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・・・独白。 

ちなみに、この空間に於ける、更新のお知らせは致しませんので、あしからず。
そして、これら「独白」は、グローバルに向けて、発している部分もありますが、大体は自戒の意味も込めています。
よく忘れるので、ここに書いておいて、身に付ける為もあったりするのです。
そして、これらの言葉は 
「詩」ではありません。

2004年度版へ

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とはいえ、大体に於いて、考えても結論の出ない時には、何もしない方がいい。
下手に動くとロクな事がない。
本当は人が何も考えずに突っ走れる時というものは、、大抵勝算がある時だけである。
だからこそ、バランスよくギリギリの所でも、上手くいくのだ。
なぜに下記のように言ったかというと、若いうちは突っ走った方がいいからである。
何もしないより、失敗して物事を覚えないと身に付かないから。
(苦笑い)
突っ走って失敗しても、若さで乗り越えられるからね。
実際、上手くいく時もある。
多くの失敗があり、たったひとつの成功しか得られなくとも、それも成功のうちに入る。

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人の人生に於いて、大体は、考えても結論が出ない時の方が多い。
そういう時は、突っ走ってしまった方がいい。
ただし、その時は無心である事が条件だ。
そうすれば、後は勝手に脳と肉体がバランスよく動いてくれる。
何も考えずに走れ!

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女とは、繊細な生き物ではなく、複雑な生き物である。

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迷いの砂漠の精霊達が、アスファルトに散らばるガラスの破片を拾い集め、
「都会こそがオアシスだ! 都会こそがお前達を方々から集める」
と、手を血だらけにしながら見せびらかす。

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都会に投げ出された白夜の日には、ただ、行き場もなく、
煙草の煙にむせながら、一人銃を取る。

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古く良いものが無ければ、新しい良いものは生まれない。

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現在居る場所で、踏みとどまり、頑張る事。
そうすると、力もついて、ひとつレベルアップした次世界へと行ける。

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中原中也は、お祈りは卑怯だと言う。他人任せだからだ。
中原の生とは、告白してゆく事だ。自身もそう言っていたし、詩もそうであった。
祈りとは、告白と共に湧き上がる、歌のようなものであってほしい。
私はそう願う。

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不健康になってしまうから芸術なのか?
芸術だから不健康になってしまうのか?

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昔に観たボブ・ディランのドキュメンタリー映画『ドント・ルック・バック』に於いて、
同じフォークシンガーのドノバンに対し、ディランが「敗者の理論だ」と、批判していたのを思い出すと、
確かにそれはそれでカッコいい。
が、「負け方の上手さ」を持ち合わせている人間も、それはそれでまたカッコいいものである。
非常に難しいものだが、自分自身で強いものを一つでも持っている人間ならばそれが出来る。

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目の前に、生身の私が現れたとしても、詩を書く人間である私には、決して会う事は出来ないだろう。
誰にも分からない未来に、希望は持てても、謳い上げる事は出来やしない。
私は過去に存在する男。
誰しもの、青春時代にしか出会う事が出来ない、在りし日の幻影。
『銀河鉄道999』調

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自由を勝ち取った後は、とかく儲からないものだ。

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同時代に合わさる、青春共時性。
ヴェルレーヌとランボォ。
小林秀雄と中原中也。
ジャン・コクトォとレイモン・ラディゲ。
ボブ・ディランとブルース・スプリングスティーン。
佐野元春と尾崎豊。
マーロン・ブランドとジェームス・ディーン。
長期的で理論派な青春性と、早熟で天才的な青春性との組み合わせ。
スプリングスティーンだけ、ちょっとタイプが違うかな。

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新しいものを作るにはどうしたらいいか?
「新しい表現」は、比較的映画だと作りやすい。
映像、音楽、役者、台詞。と、組み合わせが広がるからだ。
しかし、クラシックピアノだと、同じ曲を弾くから、パターンは限られてくる。
でも、弾き手によって新しくなるものなのだ。
そういう意味で、ショパンコンクールでのブーニンは、確かに新しかった。
なぜ新しいのかというと、タイミングだ。次の小節に行く時のタイミング。節のスピードの強弱。
それがどれもピタリとはまっていて惹きこまれたし、いままでのショパンの曲の解釈とは違っていた。
そのタイミングが、偶然ではなく、常に行えるとすれば、これが他と違った才能の持ち主となるのであろう。
他と違うのだから新しいとなる訳である。

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自分が興味ある事は覚えやすい。脳はそういうふうに出来ているらしい。
だが、自分が興味のない分野を覚えようとする時、特に仕事などでだが、
感情が攻撃的にならなければ、新しく覚えられない。
攻撃的になるから、自分の能力以上の力を出せるのか、
自分の能力以上の力を出すから、攻撃的になるのかは分からない。
「やさしさ」が自分自身にある時、攻撃的になってしまった自分に嫌気が差す。
そして、元に戻ったりする。
馬鹿にされたりするぐらい能力が落ちたとしても、それでいいと感じる自分がいたりする。

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自分を変えたいと思い、実際に変わり、暫くすると、やはり元に戻りたいと感じたのは私ぐらいだろうか?
特に、人との対応などでは、そう感じる。
元々、人見知りするほうだったのが、ハキハキと受け答えをするようになり、結局嫌気が差したものだ。
今は、半々に戻した。

