけに過ぎない。黒幕とは、「暗殺の命令を下した者」であり、「密告しか出来ない者」を、黒幕と言ってはいけないと思うのだが。薩摩藩説の苦しさが、滲み出ている。

*見廻組実行部隊に、所司代桑名藩の藩士が雇われている所に、実行部隊の不思議さがあるようだが、龍馬は伏見奉行所の同心殺しという罪名があるので、別段、不思議ではない。。
諸説あるので、非常に確定しづらいのが、見廻組は会津藩直轄なのか、幕府大目付なのか、所司代なのかという事である。
ネットで調べても、各々主張が異なるのである。

*実際、近畿評論談のように今井が実行犯であっても不思議ではないし、それでもいいと思っているのだが、「坂本さん(先生)お久しぶり」云々は、明らかに中岡の存在を無視した形にしていて、むしろ龍馬暗殺主目的であったとすれば、土佐藩は疑われずに済むという作為的な思惑を読み取れる。
なぜなら、暗殺目的が龍馬であれば、当時の政治的状況から、薩摩にしても長州にしても、うるさく嗅ぎ回らないであろうと・・・。逆に、中岡は倒幕派であり、この時期、特に薩長と連携を深めていて、親密であった為、黒幕である土佐藩としては、対外的に「龍馬が新撰組にやられた。中岡慎太郎は巻き込まれただけ」或いは「龍馬も中岡も新撰組にやられた」として置かないと、立場上、黒幕の土佐藩としては非常にまずい訳である。
これは、事件後から中岡を無視する動きに呼応した理由としては、決定的であるが、裁判にしても、武士社会が残っている為なのか、身分が低いとはいえ武士である龍馬の裁判はしておいて、中岡は、下僕の藤吉と同じ扱いをされている。中岡が庄屋出身の身分だったからか? これも、云わば研究者ばかりか、正統な歴史家も、あまり表立って言わない理由なのだろうか。現代人が考えているよりも、身分差別は根付いているのであろうが・・・。
慎太郎の家は、大庄屋という中小の庄屋を一括に管轄している身分であり、中岡家は武士でないものの、武士の特権である名字帯刀が許される、いわゆる郷士身分だったともいわれている。
慎太郎の剣の腕前に関しては、1856年、江戸の剣術修行にて、武市瑞山に帯同し、桃井春蔵の士学館・鏡新明知流にて剣術修行をしている。翌年の1857年、慎太郎二十歳の時、野友村の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね)と結婚している。

*後藤 象二郎と新撰組の近藤勇とは、仲が良かったらしい。ウマが合うともいえる程、意気投合していたとか。ただし、近藤勇の興味は、土佐の大政奉還により、幕府を生き延びさせるという事にあったからだと思われる。それを、後藤からもっと詳しく聞きたかったという事もあったのであろう。
であれば、後藤から、中岡にしても龍馬にしても、新撰組の手に掛けないでくれ、ぐらいは言っていたと思うのだが。

*永井尚志が黒幕という説があり、なかなか有り得ない話ではないと思う。龍馬と親しくなる前に、暗殺指令を下していたとして、それを撤回するには、末端まで届くのに時間が掛かると思われるし、永井自身、結構人柄が悪い人間であったという事も述べられている。
だが、そうだとすると、やはり中岡慎太郎を無視した形になるし、永井が指図者であれば、さすがに勝海舟の耳に入っていてもおかしくはないと思うのだが。それに、勝海舟の日記にも登場した、幕府大目付の松平勘太郎に知られていてもいい訳だ。ここら辺は、確証はない。大目付の松平勘太郎は、「見廻組に指図したのは、目付の榎本対馬か?」 と疑問系にしているから、永井だとしても、極秘に遂行したともいえる。注:大抵の資料は、勝海舟が「榎本対馬か?」と、言っているように書かれてあるが、松平勘太郎が言った事を、勝が日記に書いた。
私も馬鹿ではないので、通説通り中岡が巻き込まれただけという視点からの説も考えている。実際、中岡は見廻組に狙われてもおかしくはない立場であるが、永井尚志が黒幕であれば、龍馬主目的の要素は色濃くなるだろう。であれば、実行者達は中岡を龍馬と間違えて止めまで刺していたとしても不思議ではなかろう。見かけからして、中岡の方が立派な武士に見える事だし。
これは、まだ先に書こうと思っていたのだが、新証言では、龍馬も滅多打ちにあい、止めを刺されているらしい。
中岡暗殺主目的の肝は、「最初かほぼ同時に、中岡が斬りつけられた」という事と、「龍馬には止めを刺してはなく、中岡の方に止めを刺していた」なのであるから。

*中岡慎太郎の大政奉還論
大政奉還論は、元々、幕臣の大久保一翁や勝海舟等々、幕府の中でも知識人達は皆、ある程度考えていた論である。龍馬は勝海舟のおかげで、そういった人間と懇意にさせてもらい、大政奉還論を教えてもらったのだといえる。ただし、それを実行するタイミングが、龍馬は絶妙だった。