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「俺がロクな大人にならないって? そういうアンタが、マトモな大人なら、ロクな大人の方がマシだ!」

『イアン・クローデルの日常』より

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私のまわりに、クスリなど、やった事がある人間がいて、勧められた事もあったが、
そのクスリをやる意味が解らない。私などは、控えめにみて、確かに作り手側の資質を持っている訳だから、
悪いが、通常の人間より、脳内麻薬物質が多いと感じる事がある。クスリなんかやらなくても、
トリップ出来る訳である。それ以前に、クスリをやる事によって、どれだけいいことがあるのか?
もしも、永遠にスーパーマンみたいになれるのであれば、話しは別だが、たかだか、一時の慰みものである。
酒に於いても、ストレス解消で飲んだ事のない私にとって、一時にしか続かないものなど、無用の長物だ。
しかも、とにかくこの世に於いての行動をする為に、使用せざるを得ない、この肉体が、
一時の慰めの為に、ボロボロになるのであれば、むしろ卑怯にも死んだ方がましだ。
ダウンタウンの松本仁志は、
「クスリを使っての作品を信じる事は出来ない。なぜなら、クスリの力を頼って出来上がったものだから、評価が出来る訳がない」
然り、その通りである。
唯一、許される存在があるとするならば、近年に於いては、尾崎豊である。
尋常ならざる「悲しみ」を、人より感じやすいその感性に於いて、この世で存在する事は辛すぎる。
そして、彼のように、使命を以って生まれて来たような人ならばなおさらだ。
只の人間、更には普通のアーティストぐらいならば、真似する事が出来ない程、
真似してはいけない程、彼の感受性は違い過ぎるのである。

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これまで、人の素質の事を書いてきた訳だが、ある特定の分野に於いて、
素質が無いからといって、悲観することはない。
確かに、自分が「こう在りたい」という分野に、素質が無かったとしたら、悲観してしまうだろう。
しかれど、素質は誰にでもある。ようは、早く自分に向いた分野を見つける事だ。
ゴルフの宮里藍選手は、フィギアスケートの選手にはなれないのだから。

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以前、上岡龍太郎氏が、
「なぜに、こんなにも漫画が原作のドラマが多いのか。
いかに漫画家が、ストーリーテラーとして優れているかの証明である」
と言っていたが、その通りだと思う。

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全ての人に好かれようとしては駄目である。

自分で考え、自分を貫く事。
よく、たとえそれが悪しき道でも、とは言うが、それは駄目だ。
考えていない証拠である。

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例えば、貴乃花と同じ体格、或いは貴乃花よりも大きな体格を持っていて、
貴乃花と同じくらい稽古を積んだとしても、貴乃花のようにはなれない。

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プロとは職人だと考える。つまり、芸術家とは違う。
プロは鍛錬の賜物でもある。
職人技が芸術に近づく事はあれど、基本的には違う。
だが、私は職人技が好きである。
プロになれる人は、日々の鍛錬があれど、やはり生まれながらになるべくしてなる。
自分が好きなものに対して、努力を厭わない。努力とも感じない。
好きな道であるから、しつこくする。それを、他人が見たら努力しているように見えるだけだ。
これは芸術家などにもいえる。芸術家もしつこい。が、ここでもう基本的に違うのである。
芸術家は生まれた時から、すでにプロであり、職人技を踏まえてから、超えている所にあると感じる。

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人から嫌われる要因の一つとして、自分ばかり「楽」をしているというのがある。
そういった場合、押し付けでなく、常に人の面倒をみてやる、といった行動を示す事が解決に繋がる。

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以前、「知っていても実行しないのは、知らないのと同じ事だと言うが、
実行しなくとも、まったく知らないよりは、まだましである」と書いたが、
これは個として作品を作る場合などの、個だけに関わる場合のみ、あてはまるという事に限定される。
自己表現以外の現実に、他人が関わると、そうも言ってられないのである。
自我に、他者が関わる場合、口より行動で示さなければ、やはり信用を得られない。
世間と関わるならば、そうしなければやっていけないのである。
そういった意味でも、芸術家など、性格的に嫌われる人格が多いのも致し方ないとも言える。

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一匹狼とは、群れたくないという事だとして、私などはそういう性分である。
でも、そういう私でも、仲間はずれは嫌なものである。
だが、あまり団体行動は取りたくない。
確かに、扱いにくい人間である。
いわば、一匹狼には、団体などの協調性や継続性を求めず、
必要な時だけ役に立ってくれればいい、というスタンスで接してもらえると上手くゆく。
実に都合のいい話しだが、団体よりは、リスクの高い生き方であるという事を理解してほしい。

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人と違う事で発生する絶対的孤独を、理解してくれる人は少ない。

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脳の普段使われている使用率は、二割から三割程度と言われている。
人は時に、その比率が四割から五割もUPする状態になる場合があったりする。
そういう時というのは、まわりの対応が遅く感じ、自分一人でイラついたりする。
他人に対して、当たりが強くなったりもする。
そして、常にエンジンが、かかりっぱなしのような状態で、精神的に休まる暇がない。
こういう状態というのは、非常に危険であり、どこかで止めておかないと、大きな事故につながりやすい。
何故ならば、この世界は、「熱エントロピー第二法則」によって支配されているので、
これが、人間の脳でも当てはまり、エネルギーを普段よりも多く使っているならば、
当然、消耗も激しく、「終わり」が早く訪れる訳である。


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