中岡慎太郎も、類稀なる論客である。慶応二年九月頃、中岡も大政奉還を論文にしたためていたという。そして、大政奉還が行われたら、内戦が起こるとまで予見していたとの事。結果はご承知の通り、中岡の予見通りになった。であるからという訳でもなかろうが、実際に大政奉還が成った後でも、中岡は武力倒幕論一筋という事もあり、内戦に向けての準備を進めていた。
龍馬は内戦を防ぐ為、薩摩や長州、更に中岡に対しても、色々説得を試みていた。暗殺当日、風邪を引いていたにもかかわらず、二度に渡って福岡邸を訪れた理由(前述)からも、中岡に対して、だいぶ骨を折ったに違いない。さすれど、内戦を防ぐ事は、薩長の動きからみて、現実的ではなかった事だろう。

大政奉還後、王政復古を断行した薩長は、中岡の予見通り「鳥羽・伏見の戦い」へと突入してゆく。だが、その内戦を終わらせようとしたのは、武力倒幕を中岡慎太郎と共に完遂する筈だった西郷隆盛と、龍馬の師匠である勝海舟であった。江戸城無血開城は、さながら、中岡と龍馬の代理人同士の話し合いからであったと言ってしまおう。
中岡が言った通りに内戦が起こり、血は流されたが、それを踏まえても、龍馬が望んだ無血革命も成った。実にドラマティックである。
結局、その後も函館戦争まで、内戦は続いたが、一つのヤマ場ではあった訳だ。

西郷は、以前から勝海舟とは会っており、勝と龍馬の師弟関係を知っていた為、龍馬の師匠である勝が登場して来て、薩摩藩の武力強行派を後ろに、かなりやり辛かったに違いない。
勝海舟は、慶喜と仲が悪かった(どちらかというと慶喜が一方的に勝を嫌っていたらしい。それでも勝は明治以降、慶喜の地位回復の為、奔走する)とはいえ、慶喜の命令で、西郷との会談に臨んだ。勝の江戸っ子べらんめぇ調は、本当かどうか分からないが、「お前さんねぇ、江戸を火の海にした後、いったい何をするつもりだい?」と言ったかどうか(笑)勝手な想像であるが。
幕府側の経済的理由があるとはいえ、約260年続いた徳川幕府の江戸城引渡しは、苦渋のものがあったであろうし、決戦を繰り広げようとした薩摩と長州の武力倒幕派を抑え込むのには、並々ならぬ労力があった事であろう。
両人とも、日本の未来を見据えたがゆえの、江戸城無血開城であったといえるだろう。


***どうも最近このページを話題にしてくれているツイッターやブログ等がありますが、それには「龍馬の方が巻き込まれた説」と紹介されている所が多いので、あえて言いますが、この説は「中岡慎太郎暗殺が主目的」或いは「二人同時に狙われた」という主旨であります。
それと、本文を無断掲載しているブログ等がありますが、せめてリンクぐらいはしてほしいものです。別段、研究書からの引用が多い、ただのお話なので、当然、著作権は主張しませんが、見かけた二つの空間のいずれも、このページに対するなんの紹介もなく、その人が書いたようになっていましたので、これは少々気分が悪いものです。ま、怒りはしませんが、リンクはして下され。
とはいえ、このページに於ける私の推理などはオリジナルですが、このページを参考に、推理が発展していくのであれば、それに越した事はないのです。
このページは、他者が書いた書物等に対しての論説であります。時間も掛からないし、手っ取り早くゴールに辿りつけるという事もあり、むしろ、それならば、私が本など独立した形で著作権を主張出来ないよう、自らその作りを目的としていると言えます。つまり、自分の著作権を主張しない、或いは主張出来ないように自らそれをコンセプトとし、他者の意見や考え方と共有、または他者が私の論説で発展出来ればそれでいいとしている訳です。***

注意:このページにて引用され、または取り上げて推し進めた元々の証言や、研究書による定説ともなっている証拠や当時の状況などは、不確定要素を多く含み、必ずしも事実とは言えず、追々研究が進んで行く中で、伝えた者の虚言であったり、間違った認識のもと、紹介されたものである等、証拠とならないものが多々出現してくると考えておいて下さい。あくまでも、中岡慎太郎が好きなサイト管理者による、謎解きの「お話」でありまする。
そして、誤解無きよう言って置きますが、私は中岡慎太郎は好きですが、坂本龍馬も好きであります。中岡が好きだからといって、龍馬を敵視するような気持ちはありません。

引用文献:歴史群像(学研)・龍馬暗殺の謎を解く(新人物往来社)・龍馬の手紙(講談社学術文庫)

参考文献:中岡慎太郎(宮地左一郎著)・中岡慎太郎(尾崎卓爾著)・中岡慎太郎 陸援隊始末記(平尾道雄著)・龍馬の手紙(講談社学術文庫)・幕末 維新(実業之日本社)・暗殺の歴史(廣済堂文庫)・坂本龍馬(世界文化社)・坂本龍馬新聞(新人物往来社)・坂本龍馬大事典(新人物往来社)・竜馬がゆく(司馬遼太郎:全巻)・幕末維新暗殺秘史(新人物往来社)・龍馬暗殺 最後の謎(新人物文庫)・龍馬を殺したのは誰か(河出文庫):その他多数、及び多数のサイトを参考にしています。

友好関係書籍:龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた(中島 信文)

資料サイト:リンク切れ


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